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CE2019/02/25 JST 作成
CE2021/09/14 JST 最終更新
蛭川立

「人類学B」2021/11/30 CE 講義ノート

さて前回は、インドネシアのバリ島における象徴的な二元論、双分法という話題でした、これが唐突でわかりにくいということであれば「文明社会の神話的思考」という角度から考えてみれば、わかりやすいだろうか、ということです。どうやらヒトの脳はデジタルに動いているらしく、何事も白黒つけて分類して理解するという認知をするようになっているようです。

バリ島の話に戻りますが、それはさておき、芸術性の高い文化です。このことは、長い記事の後ろのほうに書いたこととも重なります。人間は労働する動物であるとも言います。日々の労働を通じて、自然をコントロールして、そこから生活の糧を得ます。これが社会を進歩させてきました。しかし、ヒトはパンのみによって生きるのではない、とも言います。労働という「ケ」の時間とは別に、芸術や宗教という「ハレ」の領域があります。人間は芸術と宗教を持った動物でもありますし、それが人間を他の動物とを分ける特徴でもある、というのが、この人類学の授業のテーマでもあります。

この人類学Bの授業の最初のほうでは、人類の進化史を振り返りました。あらためて「化石人類の物質文化と精神文化」という記事にリンクを張りますが、言語を用いる、社会を作るということが人間性の進化であったと同時に、芸術や宗教もまた、人間性の進化であったと、そういう歴史を振り返っています。宗教というと抽象的ですし、キリスト教や仏教のような整備された宗教のことを思い起こしがちですが、人類学で宗教といった場合には、もっと広い概念です。たとえば葬送儀礼です。盛大な葬送儀礼はバリ島の文化を特徴づけるものでもありますが、葬送儀礼、葬儀を行わない文化はありません。そして、その起源は、現生人類の誕生よりも、もっと古くに遡ると考えられています。

しかし同時に、技術が進歩し、社会が近代化することによって、むしろ技術的な効率が求められるようになり、人間本来の芸術性は後退して、わかりにくくなっているところもあります。宗教についても、それが原初的な畏れといった感覚から、組織化し、ときに政治的な権力と結びつき、ときには反社会的な性質を帯びるようにもなってしまいました。

ここで地理的な場所を、インドネシアよりもさらに南の、オーストラリアに移動してみます。オーストラリアは、他の大陸に比べて、地理的に隔離されてきました。動植物も独特ですし、先住民族の文化も独特です。オーストラリアの先住民族は、農耕も牧畜も行わずに、狩猟と採集を生業としてきたという点で、世界でも最も原始的な文化であるとされてきました。しかし、何万年もの間、停滞してきたわけではありません。物質文化においては原始のままのような生活を維持しつつ、独自の精神文化を発展させてきました。

オーストラリアの先住民族を特徴づけるものは、ひとつは非常に複雑で抽象的な婚姻体系ですが、これは、あまりにも複雑すぎるので、説明を省いてしまいますが、もうひとつ、抽象的な美術があります。これは「オーストラリア先住民美術」という記事に書きました。オーストラリアには、何万年も前のものとそっくりな岩壁画が残されていますし、同時に、先住民美術は、現代美術の最先端のような抽象性を発達させてきました。

人類学の分野からは外れてしまい、すこし精神医学や臨床心理学の専門的な議論になってしまいますが「精神疾患と創造性」という話題も、補足しておきます。現代では脳の研究が進み、精神疾患は遺伝的な素因による脳の病気であるし、薬で治すという時代になりました。しかし同時に、ヒトが本来持っていた芸術性や宗教性が、物質的な効率化を進めてきた近現代の都市社会の中で、逸脱したものとして、病気として周縁化されてきたのだ、という側面もあります。精神疾患は遺伝的な素因が大きいということを書きましたが、これは、かならずしも差別ではありません。こうした遺伝子が、何万年にもわたって子孫に受け継がれてきたことには理由があるはずですし、それは、人間の進化の過程では、逸脱というよりは、創造性を生み出す能力として、遺伝的に受け継がれてきたのかもしれない、という可能性がある、というわけです。

