11月20日朝よりOh-o!Meijiにログインできないという問題が発生していましたが、12時ごろ回復しました。
ディスカッション掲示板はその後、オープンしましたが、ディスカッションをしている時間がじゅうぶんにありませんでした。
27日の授業内容は、20の授業の発展ですから、内容をさらに補充したうえで、27日に、まとめて、より深いディスカッションを行います。
hirukawa.hateblo.jp
(承前。先週の講義ノートです。)
「臨死体験」という、いささかオカルト的な話題から、じょじょに心身問題・心物問題という、哲学上の基本問題へと、話を続けていきます。
「インド・ヨーロッパにおける心物問題の略史」に、ざっと哲学史を素描しましたが、以前に書いた講義ノートで、インド哲学や西洋思想史など、長々と書いていて、まとまりがありません。口頭で補わなければ、何を言っているのか、よくわからない内容です。じょじょに、書きなおしています。(書きなおし中なので、パスワードをかけています。)(Oh-o!Meijiにアクセスできないという異常が発生していますが、その間に、以上の長々したページのうち、近代科学と唯物論までの西洋思想史の部分を切り取って「西洋近代における心物問題」というタイトルで蛭川研ブログ新館に移動させました。(パスワードなし)
教室講義ならば、口頭で補うところですが、今年度はネット授業です。この講義ノートで説明を補います。それでもよくわからないところは、掲示板のほうに質問を書き込んでください。
「あの世」が幻なら「この世」も幻か?
臨死体験というのは、極端な事例ですが、大まかには
- 死後の世界は実在する
- 脳が生み出している幻覚である
という、二つの立場から、どちらが正しいか、議論が続けられてきましたが、決着はついていません。なぜ決着がつかないかというと、二つの仮説の問題設定がズレているので、かみ合わないのです。
そこを、きちんと考えていくと、臨死体験というオカルト的なテーマが、正統的な哲学の問題につながっていきます。
死後の世界が実在するといっても、それはいったいどこにあるのでしょう。体外離脱体験によって、魂が肉体から抜け出て、ベッドの上から自分が手術されている姿を見下ろしていた、という証言があり、そこまでは良いとしても、トンネルを通ってお花畑に行った、という話になると、かりにそのお花畑が実在したとしても、それは雲の上とか地面の下とか、そういう物理空間には存在していません。
臨死体験者が見る「あの世」が、脳が生み出している幻覚だという説明は簡単です。しかし、それなら逆に、目の前にある「この世」が、脳が生み出している幻覚ではない、といえる根拠はあるでしょうか。
こういう理屈っぽいことを考えるのが、哲学です。哲学は厳密な思考の組み立てです。そんな議論は無意味かというと、無意味なところもありますし、実際的な意味があるところもあります。
この講義では、睡眠中に見る夢の話をしました。この先の授業では、バーチャルリアリティ(VR)の話をする予定ですが、夢の世界をいっしゅの現実だとして積極的に生きるとか、VRの世界を現実の一種として生きることに意味があるのか、といったことは、けっして机上の空論ではなく、現実の生活においても意味があることなのです。
心物問題
さて、心物問題という用語ですが、哲学ではあまり使われない用語です。ふつうは心身問題という言葉が使われますが、私は心物問題という用語が好きなので、これを使います。好きというよりは、意味が明確だからです。その理由は「心物問題・心身問題・心脳問題」に書きました。
精神と物質の関係において、もっとも素朴なのが、「素朴実在論」という考えかたです。それ以上は余計なことは考える必要がない、というのも、ひとつの哲学的立場です。
しかし、素朴実在論は、きちんと論理的に吟味すると、矛盾が生じます。
そこで、哲学的な議論が始まります。近代の哲学は、デカルトに始まります。「デカルトの二元論」と、「唯物論と近代科学」を読んでみてください。
古代の素朴な世界観から、近代科学へと、ざっと思考の道筋を追ってみました。科学は進歩しましたが、物質と精神の関係は、どういう説をとっても、完全に矛盾なく説明できないことがわかります。
そこまでわかった、というところで、今日の授業はこれでひと息つきます。それから先の議論は、また来週にします。
(主要な用語には心の哲学まとめWikiにリンクを張りました。なお、カギ括弧で囲った文字列は、私じしんのブログのコンテンツへのリンクです。)
CE2020/11/19 JST 作成
CE2020/11/20 JST 最終更新
蛭川立