蛭川研究室

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「人類学B」2021/11/16 CE 講義ノート

前回は「象徴としての世界 −バリ島民の儀礼と世界観− (改訂版)」の前半部分を議論するということでした。この文章は長いので、今回は後半についての議論ということにしたいと思います。

儀礼の象徴性」よりも下の部分です。これだけでもたっぷりの分量です。

この手前の「海が象徴するもの」の表2に、バリ島だけでなく、世界中の文化に、かなり普遍的にみられる象徴的な二元論、双分法をまとめてみました。身の回りの環境や現象を「自然」と「文化」に分けて、「自然」を劣ったもの、「文化」を優れたものと見なす傾向は、世界中にあるということです。

世界中にあるといっても、日本にはそんなものはないのでは?と、ピンとこないかもしれません。これには理由が二つあります。まず第一に、もともと日本の社会は「自然」を劣ったものだとする要素が薄いということです。古代にさかのぼると、女性の文化的地位が高い文化でした。のちに神道として体系化される土着信仰は多神教でしたが、最高神とされる太陽神、アマテラスは女性で、それに対応する月の神、ツクヨミは弟であり、男です。多くの文化では、太陽神が男であり絶対だとされ、女性は月経との関係から月と同一視されることが多いのですが、日本では逆でした。

日本文化の特徴として、お風呂が好きだということがあります。身体を洗うためではなく、お湯に浸かる。身体を温めるという意味ではなくても、夏にもお湯に浸かります。しかも温泉という天然のお風呂があって、見知らぬ人が入っていても、そこに全裸で入ります。男女混浴や、露天風呂もあります。温泉の文化は他の文化にもありますが、全裸ではなく水着を着けることが多いですね。日本人的感覚からすると、水着を着てお風呂に入るほうが、変な感じがしますが、どうでしょう。

それから日本では、シーフード、海産物をよく食べるという特徴があります。魚は食べるけれども、ナマコやイカのような無脊椎動物、海藻などを食べないという文化は多いのです。しかも日本では刺身、海の生き物を生で食べてしまったりします。ほかの動物は食べ物を生で食べるけれども、人間は煮たり焼いたり、火を通したものを好みます。火というものを使いこなせることが、他の動物とは違う人間のプライドというか、特長というか、そう考える文化は多いのですが、日本ではあまりピンとこないかもしれません。この「生のもの」と「火を通したもの」の対立は、これは構造主義的な人類学の先駆者、レヴィ=ストロースが言った重要な概念なのですが、図には書きませんでしたね。

もっとも、ハレの日には象徴が逆転するということも、バリ島の記事に書きました。日本でも、休日には労働という日常を離れ、温泉に行って刺身を食べて酒を飲むと、そういう、ハレの日の文化だと、そう解釈することもできます。しかし、裸で温泉に入ることや、生ものを食べることが、ふだんから禁止されているわけではありません。ハレの日だけ、禁止されていたこと、我慢していたことを行っても良いというニュアンスは希薄です。酒を飲んで騒ぐのは、忘年会とか新年会とか、これは、ハレというか、大げさに言えば儀礼的行為ですが、といって日常生活の中で酒を飲むということが禁じられているわけではありません。まあ、職場で労働中にお酒を飲むのは、これはタブーですが。

日本ではバリ島のような二元論がピンとこない理由は、二元論が逆転しているからです。これは日本だからというよりは、現代の都市社会の現象です。自然から離れすぎてしまったがために、逆に自然に回帰したくなる。このことは「文明社会の神話的思考」という記事に書きました。天然素材や有機野菜、エコロジーフェミニズムなどが、バリ島のような古い社会とは逆転していると、こうしてみると、わかりやすいと思います。ただし、これはまた別の話で、現代社会を人類学的に読み解くという意味では非常に興味深い内容なので、またあらためて、次回、議論したいと思います。ちなみに来週は勤労感謝の日で、これはお休みになりまして、次回は再来週になります。



CE2021/11/15 JST 作成
CE2021/11/15 JST 最終更新
蛭川立