蛭川研究室

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「身体と意識」2021/12/17 CE 講義ノート

タイでの一時出家」の記事は、だいぶ長い話でしたが、この身体と意識の授業も、そろそろ全体をまとめていきます。

なぜ出家するのか、瞑想すると何がいいのか、ということなのですが、日本だと、精神を鍛えるというイメージでしょうか。お寺で修行をするというと、かなり体育会系のイメージといいますか、根性を鍛えるというイメージですね。実用的な身体技法です。そもそも日本の軍隊や体育会の文化は、禅寺に由来するそうです。禅は武士道と共に発展してきた文化です。

しかし、もともとのインドでは、瞑想することは、もっと哲学的というか、自己の内面を内省するという意味があります。自分の心の動きをよく観察して、気分や感情に振り回されないようにする。瞑想というのは古代のインドのヨーガという言葉に由来するのですが、あの健康体操のヨガですが、あれは瞑想の準備体操です。ヨーガとは、もともとは、動物をヒモでつなぐという意味です。イヌの散歩に行くようなものです。イヌは、嬉しくて走り回ろうとしたり、ほかのイヌを見ると怒って吠えたりしますが、飼い主はヒモを引っ張ってイヌの動きをコントロールします。これがヨーガです。

ヨーガにはさらに深い意味があって、自分の心の動きを、何日もかけて、ずっと観察していくと、自分というものが、自分の身体、個人としての自分ではなく、それを超越した精神世界へとつながっているのに気づくという、そういう哲学的意味があります。このことは「ヨーガと瞑想」という記事に書きましたが、この記事は説明不足で、抽象的すぎてわかりにくいかもしれません。

とてもわかりにくい話なのですが、古代のインド哲学では、自分の身体、あるいは身体の外部にある物質世界は、心が作り出している夢のようなものだ、という考えが主流でした。自分の心のはたらきを、よくよく観察すると、物質世界は夢のようなもの、精神が作り出したものだという考えです。夢か現実か、胡蝶の夢という話は、この授業の最初で扱いましたが、議論はそこへ戻っていきます。

物と心、精神と身体、このどちらが本質的か。ふつうは、原子や分子のような物質があって、有機物が集まって身体ができて、脳という物質の中で分子が動き回って、それが心や意識という体験を生んでいるのだと、それが普通の考えです。しかし、古代のインド哲学では、それはむしろ逆で、心や意識が先にあって、それが物質の世界を夢見ているのだと、そういう考えが有力でした。これは古代のギリシアなどでも同じです。

この心身問題とか心物問題とかいう、長い哲学の歴史は「インド・ヨーロッパにおける心物問題の略史」という記事に書きました。長大な哲学史をかなり独自解釈で圧縮していますが、ざっと概観するとこんな感じです。これで、今回と、来週の授業の議論の資料になります。

インド哲学における唯心論的思想は、この記事では後のほうに出てきます。直感的にわかりにくい議論だからです。この記事は、まず、素朴実在論という考え方から始まります。目の前に存在する物質世界は実在すると思うのが、普通の感覚です。自分の身体も、物質世界の一部です。これも、当然のように思われます。しかし、物質世界を見ている自分は、どこにいるのでしょうか。脳の中にいるのでしょうか。そういう理屈を考え始めるところから、哲学は始まります。続きは、リンク先の記事を読んでください。

なお古代インド哲学については「古代インド哲学における心物問題」にも書きました。他の記事と内容が重複しています。

瞑想をすると気分や感情に左右されない心が鍛えられるという実用的なことならともかく、目の前に見えている世界が実在しているのか、それとも夢なのかという問いかけには、あまり意味がない、考えても無駄、と思われるかもしれません。それは健全な発想です。実用主義プラグマティズムという立場でもあります。これも、リンク先の記事で議論しています。

ただし、この授業では、年明けの最終回で、VR、仮想現実について議論します。情報コミュニケーション学部の授業だから、ということもありますが、情報化社会が進むほどに、古くさい哲学的な問いが、別の意味を持って問われなければならなくなります。目の前の液晶画面の中の世界は、仮想現実です。VRのゴーグルをつけて中に入ると、周囲はすべて仮想現実です。あの世界に没入してしまうと、周囲の世界が実在しているような錯覚に陥ってしまいます。液晶画面やVRの中で過ごす時間が長くなるほどに、周囲の世界は実在するのかと、そういう問いかけが、現実に切実な問いかけになってきます。このことは、最後の授業で議論しましょう。