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(承前)
今回の授業の内容は、前回の授業の後半部分となります。
バーチャル授業ですから物理的時間の制約を受けないのですが、授業中の質疑応答の範囲を決めておくと、受講者の間の問題意識が共有されるというわけです。春学期の授業の感想の中に、自分では発言はしなかったけれども、掲示板での質疑応答を端から見ていて勉強になったと、そんな感想がありました。
さて、インドネシアのバリ島民の世界観、今週は「象徴としての世界ーバリ島民の世界観ー」の後半です。火葬儀礼の話が終わって、その次の「儀礼の象徴性」の部分からです。
大学の公式サイト上にアップした「バリ島民の世界観」のほうも、だいたい同じ内容を扱っています。今週の授業に対応する部分は、「バリ島民の世界観」の(2)と(3)です。画面右上のメニューから、表示するページが選べます。もう十五年ぐらい前に作ったもので、写真は多いのですが、とくに動画がうまく再生されません。今はこちらでブログにYouTubeを貼りつける形のほうが便利なのでそれを使っていますが、他の場所にアップした内容も、このブログに集約していくつもりです。
「象徴としての世界」も、後半はじょじょに抽象性が高まっていきますが、動画を張り込んで、だいぶわかりやすくしてみました。
まず最初は、削歯儀礼です。成人儀礼です。大人になるためには、歯を削らなければならないのです。歯が尖っていると、動物のようだから、動物性を平らげるという、象徴的な意味があります。
それから、サンギャンと呼ばれるトランス儀礼、それを演劇にしたバロンダンスの動画も載せました。動物性を否定するところから人間性が生まれる、といってもわかりにくいかもしれません。
わかりやすい例としては、服を着るということです。動物は服を着ません。哺乳類は毛が生えていますが、毛が生えていない動物も服を着ません。ではなぜ服を着るのかというと、寒いから、体を守るため、という機能的な理由だけではない「意味」があります。人間は他の動物と違って「意味」を着るわけです。そしてまた、衣服という「意味」を脱ぐことによって、ただ、裸に戻るのではなく、服を脱いだ後の裸には、さらに強い「意味」が付与されるという、これは、ジョルジュ・バタイユの思想を引用しています。
最後のほうでは、暦法の話を書きました。人間が服を着るように、人間の集団は社会的な規範という服を着るわけですが、ときに社会的な規範を脱ぎ捨てて裸の人間に戻ることがあります。祭礼にはそういうものが多いのですが、バリ島ではオダランという祭礼のときに、ふだんは穏やかな人たちが、集団トランス状態になってしまうことがあります。映像を見ると驚くかもしれませんが、日本だと、これからの季節ですと、忘年会とか新年会でお酒を飲んで、ときに大騒ぎになるのと似ています。ふだんはおとなしい人たちだからこそ、特定の儀礼においては、その規制が外れるわけです。
CE 2020/12/13 JST 作成
CE 2020/12/14 JST 最終更新
蛭川立