「身体と意識」2021/11/26 CE 講義ノート

精神展開薬」について議論できればと思いつつ、後回しになって、毎週のスケジュールが前後しています。日本や西洋には、こういう薬物や薬草を使う文化的伝統もありませんし、なかなか身近にない薬物ですから、当然、使ったことがない人も多いわけでして、説明が難しいところがあります。それで、回り道をしています。

精神展開薬を使う文化的伝統があるのは、中南米の先住民社会に偏っています。そういう成分を含む植物は世界中にあるのですが、他の文化では使わないんですね。なぜかはよくわかりません。世界各地の少数民族の文化については、これは人類学のテーマになるので、それはまた話が長くなってしまうので、この授業ではあまり扱いません。

たとえば、シビレタケとかワライタケとかいうキノコがありまして、これは日本など世界中の温帯地域に自生しているのですが、これを積極的に食用にする文化を持っているのは、中米の先住民族だけです。

シビレタケとかワライタケというのも、それを食べて痺れたり笑ったりした人がいたので、そういう名前がついたのでしょうが、日本ですと、たまに食べて事故を起こしたという歴史しかないのですね。ちなみに日本では、これらのキノコは麻薬および向精神薬取締法によって所持が禁止されています。山に生えているものを手に取った瞬間に麻薬を所持したということになり、犯罪になってしまうので、ご注意を。

さてこれらのキノコには、シロシン、シロシビンという精神展開薬、サイケデリックスが含まれています。それを服用するとどんな体験があるのか、メキシコまで行って体験してきた日本人が、日本語で語った体験談を「精神展開体験と自我」に書いておきました。私も行ってきたことがあるのですが、判断中止、純粋経験、無分別知など、哲学や宗教の難しい概念が出てきましたが、そういう体験だとしか言いようがないと申しますか、むしろ、人類は昔からそういう特殊な体験をしてきて、そこから哲学や宗教ができてきたという歴史があるわけです。しかし、中南米の先住民の薬草文化と、ヨーロッパで発展した哲学や学問との間には、なぜか断絶があります。

しかし、前回の授業も、いままでの授業でもそうなのですが、大麻について話をすると、関心を持つ人が多いですね。関心を持つ人が増えてきたようです。もともと危険な薬物として悪名高いというか、誤解されてきたこともあり、聞いたことぐらいはあるでしょうし、最近ですと、欧米などで規制緩和が進んだり、医療用に使われるようになってきて、本当に危険なのか?病気を治すのに使えるのか?と、そういう関心が増えてきたようです。

大麻にはカンナビノイドという物質群が含まれていますが、カンナビノイドにも弱い精神展開作用があります。インドでは宗教的な文脈で使われてきた薬草でもあります。カンナビノイドは精神展開薬としては作用が弱いので、その点では脳神経科学的にはあまり面白くないのですが、しかし、インドという場所が重要です。海外では大麻が一般的で、というときに、ついつい欧米のほうを向いてしまうのですが、アジアの文化にも目を向けましょう。深い歴史があります。

世界の哲学や宗教の多くはインドに由来するのですが、そのインド文化の背景には、この大麻という植物の向精神作用があるといえます。精神展開薬を含む植物の使用と、哲学や宗教という文化、インドでは連続性があるんですね。そこは非常に興味深いことです。

この大麻につきましては「大麻の向精神作用と精神文化」にまとめておきました。大麻というと、依存性の強い危険なドラッグだという、悪い意味でよく知られているところもあるようですが、依存性というのは、あまりありません。向精神薬の依存性については「薬物依存」に書いたことを参考にしてください。

