さて「不思議現象の心理学」の授業、今日が初回です。教室で、口でしゃべる代わりに、口語体の文字で書きます。ところどころ、日本語としておかしいところもありますが、それも講義口調ということで、御理解ください。
今日は、初回なので、ざっと全体を見わたすだけにします。具体的な内容ですが、シラバスには、以下のように書きました。
昔の人々は雷が光り鳴るのを見聞きし「不思議現象」だと考えたかもしれない。科学が発達した現代では,電気は不思議現象ではなくなったどころか,もはや電子機器なしの生活など考えられない。テレパシーや念力などが存在するかもしれないという研究も行われているが,現在,「超常現象」だと思われていることも,科学がさらに発展すれば「通常現象」になってしまうのかもしれない。じっさい,二十世紀以降に発達してきた量子力学などの現代物理学によって,旧来の自然法則に反するような現象も説明できるという仮説もある。
いっぽう,太古の時代より,人間は通常の自然現象の中に意味のある因果関係を読み取り,超自然的な世界観を構築してきた。夢をお告げだと解釈したり,聖地の水を飲んで病気を治そうとしてきた。そうした観念の多くは,錯覚や迷信である。にもかかわらず,そこに科学的な根拠があると主張するものを,疑似科学という。
しかし,理屈では当たらないと思いながらも占いを気にしてしまうのも事実であり,そして本当に当たってしまうこともある。迷信とされるものには,心の安定や社会の維持,あるいは創造性の発露といった,積極的な意味もある。そうした知覚や認知の心理学,その背後にある脳や神経のはたらきについても議論する。
また,客観的な科学がいくら進歩しても,心や意識のような主観的体験を脳という物質のはたらきに還元することはできない。曲がれという意志でスプーンが曲がったと主張すれば「超常現象」だとしてその真偽が議論になるが,曲がれという意志で指が曲がるのは,あまりにも当たり前の「通常現象」だから議論にもならない。しかし,指を曲げようとしている意識それ自体は,脳ををいくら解剖しても見つけることができない「不思議現象」なのである。こうした哲学的な議論にも触れたい。
到達目標
1.一見,不思議に見える現象を解明していくことで,人間の心の働きがより広い視点から理解できるようになる。
2.科学的なものの考え方と,その限界が理解できるようになる。
第1回:脳の中の幽霊(全体の展望)
第2回:心霊研究から心理学へ:科学史的背景
第3回:心理学と統計学
第4回:因果性・共時性・テレパシー
第5回:ヒーリングとプラセボ(偽薬)効果
第6回:錯覚と認知バイアス
第7回:陰謀論と終末論
第8回:精神疾患と幻覚・妄想
第9回:知覚と透視
第10回:運動と念力
第11回:記憶・予知・自由意志
第12回:心物問題・心身問題と意識科学
第13回:現代物理学の世界観
第14回:科学・未科学・疑似科学(全体のまとめ)
「不思議現象の心理学」とは不思議なタイトルです。これは、もともと石川幹人先生が創設された科目だったのですが、石川先生が大学院の仕事などできわめて多忙になったということと、私じしんの研究テーマでもあったため、この講義を引き継ぎました。
科目名をどうするかは、当初から石川先生とも話し合ったのですが、なかなかピッタリする名前が見つかりませんでした。
この授業で扱うような内容は、歴史的には、心霊研究、超心理学、特異心理学、変則的心理学、といった名前で呼ばれてきた分野です。しかし「心霊」だとか「超」だとかいうと、なにやら怪しげです。じっさい、心霊研究や超心理学は、心霊現象や超心理現象が存在するという仮説が先にあって、心霊現象や超常現象の存在を証明したい、というバイアスがかかっています。
いっぽうで、心霊現象だの超常現象などは非科学的な迷信だ、そんなものは存在しない、という批判的な立場からの研究もあります。懐疑論とか、懐疑主義という立場です。しかし、怪しい現象などすべて存在しないと決めつけるのも、科学的で合理的な考えではありません。
