天動説と地動説 ー 西欧ルネサンス期のコスモロジー ー

西暦1633年、ガリレオはローマに呼ばれ、古代ローマの神殿(パンテオン)跡の近く、街中の小さな教会、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会で宗教裁判にかけられ、そこで聖書の教えに反するとされた地動説への支持を撤回する。その後フィレンツェ郊外の自宅への帰宅を許され、自宅軟禁という、比較的安泰な状況下で、78歳の生涯を終えている。


ローマ(ピンはパンテオン

この、よく知られた宗教裁判が行われたミネルヴァ教会から、迷路のような狭い石畳の路地を五分ばかり歩いたところに、今では観光客向けの屋台や大道芸で賑わうカンポ・デ・フィオーリ広場がある。その中央には、ややうつむき加減で、しかし、じっと、まっすぐに無限の彼方を見つめるような表情で立っている一人の男性の像がある。彼の名はジョルダーノ・ブルーノ。ガリレオの裁判が行われた30年以上前になる1600年に、ここで異端として火刑に処せられた。


ジョルダーノ・ブルーノ(1548-1600)
ローマ、カンポ・デ・フィオーリ広場、2013年8月、著者撮影

世の思想家たちが、世界の中心は地球なのか太陽なのかと命懸けで議論していたころ、ブルーノは、神の威光は無限である以上、宇宙は無限であって中心も果てもなく、太陽系のような惑星系は無数に存在し、人間のような生物もまた無数に存在するだろうという、当時としては荒唐無稽ともいえる独自の神秘思想を展開し、宗教裁判でも自説を曲げなかった。

最後に司祭から向けられた十字架からも顔を背け「私は何も恐れてはいない。真理の前に怯えているのは君達のほうではないのかね」と、持ち前の毒舌で演説を始めたという。結局、この頑固者はその毒舌に舌枷をはめられ、衆人環視の中、放たれた炎の中で絶命した。享年52歳であった。

若いころから玉石混淆の神秘思想に傾倒していたこの奇人は、行く先々でトラブルを起こしながら、ナポリ、ローマ、ジュネーヴトゥールーズ、パリ、ロンドン、パリ、ヴィッテンベルグプラハ、ヘルムシュタット、フランクフルト、パドヴァヴェネツィア、そして最後はローマと、ひたすら放浪の生活を送ったが、とりわけロンドンー彼に言わせれば、熊や狼のような野蛮な連中がうろついている、寒々しく不潔な田舎町ーに滞在していた二年間に、無限宇宙論を唱えた主著『無限、宇宙および諸世界について』[*1]をはじめとする、その危険な著作の多くが書かれた。

ガリレオが彼の辿った運命について知らなかったはずはない。そもそも、二人は1591年、当時空席だったパドヴァ大学の数学教授のポストを争ったという経緯もある。うまい具合に教授の座についたのはガリレオであり、ブルーノのほうはその翌年、逮捕されてローマに送られ、ヴァチカンの地下牢獄で最後の八年間を過ごすことになる。

ヨーロッパにおけるルネサンスは、通俗的には、迷信に凝り固まった中世のキリスト教的権威からの、人間の自由な感性と思索の解放であると理解されがちであり、宗教裁判にかけられたガリレオは、宗教からの科学の自立という、その象徴的人物として偶像視されがちである。しかし歴史というのはそう単純なものではない。近代的に改築されたガリレオ博物館には、彼が作った望遠鏡だけではなく、それを作った彼自身の指までが、飾り付きのガラスケースの中に恭しく飾られている。カトリックの聖遺物崇拝そのものである。

コペルニクスが唱えた近代地動説は聖書の教えに反するとされたが、実際には、聖書には天体の運動のことなどほとんど何も書かれてはいない。しばしば西洋の思想史は、より神秘的なプラトンと、より現世的なアリストテレスという、二大哲人の果てしない代理論争のようなものだと言われるが、西欧のキリスト教アリストテレス宇宙論を教義として受け入れた。いったんは忘れ去られかけた古代ギリシアの思想のうち、アリストテレスの思想のほうがたまたま先にヨーロッパに戻ってきたという、ほとんど偶然のような理由のゆえにだと考えられている。

