夜明砂
中国で伝統的に使われてきた「夜明砂」という漢方薬がある。
富山大学の民族薬物データベースの「夜明砂(やみょうしゃ、Yemingsha)」には、ヒナコウモリ科やキクガシラコウモリ科のコウモリの糞便を乾燥させたものを服用すると書かれている。「夜盲症,白内障などの視力回復剤に用いるほか,結膜下出血の治療に有効である.また小児の疳積,ひきつけ,瘰癧,耳だれに応用するほか,粉末を腋臭止めに外用することがある」とも書かれている[*1]。
さて、SARSとMERSとCOVID-19(新型コロナウイルス感染症)の病原体はすべて同種のウイルスで、もともとキクガシラコウモリの間で感染していたものが、おそらく食用のために捕獲されたコウモリ(あるいは中間宿主)を売る市場でヒトに感染したと推測されている(→「SARS-CoV-2の起源と感染源」)。
コウモリを食べて視力回復というのは科学的な「エビデンス」というよりは、フレイザーが未開の迷信とした「呪術(magic)」であろう。コウモリは暗いところでも目が見えるから、人間がコウモリを食べれば、同じように暗いところでも目が見えるだろう、という、呪術的思考である。(ただし、コウモリの肉ではなく、なぜ糞を食するのかは、この論理だけでは説明できないが、SARS関連コロナウイルスは、主に唾液、鼻水、便に多いとされる。)
『金枝編―呪術と宗教の研究〈1〉呪術と王の起源〈上〉』[*2]
『コウモリであるとはどのようなことか』
ネーゲルは『コウモリであるとはどのようなことか』の中で、以下のように述べている。
コウモリとともに過ごした経験がありさえすれば、誰でも根本的に異質な生のかたちに出会う。
コウモリが体験をもつという信念の本質を形成しているのは、コウモリであることがそのようにあることであるようなその何かが存在しているということである、と私は述べた。さて、周知のように、大部分のコウモリは(正確に言えば哺乳類翼手目に属する動物は)主としてソナーによって、つまり反響位置決定法によって外界を知覚する。すなわち、高感度で微妙に調節された高周波の叫び声を自分から発して、有効範囲内にある諸対象からの反響音を感知するのである。
彼らの脳は、発せられる衝撃波とそれによってひき起こされる反響音とを相互に関連づけるように設計されている。そして、このようにして獲得された情報によってコウモリは、われわれが視覚によって行なうのと同じように、対象の距離、大きさ、形、動き、感触を正確に識別することができるのである。
しかしコウモリのソナーは、明らかに知覚の一形態であるにもかかわらず、その機能においては、われわれのもつどの感覚器官にも似てはいない。それゆえに、ソナーによる感覚が、われわれに体験または想像可能な何かに、主観的な観点からみて似ているとみなすべき理由はないのである。この事実は、コウモリであることはどのようにあることなのかを理解するために、障害となるようにみえる。
われわれは、何らかの方法によってわれわれ自身の内面生活からコウモリのそれを推定することができるかどうか、もしできないならば、コウモリであることはどのようにあることなのかを理解するために、他のどんな方法がありうるのか、を考えなければならないのである。
『コウモリであるとはどのようなことか』[*3]P. 263。
ネーゲルはまた「われわれが行なう想像の基本的な素材は自分自身の体験である」と言っているが、だからネーゲルの議論は前提からして間違っている。ネーゲルは知識人であり、そして知識と経験を混同している。ヒトが空間を知覚するのはもっぱら視覚によってであり、だからコウモリが暗闇で正確に飛行するのは、暗い場所でもよく見える正確な眼を持っているからだと類推するほうが自然であり、まさか超音波で空間を定位しているとは思いつかないはずである。
なぜ中国人は何でも食べる?