この授業では、その両方の立場から、できるだけ公平な議論をしたいと思いますし、ひいては、科学的にものを考えること、合理的に考えることとは、いったいどういうことなのだろうか、という、科学リテラシー一般というテーマに向かっていく予定です。人間の思考の特性として、どうしても主観的で偏った考え方をしてしまいがちで、客観的に考えることは難しいのです。こうして話をしている私じしんも、一人の人間ですから、主観抜きで客観的に語ることは難しいと思っています。
私じしんの意識的なバイアスは、自分でも自覚しています。たとえば死後の世界はあるのかとか、超能力でスプーンが曲がるのかということについて、そういうことがあったほうが、絶対に面白いだろう、という素直な好奇心はあります。それは、ここで告白しておきます。
もし超能力でスプーンが曲がるのだとしたら、なぜ曲がるのでしょう。今の科学ではまだ知られていない、未知の力があるのかもしれません。シラバスの最初にも書きましたが、昔は雷や磁気は不思議現象だと思われていたのが、そのメカニズムが解明されることによって、いまの電子文明が発展したわけです。
手品でスプーンを曲げておきながら、これは超能力だといって人を騙すのは、良からぬことです。しかし、超能力などというものは、全部トリックだ、と決めつけるのは、科学的な立場というよりも、むしろ、科学の進歩の可能性を閉ざしてしまう、後ろ向きの考えであると、私じしんは、そういうバイアスで考えています。
また一方で、一、二年生で、人類学の講義を履修した人もいると思いますが、私は文化人類学の方面の研究も進めてきたのですが、占いや病気治しの呪術などの大半は、科学的にみると間違いであるのにもかかわらず、信じられている、そのこと自体の意味も考えてきました。
宗教の教義などには、科学的には間違ったものが多いのですが、それでも、それを信じることによって、心の平安や社会の安定が得られるという意味もありますから、そういう意味でも、私は、心霊現象や超常現象が、たとえウソであったとしても、信じる意味はあるのだ、むしろ、信じないほうが、人生の意味が失われてしまう、という、そういう肯定的なバイアスをかけて考えている、ということも、自覚的に、お断りしておきます。
次回からは、個々の内容に入って行きます。第一回目は、「脳の中の幽霊」というタイトルをつけたのですが、それについては、来週、第二回以降で、じょじょに説明していきます。
たとえば、肉体の死後も霊魂は残るとか、超能力でスプーンが曲がるとか、その部分だけ切り取ると、オカルト的な変な話で終わってしまいそうですが、問題をもっと一般化して考えることができます。
肉体の死後も霊魂が残るなら、では、肉体が生きている間は、霊魂はどこにあるのでしょうか。脳の中にあるのでしょうか。しかし、脳を解剖しても、霊魂は出てきません。脳は、ただの分子の集まりであり、ただの物質です。しかし、それなら、いま自分が考えたり感じたりしている、そういう心というものは、どこにあるのでしょうか。それは、脳という物質から発生しているのでしょうか。それ自体が、不思議現象なのです。
あるいは、スプーン曲げは、じつは、観客から見えないようにして、瞬間的に指に力を入れて、思いっきり曲げている、そういうマジックだ、と説明できたとしても、ではなぜ、指を曲げようと思っただけで、指が曲がるのでしょうか。その、指を曲げようという意志は、脳という物質の塊の中にあるのでしょうか。そう考えると、それもまた不思議現象なのです。
一見、キワモノでオカルト的で怪しげな現象も、そう考えていくと、物質と精神の関係という、じつに普遍的な哲学的問いとつながっていることがわかります。ただし、そういう哲学的な話は、いきなり始めると抽象的になりすぎますから、これから十数回の授業の中で、順を追って説明していきます。
それでは、続きは、また。というふうに、文字で書いてみましたが、じっさいには、この講義口調のノートと、掲示板でのディスカッションと、授業時間中には、私は、一人で二役を演じます。
CE2021/04/08 JST 作成
CE2021/04/09 JST 最終更新
蛭川立