アリストテレスがまとめ上げた世界観は、プラトンのそれと比べると、比較的堅実なものであり、常識的な観察事実によく適合していた。古代のギリシアにおいては、地球は球体であり、重力は地球の中心方向に向かってはたらくということは、すでによく知られていた。土や水のような重い元素は宇宙の中心に向かって運動していくものであり、また気や火のような軽い元素は宇宙の中心から離れる方向へ運動していくのだから、宇宙の中心に球形の土の塊である地球が位置することは当然であり、そこにはとくに宗教的な必然性もなかった。

一方、世界の本質はある絶対的な精神的存在であって、物質によってつくられている(ように見える)世界は仮のものにすぎない、というプラトンプロティノスの哲学が本格的にヨーロッパ世界に戻ってくるのには、一五世紀の思想家マルシリオ・フィチーノプラトンの著作の多くをラテン語に翻訳するのを待たなければならなかった。フィチーノは宇宙の中心が太陽であるとは直接言及していないが、その著作『太陽について』の中で、太陽は月や惑星や無数の恒星たちとは比べものにならないぐらい明るく、その眩いばかりの輝きは神の栄光以外の何物でもないと書き残している。こうした思想のほうがアリストテレスのそれよりも、むしろずっと宗教的であり、ガリレオのような正確な実験や観察にも裏付けられていない。しかし、それが太陽中心の宇宙観の形成に与えた影響は少なくないだろう。


マルシリオ・フィチーノ(1433-1499)
フィレンツェサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂・2013年8月、著者撮影

じっさい、多分に新プラトン主義の影響を受けていたコペルニクスやブルーノは聖職者であったし、フィチーノもまたそうであった。観光都フィレンツェの象徴ともいえるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂は、真夏にはまさに眩いばかりの陽光を浴びて燦然とそびえ立っているが、その薄暗い内壁には、司祭でもあったフィチーノの功績を称え、大きな書物を抱えた彼の小さな胸像がひっそりと刻まれている。


フィレンツェ(ピンはサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂

ルネサンス期に起こったことは、宗教からの科学の解放といった単純な進歩ではなかった。皮肉なことに、教会のほうがプラトンよりもアリストテレスのような手堅い理論を支持しており、それに異を唱えたブルーノらのほうが、より神秘主義的だったのである。制度化された宗教の教義よりも、ときに神秘家たちの直感から導かれた世界像のほうがより豊穣な輝きを持つことも少なくない、ということだろうか。

プラトンの宇宙モデルも天動説でありアリストテレスのそれとは基本的に違うものではなかったが、違ったのはむしろその根拠だった。プラトンは『国家』の中で、戦傷によっていったん「他界」し、ふたたび蘇生してきたエルという戦士が実際に回転する宇宙の構造を見て帰ってきたという逸話を紹介している。望遠鏡による天体観測の開始が大きな転換点となり、その後の四百年で宇宙の構造にかんする知識は飛躍的な進歩を遂げたが、その一方で西洋科学がプラトンの逸話のような体験が決して珍しくない心理現象であることに気づき、それに「Near-Death Experience(臨死体験)」と名づけてようやく細々と研究を開始したのはほんの四十年前のことにすぎない。後世の科学史の教科書には、近代文明における古代ギリシア哲学の復活について、内宇宙の研究の復活は、外宇宙の研究の復活よりもさらに五百年遅れることになったが、その理由は多分に偶然によるところが大きい、と書かれることになるかもしれない。



蛭川立 (2013). 「ここが特別な場所ではなかったとしても(意識のコスモロジー)」『風の旅人』47, 127-130、より抜粋、加筆修正。 
記述の自己評価 ★★★☆☆
CE2013/12/01 JST 公刊
CE2022/06/18 JST 最終更新
蛭川立