蛭川研究室

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古代ギリシア哲学における心物問題

近代科学の基本的な考えは、唯物論(materialism)である。脳という物質だけがあり、その情報処理のプロセスとして、意識や感情が発生すると考える。これは、あまりにも当たり前なので、唯物論という言葉自体が、認識論では、あまり使われない。(この語は、宗教的な救いではなく、現実世界を変革していこうという、マルクス主義的な政治思想のほうで、よくつかわれる。)
さしあたりは、脳という物質のはたらきから、精神が派生するという「随伴現象説(epiphenomenalism)」という立場をとるのが、現代では、一般的な考えだが、これは、論理的な厳密さを欠いており、けっきょくは、素朴実在論とあまり変わらない考えになってしまう。

唯心論への回帰

物質一元論である唯物論を離れて、心や意識というものの存在を認めたうえで、しかも一元論ということになると、唯物論とは正反対の一元論として「唯心論(spiritualism)」という立場がありうる[*1][*2]。ようするに、心だけがあって物質はないという考え方も論理的には可能であり、詭弁のようではあるが、むしろ論理的には反証が難しい。

我々が今、目の前に見ている世界は夢かもしれない。自分の心がつくりだしている幻覚かもしれない。そうではないということを証明することはできない。隣にいる人に「これは夢ですか?」と訊いてみて、「いや、これは夢ではない。現実だ」と言われたとしても、そう答えた人自体が自分がいま見ている夢の登場人物であるとすれば、世界の客観性はなにも保証されない。

この考えを徹底した立場が「独我論(solipsism)」である。つまりこの世界は自分が見ている夢であって、他の人たちは「私の夢」の登場人物にすぎない、すべては私の心がつくっている、私の心だけが存在する、と煮詰まっていってしまう。

独我論は論理的だが「議論する他者」が存在しない以上、「論」としてさえ成り立たないから、「独我」という「毒牙」になってしまう。

そのような結論をどう回避するか。たとえばライプニッツは「モナド論(monadology)」という議論を展開した。物質世界は個人の見ている心像であるという点で唯心論的だが、複数の心の存在を認める。しかも、その複数の心は、同じ物質世界を見ていなければならない。しかし、なぜ別々の心が同じ物質世界の像を共有できるのか。その根拠は「予定調和(harmonie pretablie)」という概念で説明される。

唯心論は近代科学の正反対にあるような議論だが、歴史を振り返ってみると、洋の東西を問わず、近代科学以前の世界観は、むしろ物質より精神のほうを基本的な実体と考える説が優勢だった。そこでは、個々人の心を超えた普遍的な精神原理が仮定されていたから、独我論という問題も存在しえなかった。つまり、個人を超えた唯一の普遍的な精神が「流出」して、個々人の心が分岐し、そこからさらに物質的な世界が展開するという哲学である。これは、ヨーロッパの新プラトン主義(neo platonism)や、インドのヴェーダーンタ学派(Vedānta-darśana)、サーンキヤ学派(Sāṅkhya-darśana)、仏教の唯識思想などにみられる。(古代インドの哲学は、また別の場所で論じる。)

プラトンアリストテレス

そもそも哲学と呼ばれる、「『考える』ということについて考える」という独特の思索の体系は、インド=ヨーロッパ文化圏、とりわけ古代のギリシアとインドで突出して発展した。ギリシアでもインドでも、相互の文化圏の交流も含め、唯心論的な立場から唯物論的な立場まで、さまざまな議論があり、さまざまな学説が展開されたが、古代においては、どちらかといえば唯心論的な議論が優勢であった。すくなくとも、とりわけインドではそうであった。これは、近代ヨーロッパ科学とは著しい対照をなしている。

古代のギリシアを代表する哲学は西暦紀元前6世紀ごろに、ピュタゴラスソクラテスなどを経て成立したプラトン主義である。その背景にはオルペウス教という、魂が輪廻転生を繰り返すという観念を持つ民間信仰があった。要約すれば、イデア界という、完全な観念からなる世界から地上に落ちてきた魂が肉体を持って暮らしているのが現在の人間である。肉体的な存在である人間は洞窟という牢獄につながれた囚人のような存在で、洞窟の外部から入ってくる光が落とす影のほうを物質という実在だと勘違いしている、と考える。