哲学というとヨーロッパの哲学をまず考えてしまいますし、その背景にあったのはキリスト教という宗教です。しかし、哲学の起源はもうひとつ、古代のインド哲学のほうにもありました。哲学というのは二千年前のギリシアとインドの相互交流から生まれてきたのですが、その後、古代のギリシアの哲学が近代のヨーロッパで再発見され、いわゆる哲学として発展しました。いっぽう、古代のインドの哲学は、哲学というよりは、むしろ仏教という宗教として発展し、アジアの東半分に広がりました。さらに現代では、仏教は西洋世界など、世界中で再評価されています。

西洋の哲学は高度に発展したのですが、言語で議論するだけの学問になってしまって、体感が失われてしまったといえます。哲学というと難しい学問だという印象があるのですが、理解しにくいのも当然でして、それは、西洋の哲学が、身体で感じる感覚を失ってしまったからだともいえます。

インドの哲学の特徴は、頭で考えるだけではなくて、身体で理解する方法論とセットになっていることです。瞑想です。古代のインドのサンスクリットではヨーガといいます。いま心も体もキレイになるということで流行しているヨガですね、それから瞑想には、他にも、座禅というのもあります。禅を改良したマインドフルネスという瞑想法も、これも心を整える方法として、世界的に流行しています。そういうインドの文化の背景にあったのが、大麻なのですが、インドでは瞑想の補助として大麻が使われてきました。ただし、瞑想の達人は大麻は必要なくなるようです。というのは、ヨーガとか瞑想とかいうのは、意識をコントロールして脳内で精神展開薬を作る方法だから、訓練することで、外から物質を取り入れる必要がなくなるというわけです。だから、大麻のような弱い作用で充分なんですね。

次回以降は、ヨーガや瞑想と、それから、哲学の歴史を振り返りたいと思います。哲学の歴史なら哲学関係の授業でやっているわけでして、そちらのほうが専門的ですが、こちらの授業では、あまり知られていないインド哲学を紹介できればと思います。なにやら難しそうですが、西洋の哲学よりもインドの哲学のほうが、じつは、わかりやすいのです。というのは、難しい言葉で考えるだけではなくて、ヨーガとか瞑想修行とか、そういう身体を使う方法で体感できるからです。

私じしんも、もともとは哲学という学問には、机上の空論というか、あまり興味がなかったのですが、世界各地を旅して、中南米先住民族儀礼に参加したり、お寺で瞑想をしたりヨーガ教室に通ったりしているうちに、哲学というのはこういう感覚を言葉で言い表そうとしたのだな、と、理解できるようになってきた、という経緯もあります。

「身体と意識」2021/11/19 CE 講義ノート

先週は疲れていて講義ノートを書きかけで眠ってしまいましたが、リンク先の記事「臨死体験」はかなり分量があったので、今週もこれを資料にしようと思います。この記事で、全身麻酔の体験談を引用させていただいた作家で僧侶の故・瀬戸内寂聴尼の訃報を受け取ったのが先週でした。

それからまた、とある雑誌社から原稿の依頼があり、臨死体験について解説の記事を、という依頼だったのですが、急な打診でもあり、他のことでもバタバタしていたので、いったんはお断りしかけたのですが、編集者の人が、このリンク先の、臨死体験の記事を見つけてきて、これを転載させてもらえないかという話になり、それなら大丈夫ですと引き受けました。別のブログに、ちょっと掲載用に修正した原稿「臨死体験と精神展開薬」をアップしました。元の記事とあまり変わっていないのですが、さらに校正する予定です。

こういうタイミングですから、皆さんにも目を通してもらって、コメントをもらえれば、という意図でもあります。かなり、わかりにくい内容だろうなと思います。わかりにくい、というのは、第一に、DMTは5-HT2Aレセプターの作動薬であり、云々という、神経科学的な細かい話がわかりにくいだろうなと思います。書いている私は、自分が知っていることを書いているのですが、読んでいる人が、どこまで知識があるのか、なかなかわからないのです。あまりに細かすぎてわからないところは飛ばしてもらっても良いのですが、半分ぐらいわかる、半分ぐらいわからない、というところがあれば、ぜひ質問してください。これは、教師としても参考になりますし、記事の読者への配慮にもなります。

