蛭川研究室

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カント「空間について」

目の前に一輪のバラの花がある(という表象を、私は経験している)。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bf/Rosa_Red_Chateau01.jpg
目の前に赤いバラが存在しているように見える[*1]

しかし実際に、目の前、三十センチ先の空間に、バラの花という物質的実体が実在するのだろうか。

それは実在するだろう。なぜ学者はそんな面倒な議論をするのだろうか。そう考えるのが素朴実在論である。厳密ではないかもしれないが、ふつうに健全な感覚である。

じっさい、観測されたものと実在との関係は、量子力学が扱いそうな、素粒子レベルのミクロな領域でしか問題にはならない。マクロなレベルで問題になるとすれば、それはむしろ「幻覚」の問題になる。

しかし、もうひとつ重要なことがある、情報社会で切実になってくるであろう問題は、バーチャルリアリティである。上の赤いバラの写真は、肉眼では見えないよう細かいピクセルをルーペで拡大してみればよくわかるが、細かいピクセルの集合である。それが、あたかもスマホやパソコンの画面の向こう側、数十センチ先に、バラの花が実在するように見えるし、むしろ、そう見なければ実用的ではない。かつてテレビというものが発明されたときに、箱の中に小さな人間たちが住んでいると思った人も少なくないといえる。そして、それは自然な認識である。

感覚によってえられる表象と物理的実体との関係について、カントは『純粋理性批判』の「空間について」の末尾を、以下のような言葉で締めくくっている。

・・・、わたしたちが外的な対象と呼んでいるものは、人間の感性が思い描いた心像にすぎないものであり、この感性の形式が空間なのである。人間の感性が思い描く像に真の意味で対応するのは物自体であるが、これは空間という形式によってはまったく認識されず、認識されえないものである。物自体は経験においてはまったく問われないのである。
 
「空間について」『純粋理性批判[*2]

つまり、われわれが経験している表象の背後に、その表象の元となっている「物自体(Dinge an sich)」があるのかどうか、それは空間内には認識されない、というのである。

素朴実在論に対する単純な「コペルニクス的転回」というレベルではない。カントの批判は、画期的な新説を打ち出す「攻め」の理論ではなく、認識の限界を見定めるという「守り」の議論である。ライプニッツの大陸合理論と、ヒュームのイギリス経験論の注意深い折衷だとされる。議論は単純明快ではなく、留保条件がたくさんついた注意深い議論になる。だからカントの文章は読みにくいのであり。ただ高尚な思想を述べているから難解なのではない。



記述の自己評価 ★★★☆☆
(講義用のノートであり学術的には正確ではありません。つねに改善中で加筆修正中であり未完成の記事です。しかし、記事の後に追記したり、一部を切り取って別の記事にしたり、その結果内容が重複したり、遺伝情報のように動的に変動しつづけるのがハイパーテキストの特徴であり特長でもあります。)

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  • CE2022/07/11 JST 作成
  • CE2022/07/12 JST 最終更新

蛭川立

*1:Wikipediaバラ』に掲載されているレッドシャトーの写真。

*2:カント, I. 中山元(訳)(2010).『純粋理性批判(1)』光文社, 92-93.
(Kant, I. (1787). Kritik der reinen Vernunft. (2. Aufl.) Akademieausgabe von Immanuel Kants Gesammelten Werken Bände und Verknüpfungen zu den Inhaltsverzeichnissen, 56-57. )

ここでは意図的に「超訳」に近い意訳である中山訳から引用した。文意が理解しやすいからである。翻訳の問題については「【文献】カント『純粋理性批判』と『視霊者の夢』(あるいは文献学一般について)」を参照のこと。