競馬と占い
小さな政府で税金の安い香港はビジネスで成功を夢見る人には都合のいい場所だが、敗者や弱者にとっては公的な社会福祉が不十分なぶん、不安な社会でもある。香港では競馬と占いが盛んであり、その莫大な収益の一部が社会福祉の不足を補うために使われているという[*1]。香港最大の占いセンター黄大仙(ウォンタイシン)の境内には何十件もの占い屋のブースが迷路のようにひしめき合っていて、さながら占い市場のようである。
ギャンブルが好きなのは女よりも男だが、占いが好きなのは男よりも女だ。占いは不確定な未来を確定させたいという願望を満たしてくれ、賭け事は確定しそうな未来を不確定にしたいという願望を満たしてくれる。人間とはわがままなものである。
闘鶏の解釈人類学
世界中、どこへ行っても、なぜか男たちは賭け事が大好きなのだが、バリ島の男たちも例外ではない。彼らはサイコロやカードを使った賭け事に熱中する。しかしバリの男たちをとくに熱狂させるのが闘鶏だ。自分のお気に入りのニワトリを持ち寄って、一対一で闘わせる。オスのニワトリどうしが闘うという習性を利用したゲームなのだが、オスの人間どうしがその勝負にお金を賭ける。
アメリカの人類学者C・ギアーツによれば、男にとってその持ち物であるニワトリは、自身の抑圧された動物性、攻撃性を象徴しているのだという。バリの社会では日本と同様、とくに否定的な感情を露わにすることは行儀の悪いことだと考えられている。トランス儀礼では自分自身が動物になってしまうことで「動物的な」衝動が解放されるのだが、闘鶏はニワトリという動物にたくして攻撃性を解放し、祝祭的状況をつくりだす装置になっている[*2]。ここでいう「動物性」とは、ニワトリという動物の習性そのものではなく、理性の影の部分として人間自身がつくりだしている動物性である。
闘鶏を見ていると、勝負そのものよりも、その前にインドネシア・ルピアの札束を手にしながら集団でお金を賭ける場面のほうが人々は興奮し、殺気立っているようにみえる。ニワトリの闘い自体はふつう数十秒で終わる。闘いをはじめるまでに威嚇しあう時間が長いわりには、勝ち目がなくなると負けたニワトリは闘うのをやめてさっさと逃げてしまうし、勝ったほうもとことん追いかけていって相手が死ぬまで攻撃するということがない。ニワトリにとってみれば当面の縄張りが確保できればいいので、自分自身が傷つくリスクをおかしてまで相手を深追いしたりはしない。しかし、観客にとってはそれではつまらないので、あらかじめ鶏の足に小さなナイフをくくりつけてから戦わせる。このナイフこそ人間が考える過剰な動物性の象徴なのだ。縄張りさえ確保できればそれ以上に血なまぐさい殺し合いをしようとはしないニワトリのオスたちのほうが理性的で、ニワトリに無理やり殺し合いをさせるという、なんの役にも立たない遊びに多大な時間とお金を浪費する人間のオスたちのほうがずっと不合理な動物である。
闘鶏は、アヘンとマリファナと乞食と乳房の露出と同様、後進的であり、近代国家インドネシア共和国の建設に不適切だからという理由で非合法化された[*3]。これらは共通して人(正確には男)を「酔わせる」ものである。もっとも乞食と乳房の禁止は対外的に後進国との印象を与えないためでもあったのだろうが。
日本近現代の統制と禁制
日本でも近代国家建設の過程で明治期には最初の薬物規制法である阿片法が制定され、戦後はアメリカ占領軍の命令で大麻取締法ができた。アジア人の〈聖なる〉植物である大麻は、法で取り締まられることになったが、いっぽうでアメリカ先住民の〈聖なる〉植物タバコは国家の専売事業となった。賭博は法によって禁じられているが、同時に公営のギャンブルというものが存在している。これは一見、矛盾した現象のように思える。
社会が近代化するにつれ、「酔わせる」もの、反理性的なものは禁止されるようになる。しかし正確には、犯罪あるいは狂気として禁止され排除されるものと、統制しつつ逆にうまく利用されるものがある(表9-2)。
表9-2 日本社会で統制と禁制の対象になるもの(第2次大戦の前後で法制は多少変化したが、その点は簡略化した)
たとえば「麻薬」は所持しているだけで犯罪とみなされ禁止されるが、酒やタバコのように、嗜好品としてすっかり文化に根付いてしまっていて、いまさら犯罪として禁止するのが難しいものについては、専売にしたり高い税金をかけたりして国家の利益のために利用する。
日本では酒は専売ではないが、個人が勝手に米やイモを発酵させて酒を造ることは禁止されている。しかも、酒と同程度かそれ以上に「酔わせる」ものは、医学的な根拠とは無関係に、全部まとめて「恐ろしい薬物」というレッテルを貼られ禁止されているので、酔いたい人には「酒を」「買う」という選択肢しか与えられていない。そしてそこに高い税金をかける[*4]。酒には身体依存性と耐性がある。国民をほどほどにアルコール依存症にしておいて、そこから国家が効率よく税収を得る仕組みになっているのだ。
円環的な時間が支配する共同体では、反理性的なエネルギーはトランス儀礼のような祝祭として定期的に解放されたが、直線的な時間が支配する近代社会では、反理性的なエネルギーは統制されつつ余剰な利潤へと変換され、企業や国家の永遠の発展のための原動力となる。
蛭川立 (2002). 『彼岸の時間―〈意識〉の人類学』春秋社. より引用、加筆修正
記述の自己評価 ★★★★☆
CE2002/11/20 JST 原著公刊
CE2018/06/06 JST 電子版作成
CE2022/08/15 JST 最終更新
蛭川立
*1:これは返還前の1997年に香港大学の宗教社会学の授業で聴講した話であり、正確にはその時点での話である。
*2:ギアーツ, C. (1987) 「ディープ・プレイ――バリの闘鶏に関する覚え書き」 『文化の解釈学Ⅰ』 吉田禎吾他訳、 岩波書店、 pp.389-461。
*3:ギアーツ、 前掲論文。
*4:たとえば日本でもっともポピュラーな酒であるビールにかかる税金は消費税5%、酒税50%である。日本の酒税収入は平成14年度の見通し額で17350億円であり、注4の数字とあわせると、国が酒から1億円(国民1人あたり1円)の税収を得るごとに1人が酒の犠牲になって死んでいる計算になる。詳細は国税庁課税部酒税課 (2002) 『酒のしおり』 (http://www.nta.go.jp/category/sake/10/siori/h14/siori.htm) を参照のこと。