もう一つは、やはり臨死体験とか精神展開体験、サイケデリック体験という体験が特殊なので、わかりにくいだろうな、ということです。しかし、臨死体験に似た体験、これを臨死様体験と言ったりもするのですが、似たような体験まで広げると、年齢にかかわらず、意外に多くの人が、ちょっと不思議な体験をしているようです。学期末のレポートで不思議な体験談を書いてくれる人が多いのですが、まず、臨死体験そのものをしている人も、若い人でもかなり多いですし、ブログの記事の冒頭のほうで紹介した体験談も、本当に死にかけたわけではなくて、麻酔が効きすぎてしまって、死後の世界のような体験をしたという体験です。

それから、熱を出したときにも、これも個人差はあるのですが、やはり不思議な体験をする人がいます。私じしんも、38度ぐらい発熱すると、苦しいのだけど、その先に、きれいな光の世界を見たりする、そういう体験を何度かしたことがあります。ワクチンの接種が若い人にも進んできましたが、若い人ほど、男性より女性のほうが熱を出しやすいとのことです。病気に感染するよりワクチンで発熱している人が世界中にたくさんいるわけです。それから、みなさんのレポートを読んでいますと、サウナで精神を整えるというのが見受けられます。やはり身体を高温にすると、脳の働きに影響が出るのでしょうが、それが暑くて苦しいと同時に、なにか爽やかな感覚にもなれるようです。そういう実体験をしたことがある人もまた話を聞かせてください。

臨死体験は本当に死後の世界を見る体験なのか、脳の働きがおかしくなって幻覚が見えているのか、という、雑誌のほうの依頼でも、そういう特集だと聞きましたが、これは難しい問題です。記事の中にも書きましたが、いま目の前に見えている現実さえ、夢なのか現実なのか、わかりません。確かめるのが難しいということではなくて、両方とも正しいのですが、現実か幻覚かという問いの立て方がおかしいのです。これは哲学の基本的な問題で、心身問題とか心物問題とかいいますが、抽象的な哲学史については、また12月ぐらいに、もうすこし先に扱う予定です。

脳の働きが変わると意識の状態も変わるという、これは確かです。それでこの授業では精神に作用する物質、向精神薬についてお話をしてきました。精神を興奮させる物質、精神刺激薬、覚醒剤、興奮薬と、精神を落ち着ける、眠らせる物質があるということは、すでに扱いました。それらとは区別されずに混同されていることが多いのですが、精神展開薬とかサイケデリックスと呼ばれる、意識の状態を変える薬物があります。とくに日本では精神に作用する薬物に対する偏見が強く知識が少なくて、合法なものでもじっさいに飲んだことがあるという人は少ないですから、この授業では、ちょっと先送りしています。

弱いサイケデリック作用を持つ大麻など、最近は世界的に合法化というか、もともとインドや欧米では文化的に広まっていたものですが、大麻なども、日本では繊維材料としては古くから使われてきたものですが、ちょっと知覚や意識を変容させて、芸術や宗教と結びつけていこうという文化はなかったようですし、法律的には厳罰化という状況です。法は社会のルールですから遵守しなければなりませんが、法律を厳しくするか、緩めるか、そういう議論自体をすることもまた大事なことですね。

授業計画の予定表とじっさいの授業の内容が、かなりずれてきていますが、お話しの続きはまた来週以降に扱うつもりです。

「人類学B」2021/11/16 CE 講義ノート

前回は「象徴としての世界 −バリ島民の儀礼と世界観− (改訂版)」の前半部分を議論するということでした。この文章は長いので、今回は後半についての議論ということにしたいと思います。

儀礼の象徴性」よりも下の部分です。これだけでもたっぷりの分量です。

この手前の「海が象徴するもの」の表2に、バリ島だけでなく、世界中の文化に、かなり普遍的にみられる象徴的な二元論、双分法をまとめてみました。身の回りの環境や現象を「自然」と「文化」に分けて、「自然」を劣ったもの、「文化」を優れたものと見なす傾向は、世界中にあるということです。