すこし形而上学的な話になってしまったが、議論自体は単純なことである。
中国国際放送局で放映され、ネット上にアップされた「なぜ中国人は何でも食べる?」[*4]では、漢民族の食習慣の中に、このような呪術的思考があることが指摘されている。
www.youtube.com
中国には、ブタの脳を食べると頭が良くなるという「間違った認識」が未だに存在すると批判的に論じられている[*5]
なぜ、こうした「間違った認識」が、今でもなくならないのだろうか。
あるいは日本でも、男性が強い動物を食べると精力がつくという認識が存在する。やはり去年の5月17日に書いた記事「肉食の象徴論 ー人畜共通感染症の文化的背景ー」にも、日本で販売されている男性向け精力剤に、オットセイの骨格筋が含まれていることについて書いた。オットセイは一夫多妻的なハレムを作り、力の強いオスが弱いオスを排除して多数のメスを独占する。これも、オットセイの骨格筋を食べれば、力で多数の女性を支配できるという男の妄想、呪術的な思考だろうか。
文明社会に生きる呪術的思考
日本語版Wikipediaの「感染呪術」には「ホメオパシーは現代における感染呪術の一例ととらえる考え方もあり、その科学的根拠に対して批判される一因になっている」ともあるが、呪術は未開人の誤った信念でもなければ、現代社会において、満足な教育も受けられない無知な人たちの迷信でもない。
むしろ、ホメオパシーは、じゅうぶんな教育を受けた「意識の高い」人たちに支持されている。ここでは、呪術的な思考は、人間を三人称的な機械のように扱う、科学的な医学に対するカウンターカルチャーとしての意味を持っている。
あるいは、中国では、豚肉などの普通の肉を食べられない、貧しい田舎の人たちが、コウモリなどの野生動物を食べるのだと言う人もいるが、じっさいには逆で、センザンコウなどの希少な動物は、それが希少であるがゆえに高価になり、それを食することが豊かさの誇示という意味を持っている。
「【資料】『最高の人生の見つけ方』」には、コピ・ルアクという、ジャコウネコ科のマレージャコウネコの糞のコーヒーが、日本などで希少価値がある飲料として高値で取引されていることについても書いた。(SARS関連コロナウイルスの中間宿主とされているハクビシンもジャコウネコ科の動物であり、これらの動物の分泌物や排泄物にもウイルスが含まれている可能性があり、じゅうぶんに加熱せずに食用にすると危険である。)
記述の自己評価 ★★★☆☆
(思いついたことを書いたメモだが、学術的なレベルに達している内容も含まれている。逆に学術的に細かすぎることも書かれているので、大学学部レベルの教材としては不要な部分もあり、適宜、読み飛ばされたい。)
CE2021/05/21 JST 作成
CE2021/06/01 JST 最終更新
蛭川立
*1:富山大学和漢医薬学総合研究所民族薬物「民族薬物データベース」(2021/05/28 JST 最終閲覧)
*2: フレイザー, J, G. 石塚 正英(監修)・神成利男(訳)(2004).『金枝篇―呪術と宗教の研究〈1〉呪術と王の起源〈上〉』国書刊行会, 63.(Frazer, J. G. (1906). The Golden Bough, The Third Edition, Volume 1: The Magic Art and the Evolution of Kings 1. Cambridge University Press. P. 54.) 『The Golden Bough』は、初版が1890年に発刊され、第三版が1906年から1915年にかけて発刊された。『金枝編』と題する和訳は複数出版されてきたが、国書刊行会版だけが、原書第三版の完訳であり、他の翻訳は、要旨のみの翻訳である。この本は、科学以前の呪術の歴史を遡るという、科学主義、進化主義の人類学として、またフィールドワークに基づかない、文献学的な、安楽椅子の人類学(armchair anthropology)として、現在の文化人類学によって批判されているが、しかし、世界各地の諸民族に関する膨大な資料自体は、なお事典的な意味を持っている。
*3:ネーゲル, T. 永井均(訳) (1989).『コウモリであるとはどのようなことか』勁草書房, 263.(Thomas Nagel (1974). What Is It Like to Be a Bat? The Philosophical Review, 83) 原書はWhat is it like to be a bat?で、永井均による日本語訳がある。
*4:「なぜ中国人は何でも食べる?」『中国国際放送局オンライン日本語』(2021/05/28 JST 最終閲覧)
*5:「なぜ中国人は何でも食べる?」『中国国際放送局オンライン日本語』(2021/05/28 JST 最終閲覧)