蛭川研究室

蛭川立の研究と明治大学での講義・ゼミの関連情報

【資料】佐保田鶴治

インド哲学者からヨーギーになった佐保田鶴治が、自らのLSD実験体験にもとづき、身体と精神、自由と不自由について考察した一文。

ここで解脱、この世の中から脱れた状態についてお話したいとおもいます。インド流の考え方をすると、この世でわれわれは縛られていることになります。牢獄につながれた罪人のような存在です。縛られているから苦しいのは当然ですが、しかしまた、縛られているから生きていることができるとも考えられます。
 
仏数といえば話が難しそうになるので手近なところから考えていくと、まず物理的な東縛があります。仮りにわれわれがビルの三階や四階、あるいは五階から飛びおりたらどうなるでしょうか。必ず落ちます。落ちずにおこうとおもっても落ちます。高い所から飛んだら重傷を負うか、死んでしまうか、どちらかです。なぜかというと、物理的必然、物理的束縛があるからです。誰が考えても同じです、それが、人間の自由が物理的に縛られているということです。
 
われわれはまず物理的に、自由ではありません。高い所から飛んだら必ず下に落ちるに決まっているのは地球に引力があるからで、誰もこの引力から脱れることはできません。人は例外なく物理的束縛から脱れることができませんが、同時に、引力があるから生きていくこともできるのです。もし引力がなくて、ちょっと足を上げたら風船玉みたいにどこかへ行くかもしれないのなら、われわれは生きていくことができません。
 
引力は地球上だけではなく、宇宙全体に天体の引力があり、それがあるからわれわれは生きていくことができます。つまりわれわれはひじょうに不自由な存在だから生きていることができるのです。われわれの存在の本質、根本は不自由であるにもかかわらず、自由が欲しいとか、自由になりたいとわれわれは願っています。
 
LSDという薬がありますね。僕も昔、飲んだ経験がありますが、これを飲むと、早く言うと気が変になります。危険だからということでアメリカでまず禁止され、日本でも禁止されましたが、あの薬はおもしろいと僕はおもいました。
 
自由意志がひじょうに拡張するような気がするのです。高い所から飛んでも「自分は落ちない!」とおもうと落ちないような気がします。僕にもその気持はわかります。僕がLSDを飲んだ時、街頭へ出て、猛烈なスピードで走ってくる車を見ても「ストップ!」をかけると急に止まるようにおもいました。実際には止まるわけがありません。車は勢いづいて走っているのですから、その前にとび出して「ストップ!」をかけてもひかれてしまいますが、そうはおもわないのです。
 
つまりLSDを飲むと、自分の自由が制限されないとおもってしまうのです。米国では少年が飲んで三階から飛び降りて死んだので危険だからということで禁止されましたが、そういうことがなければあの薬はおもしろいとおもいます。
 
次に心理的束縛があります。われわれは心だけは自分の思い通りになると考えていますが、心はちっともわれわれの自由にはなりません。あなた方は子どもが死んで悲しい時、悲しいとおもうのをやめようとおもってもやめられないでしょう。ですから心の自由もじつはないし、外界の物理的な自由もじつはありません。われわれは自由がまったくない世界に生きており、同時に、自由がまったくないから生きていることができます。にもかかわらずわれわれには、そういう不自由な世界から逃げたいという要求があり、それで三階から飛ぼうとします。
 
この矛盾する二面性 ー 不自由だから生きていくことができるが、同時にそこから脱れたいとおもうところに東洋の仏教や、その他のインドの思想があります。
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