世界中にあるといっても、日本にはそんなものはないのでは?と、ピンとこないかもしれません。これには理由が二つあります。まず第一に、もともと日本の社会は「自然」を劣ったものだとする要素が薄いということです。古代にさかのぼると、女性の文化的地位が高い文化でした。のちに神道として体系化される土着信仰は多神教でしたが、最高神とされる太陽神、アマテラスは女性で、それに対応する月の神、ツクヨミは弟であり、男です。多くの文化では、太陽神が男であり絶対だとされ、女性は月経との関係から月と同一視されることが多いのですが、日本では逆でした。

日本文化の特徴として、お風呂が好きだということがあります。身体を洗うためではなく、お湯に浸かる。身体を温めるという意味ではなくても、夏にもお湯に浸かります。しかも温泉という天然のお風呂があって、見知らぬ人が入っていても、そこに全裸で入ります。男女混浴や、露天風呂もあります。温泉の文化は他の文化にもありますが、全裸ではなく水着を着けることが多いですね。日本人的感覚からすると、水着を着てお風呂に入るほうが、変な感じがしますが、どうでしょう。

それから日本では、シーフード、海産物をよく食べるという特徴があります。魚は食べるけれども、ナマコやイカのような無脊椎動物、海藻などを食べないという文化は多いのです。しかも日本では刺身、海の生き物を生で食べてしまったりします。ほかの動物は食べ物を生で食べるけれども、人間は煮たり焼いたり、火を通したものを好みます。火というものを使いこなせることが、他の動物とは違う人間のプライドというか、特長というか、そう考える文化は多いのですが、日本ではあまりピンとこないかもしれません。この「生のもの」と「火を通したもの」の対立は、これは構造主義的な人類学の先駆者、レヴィ=ストロースが言った重要な概念なのですが、図には書きませんでしたね。

もっとも、ハレの日には象徴が逆転するということも、バリ島の記事に書きました。日本でも、休日には労働という日常を離れ、温泉に行って刺身を食べて酒を飲むと、そういう、ハレの日の文化だと、そう解釈することもできます。しかし、裸で温泉に入ることや、生ものを食べることが、ふだんから禁止されているわけではありません。ハレの日だけ、禁止されていたこと、我慢していたことを行っても良いというニュアンスは希薄です。酒を飲んで騒ぐのは、忘年会とか新年会とか、これは、ハレというか、大げさに言えば儀礼的行為ですが、といって日常生活の中で酒を飲むということが禁じられているわけではありません。まあ、職場で労働中にお酒を飲むのは、これはタブーですが。

日本ではバリ島のような二元論がピンとこない理由は、二元論が逆転しているからです。これは日本だからというよりは、現代の都市社会の現象です。自然から離れすぎてしまったがために、逆に自然に回帰したくなる。このことは「文明社会の神話的思考」という記事に書きました。天然素材や有機野菜、エコロジーフェミニズムなどが、バリ島のような古い社会とは逆転していると、こうしてみると、わかりやすいと思います。ただし、これはまた別の話で、現代社会を人類学的に読み解くという意味では非常に興味深い内容なので、またあらためて、次回、議論したいと思います。ちなみに来週は勤労感謝の日で、これはお休みになりまして、次回は再来週になります。



CE2021/11/15 JST 作成
CE2021/11/15 JST 最終更新
蛭川立

「身体と意識」2021/11/12 CE 講義ノート

大学内外、公私にわたり多忙にて、かなり疲れてしまい、夕刻のゼミの後は、ずっと寝込んでいました。目覚めると四時。そして情念と解脱の女流作家、瀬戸内晴美瀬戸内寂聴が99歳で遷化されたという知らせを受けました。

