さて、心物問題の続きです。先週は、ちょうど金曜のお昼に大学のシステムが止まってしまい、リアルタイム授業も止まってしまいましたが、コンピュータのシステムは、ときどき予測不能な挙動を示します。「2045年問題」といって、人工知能の処理能力が人間の情報処理能力を超えるという仮説があります。コンピュータの処理能力が人間の処理能力を超えるとは、どういうことでしょうか。それは、人間にはわかりません。コンピュータが人間の処理能力を超えるとは、コンピュータの挙動が人間には想像も予測もできなくなった状態のことだからです。
かりにこの話が本当だったとしても、まさか2045年のお正月に、とつぜん、世界中のコンピュータが制御不能になるというわけではないでしょう。今でもコンピュータは人間の予測を超えて不可解な動作をすることがあります。さらに余談ですが、明治大学のネットワークシステムを、英語では「Meiji University Integrated Network Domain」略して「MIND」と言います。「心」という意味です。「mind」と小文字で書くと、ふつうに「心」という意味ですが、禅仏教で、神など存在しない、自分の心を観よ、自身の心の中にこそ真理があるのだ、という話を英語に訳すときに、大文字で「Mind」と書いたりします。これは、「god[s]」と書くと、日本語で言う「神様」というイメージなのに対して、「God」と大文字で書くと、唯一絶対の真理たる神、という、強い意味になるのと対応させているわけです。
コンピュータの処理能力が人間と同じ程度になったとして、それが人間と同じような「心」を持っているといえるのか、という議論は、工学的であると同時に、哲学的な問いでもあります。コンピュータは機械なのだから、物質なのだから、心など持てないのだ、ということはできますが、では人間だって脳という電子回路なのだから、物質なのだから、心などないのだ、という考えもできます。皆さんの中には、これからの社会の情報化ということに関心を持っている人が多いと思います。私もこの授業で、ただ哲学の専門的な話をするつもりはありませんし、それだけの学識もありませんが、背後には、こういう、情報技術の近未来という問題意識を考えながら、お話をしていきます。
話を心物問題に戻します。近代科学の基本的な考えは、唯物論です。脳という物質があり、霊魂など存在しないと、そういう考えです。これは、現代の我々にとって、無理のない考えです。素朴実在論とも相性が良いのです。
しかし、厳密に議論を進めていくと、脳という物質はありますが、いっぽうで我々(正確には、一人ひとり)は、意識的な心を持っています。それと、脳という物質だけが存在するという考えは、厳密には相容れません。
この、厳密に厳密に理屈を突き詰めて行く思考の方法が、哲学です。哲学は、二千年前、古代のギリシアやインドから始まったと言われます。日本で言えば弥生時代ぐらいです。日本人は遅れていたのでしょうか。そんなことはありません。日本人は、文学的な民族でした。早くから、詩歌の方面にすぐれた文化を発展させてきました。中国はどうかというと、諸子百家があらわれ、儒学や老荘が論争を繰り広げた時期ですが、それは思想であって哲学ではありません。なぜなら、中国、漢民族ですね、非常に実用的な文化を持っていて、それは、健康で長生きして、良い政治を行い社会を維持発展させるにはどうしたらよいかと、そこに思想の目的があったからです。
それに対して、インドとヨーロッパは、言語学的には、インド=ヨーロッパ語族という、同系統の言語を使う人たちですが、物質的、世俗的な思考を超えた思考を志向する文化を発展させました。哲学はギリシア語のフィロソフィアの訳語ですが、直訳すれば「知を愛すること」、この愛というのは、なにか、物質世界を超越したものへ想いを馳せるという意味です。前置きはこれぐらいにして、続きは「古代ギリシアにおける心物問題」のほうをごらんください。
なお、リンク先でパスワード要求画面が出る場合の、パスワードは、ギリシアのピタゴラスとプラトンの幾何学的思想をヒントにしています。あらためてこちらをごらんください。
もちろん、もっと詳しく哲学を学びたいというのなら、哲学の授業を受講することをお勧めします。授業の履修は別にしても、もっと正確に学びたい人のための入門書としては、以下の本をお薦めしておきます。
- 作者:大黒 岳彦
- メディア: 単行本
CE2020/11/26 JST 作成
蛭川立