蛭川研究室

蛭川立の研究と明治大学での講義・ゼミの関連情報

西洋近代における心物問題

素朴実在論アニミズム

目の前に見えている世界は実在する、それは物理的世界であり、そんなことは当たり前で、それ以上のことは考えない、というのが、素朴実在論(naive realism)である。

では、目の前に見えている世界を見ている自分(の心)も、物理的存在なのだろうか。目の前にいる他者や、イヌやネコたちにも心があるように感じられるが、じつは物理現象なのだろうか。いや、そんなことはない。自分にも心はあるし、他人にも心はあるし、ペットのネコにも心はある、そんなことも当たり前だと、そうすると、それは物質と精神の二元論になり、素朴実在論とは矛盾してしまうのだが、そもそも素朴な世界観にあっては、原理的な矛盾があっても、当面は生活には困らない。

そもそも古来からのアニミズム的世界観は、もっぱら物と心の関係については素朴な「二元論 dualism 」であった。

日本語の「モノ」は物質的実体をあらわす言葉だが、かつては「憑きもの」や「もののけ」のように、霊的な実体をあらわす言葉でもあった。同じ世界の中に物質的実体と精神的実体が素朴に共存しており互いに相互作用することもできる。

同様の素朴な発想は現代でも一般的である。脳を含む物質的世界と、主観的な経験世界が、とくに矛盾なく共存している。

デカルトの二元論

西洋近代の哲学では、デカルトがこのような素朴な二元論を近代的に整備しなおした。アニミズムでは、人間には人間の形をした魂が宿っていて、植物には植物の形をした魂が宿っているというていどの素朴な発想が支配的である。しかし、デカルトはそれを厳密に再考した。精神には、そもそも大きさも形もない。だから、物質が属するこの三次元的な空間の中に位置を占めることは、原理的に不可能なはずである。(臨死体験者が体験する「あの世」が、「この世」の物理空間内に存在しえないのと同じ議論である。)

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デカルトの『情念論』の挿絵。眼球からの感覚情報が視神経を伝わっていく経路と、松果体が図示されている[*1]

しかし、精神と物質を完全に切り離してしまうと、知覚や随意運動が説明できない。そこでデカルトは、脳の内側にある松果体 pineal glandという器官で両者が相互作用すると考えた。これを「相互作用説 interactionism」という。

これは多分に苦しまぎれの説明である。空間内で特定の位置を占めない精神的なものが特定の場所にある脳という器官にだけは作用できるというのだから。現代では、脳生理学者のエックルスが、精神が脳の補足運動野に量子力学的な影響を与えるという相互作用説を唱えているが、これもデカルトの相互作用説の現代版である。

心身二元論を厳密に徹底するなら脳と心は相互作用できない。

そうではなく、脳と心は並行関係にあるにすぎないとするのが「心身並行説 parallelism」である。もっとも今度は、それでは何の説明にもなっていない、ともいえるのだが、並行説には相互作用説のような論理的な矛盾はない。

唯物論と近代科学

その後の近代科学の世界観においては、二元論から精神を取り去った物質一元論、「唯物論 materialism」が優勢になる。心脳問題の図式でいうなら、脳だけがあって心はない、ということになる。そうすれば、精神と物質はどこで相互作用をしているのか、といった奇妙な問題は論じる必要がなくなる。とはいえ、唯物論という立場からすれば主観的な体験すら存在しないことになってしまうのだが、それは我々の素朴な直感に反する。やはり自分には意識があって、自分の身体は自分で動かしているように思える。他人にも同じように意識があるように思える。これでは、素朴実在論へ逆戻りしてしまう。

それでも唯物論を徹底させるとしたら、意識だとか心だとか、そういう主観的な経験は一種の錯覚にすぎない、というしかない。これを「消去主義的唯物論 eliminative materialism 」という。しかし、「錯覚」と言い換えても、それもまた精神的経験の一種である。とにかく意識や心などまったく存在せず、自己も他者も「ゾンビ」のように自動的に動いていると考えることはできるが、そのように「考えている」主体が何であるかは説明できない。

そこで現在では「随伴現象説 epiphenomenalism」という、唯物論と二元論の折衷案がひろく一般的に受け入れられている。随伴現象説では、脳というハードウェアの働きとして心というソフトウエアが生み出されてくると考える。脳という物質の変化は心の内容に反映するが、心から脳への逆向きの作用は考えない。直感的には無理がないが、折衷的な二元論であって、厳密には論理的な説明になっていない。



(西洋近代の哲学といえばカント、それに先立つヒューム、あるいはライプニッツモナド論などについても論じたいところではあるが、詳細を追うのはここでの課題ではないので、割愛する。)

記述の自己評価 ★★★☆☆
CE 2020/11/20 JST 作成
蛭川立