5年前、寂聴尼が全身麻酔を受けて臨死様体験をしたことについての記事「臨死体験・麻酔薬」を書き直そうとしていたときでした。

これの元の全体の記事は「臨死体験」です。臨死体験とは、死に瀕するようなときに起こる、死後の世界を垣間見たような、夢のような体験のことですが、その他、発熱や高山病、麻酔、精神展開薬(サイケデリックス)の服用によっても、似たような体験、臨死様体験をすることからして、死という体験だけでなく、様々な場面で起こる脳内の情報処理のパターンのことだと広く捉えることもできます。

詳しくは記事を読んでください。かなり長い記事です。今日は起き出してきてからこの文章を書きましたが、もう5時半になってしまいました。いったん寝ることにします。

「人類学B」2021/11/09 CE 講義ノート

人類学の授業も、自然人類学から文化人類学へと話題を移していきます。自然の一部、動物としての人間という側面から、文化を持ち、文化の中で生きる人間という側面へ、という議論です。

わかりやすい例としては、生物としての生殖と、文化的な仕組みとしての婚姻や親族との対比です。同じ場所に住むといった物理的行為、性行為のような生物学的行為とは別に、婚姻制度や、住民登録、日本なら戸籍といった文化的制度があります。その制度に応じて、姓名があります。

あるいは、物々交換だけでなく、貨幣というものがあります。貨幣経済での「豊」は、貨幣を介して、数字であらわされます。天体の運動に対応して、暦があります。1日、1ヶ月、1年というサイクルには天文学的根拠がありますが、1週間には天文学的根拠がありません。

同じ婚姻制度でも、一夫一妻婚だったり、一夫多妻婚だったり、あるいは同性婚とか、事実婚といった枠組みもあります。暦も、文化によって違います。地球や月の運動とはまったく関係のない暦も多々あります。同じ1年でも、どこを新年とするのかも、文化によって違います。同じ日本であっても、冬至新暦のお正月、旧暦のお正月、新年度といった、複数の仕組みが同時に存在しています。

婚姻制度や、あるいは7日で1週間という文化は、なくても生きていけます。ではなぜ存在するのかというと、ひとつには、社会を作って生きていく中で、便利だからです。しかし、ただ便利だというだけでもありません。7日で1週間というのは、1ヶ月や1年の長さとは無関係で、かえって不便です。婚姻という制度があると、財産の共有や相続などを行う上で、便利ですが、結婚するというのは、もっと象徴的な意味を持ちます。ただ便利だという理由よりも、もっと強い意味を持ちます。あるいは、夫婦は同姓か別姓かという議論もありますが、姓、名字というのも、なくても生きていけますし、便利だからという理由以上に、同じ家族だという、象徴的な意味を持ちます。

象徴という言葉が出てきましたが、たとえば天皇は日本国の象徴であると憲法には書いてあります。首相とは別で、選挙で選ばれるわけでもなく、政治的な権力も持ちません。あるいは、国家には国旗や国歌があります。長方形の布を棒の先につけてはためかせたりする、こういうものが象徴です。他の動物にはない、人間という動物のもつ、文化の特徴です。

象徴と文化、ということですと、人類学で、教科書的にわかりやすい文化として、インドネシアのバリ島があります。バリ島では大規模な火葬儀礼が行われますが、葬送儀礼、お葬式もまた、文化的、象徴的な行為です。これから数回の授業は、インドネシアのバリ島に飛んで行って、続きの話を進めていこうかと思います。サルの社会行動や脳の進化と文化の進化といったテーマは後回しにしていますが、追ってまた。

さてインドネシアのバリ島ですが、拙著『彼岸の時間』に書いたものにカラー写真や動画を貼り付けて描き直したものを「象徴としての世界 −バリ島民の儀礼と世界観− (改訂版)」というタイトルでブログの記事としてアップしておきました。とても長い記事なので、今日のところは「『最初の楽園』バリの誕生」から「海が象徴するもの」までにします。主なテーマは、火葬儀礼です。バリ島の映像は、1997〜1998、2002年に撮影したものです。

来週はこの記事の後半を扱います。今週は前半だけ読んでもらえばいいのですが、もちろん後半まで読んでもかまいませんし、後半の記述についてのコメントも歓迎です。