個人を超えた精神的な実在が先にあって、それが身体という物質に閉じ込められている、と、比喩的にいうこともできる。物質的な身体が死ねば、精神が解放されるというのは、おかしな話に感じられる。それならば、自殺すれば早く物質という束縛から自由になれるかというと、そうではない。ソクラテスは、物質的な身体を持って数十年生きるのは、いわば懲役刑のようなものであって、脱獄すれば、再逮捕され、もっと思い刑罰に処せられるのだと説いている。

イデア (idea)は物質的ではないが、かといって個々人の精神が生み出したものではなく、その外部に実在する。物質でも精神でもなく、観念という第三の客観的な世界であるともいえる。イデアはさらに、真のイデア、善のイデア、美のイデアに三分類されるが、善や美について、人間的なものを離れた客観的な基準を考えない相対主義的な考えに慣れ親しんでいると、この考えを理解することは困難である。もっともわかりやすいのは、真のイデアとして数学の世界を考えることだろう。

幾何学で現れる、大きさのない点や太さのない線は、純粋な観念であって、決して紙の上に書き表すことはできない。紙の上に書かれた点や線には必ず大きさや太さがあり、それらは幾何学的な点や線の、不完全な「影」にすぎない。

数は、物質ではないが、かといって個々人の精神が考え出した、たんなる記号でもない。たとえば、新しい素数や方程式が「発見」された場合、それは「発明」されたとは言わず「発見」されたという。つまり、それらの数や式は誰かの精神によって「知覚」される以前から、その精神の外部に存在していたものであり、かつ誰が「発見」しても同じだっただろうという理由で、客観的な存在だとみなされる。

この場合、プラトン主義は唯心論(spiritualism)とは区別して、観念論(idealism)と呼んだほうがよいだろう。あるいは、心物二元論の延長線上に、物質・精神・観念の三つの実在が併存するとする、三世界論という立場を考えることもできる。

さて、プラトンの弟子のアリストテレスは、師であるプラトンと並んで、ヨーロッパの哲学の二大潮流の祖とされ、どちらかといえば近代の自然科学につながる流れに近いが、かといって唯物論を唱えたわけではない。

アリストテレスは、プラトンのように、イデアが個物から独立に存在するとは考えなかった。それぞれの個物の中にイデア的なものが含まれているが、それを形相(eidos、エイドス)と呼んで区別した。三角形のように見えるものはたくさんあっても、太さのない線からなる完全な三角形など、(それらの不完全な三角形たちから離れた場所に、)独立に存在するはずがない。ただ、たくさんの不完全な三角形のようなものが共通して理念形のようなものを内在していると考えることはできる。イデアとエイドスという概念の違いが、二人の立場の違いを象徴しているが、さしあたり、ここでは、これ以上の議論には踏み込まない。

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ラファエロアテナイの学堂[*3]バチカンサン・ピエトロ大聖堂
古代ギリシアに実在したとされる哲学者たちを描いた作品だが、中央で議論している二人が、プラトンアリストテレスである。上のほうを指さしているプラトンは、物質世界を超越したイデア界こそが真の実在だと主張し、手を水平に伸ばしているアリストテレスは、物質世界の中に真の実在が分有されていると主張している。

いっぽう、ヨーロッパ世界に伝わったキリスト教思想の影響を受けながら、プラトン主義をより発展させた哲学として、プロティノスによって西暦3~6世紀に体系化された新プラトン主義がある。新プラトン主義によれば、世界の本質は「一者(to hen)」と呼ばれる絶対的な精神的実在であり、そこから順に理性(nous)、魂(psūkhḗ) 、そして物質が「流出 emanatio」することによって、この世界が構成されていると考える。より下位の存在はより上位の存在の「影」のようなものであり、自らの魂が「一者」へと回帰し合一すること(神秘的合一 ecstasis)によって自己は絶対性を回復するとする。



記述の自己評価 ★★☆☆☆
(重厚な哲学史を非常な駆け足で俯瞰したもので、文献学的な精密さを欠き、独自の解釈が多いが、だいたい、全体の流れは追えていると自己評価する。)
CE2012/05/06 JST 作成 
CE2020/11/26 JST 作成
蛭川立

*1:この立場は「観念論 (dealism)」と呼ばれることもあるが、ここでは「観念論」という言葉を、物質と精神以外の、第三の実在である観念こそが真の実在であるという立場を示すために使う。

*2:「spritualism」は、19世紀以降、自然科学的世界観と霊魂の死後存続を両立させようとした思想の意味でも使われるが、日本語では、この場合は「スピリチュアリズム」と片仮名表記される。

*3:アテナイの学堂、アカデメイアについては、なぞなぞ認証について解説したページを参照。