文明社会の神話的思考

神話的思考はいわゆる未開人に特有のものではなく、科学=技術の発展した現代の都市社会でも、いや、そのような社会であればこそ、なおのこと ―レヴィ=ストロースの言葉を借りれば ― 思考している当事者にも意識されずに、はたらいている。

〈自然〉への回帰

未開の神話的思考が、自然からの文化の発生という物語に力点を置いているのに対し、文明の神話的思考は、むしろ失われた自然への回帰に力点が置かれる。しかし、自然/文化という二元論の構造自体は不変である。神話が繰り返し語ってきたのは、始原の時代に、火の使用などに象徴される「文化」を手にすることで、「自然」よりも優位に立つことができた人間が、同時に、たとえば永遠の寿命を失うなどの代償を支払うことになってしまった、という物語である。そこには、神話的な「自然」状態へ回帰することへの憧れが含意されており、人は、儀礼的な行為によって、その「自然」状態へ一時的に回帰することを試みる。

日本の現代技術史

たとえば、日本の場合、戦後の復興、高度経済成長期には「文化住宅」に住み「文化鍋」を使うという生活が憧れであった。しかし、1980年代に入って、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする「味の素」を代表とする「化学調味料」がイメージの転換のため、「うまみ調味料」と名前を変えたあたりから、状況は逆転していった。

現在では、合成着色料を添加していない、天然酵母のパンや有機野菜などの自然食品を食べ、自然分娩を行うことが健康で良い暮らしだという観念が支配的になりつつある。高度経済成長期に「第二の火」として、躍進する科学=技術の象徴のように語られた原子力は、相次ぐ発電所の事故などを経て、やがて、現実の物理的・生理的危険性とは別次元で、行きすぎた「文化」、つまり人間によってはもはや制御不能になった科学=技術の象徴として嫌悪されるようになる。それと同時に、太陽光発電のような「自然」エネルギーへの回帰が叫ばれるようになる。

神話と疑似科学

現代の神話的思考は、科学の思考と共通する、あるいは類似するタームを使うので、科学の思考と見分けるのが難しい。しかしそれを科学の思考と混同するのも誤りだし、「疑似科学」というレッテルを貼ってア・プリオリに排斥するのも早計である。(「神話」という言葉は、「誤っているのに根拠もなく信じられているもの」を指し示す言葉として使われつづけているが、これはギリシア語の語源、μθοσ(ミュートス)に由来する。)

例を挙げるなら、現代の「文明」社会の中で動いている神話論理の用語に「有機/化学」=「自然/文化」がある。有機野菜とか、化学調味料とかいう文脈で使われる用語である。科学の用語であるなら、有機 organic の対概念は無機 inorganic であり、両方あわせて上位概念である化学的 chemical な領域をかたちづくる。このような用語の借用による混乱が現代の神話的思考を見えにくくしているのだが、注意深く分析すれば、われわれの生活の中でも、日々、神話がせっせと思考している、その息づかいを目の当たりにすることができる。

逆転する二元論

世界各地の諸文化でみられる二元論の中で、典型的な例として、インドネシア・バリ島の象徴的二元論がある。

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バリ島文化の象徴的二元論(→「象徴としての世界 −バリ島民の儀礼と世界観− (改訂版)」)

現代文明社会にも、似たような二元論が存在する。

自然 nature 文化 culture
天然 natural 合成 artificial
有機 organic 化学 chemical
生のもの cru 火を通したもの cuit
裸 "naturism" 着衣
黒(玄) black 白 white
左 left 右 right
woman 男 man
有徴 marked 無徴 unmarked

現代文明における二元論のより深い部分は、象徴的二元論の基本である「左/右」や「黒/白」などの概念とも結びついている。が、その価値が逆転していることが多い。

たとえば、かつては白米が豊かな生活のシンボルだったが、現在は白米よりも玄米のほうが健康に良いという言説が一定の支持を集めている。たしかに玄米のほうがビタミンは豊富であるから、どちらかといえば健康によいだろう。しかし、そこには「黒(玄)/白」という、野生的二元論のシンボリックな逆転を見て取ることができる。自然食品という観念体系においては、玄米食有機農法が同じカテゴリに分類される。

ローフード(raw food)とは、火を通さない生ものだけを食べるという思想実践である。これは神話論理の基本である「生のもの cru/火を通したもの cuit」の逆転である。裸体主義は英語ではnaturism(直訳すれば自然主義)ともいうが、動物が服を着ないように、人間も全裸で暮らそうという思想実践である。 ローフードと裸体主義が日本では強い思想になりえないのは、日本の社会が全裸で温泉に入り、刺身を食するような特異な文化だからかもしれない。

またこのような象徴論が、エコロジー(自然の復権)やフェミニズム(女性性の復権)という世界観とも結びつきが強く、また政治的には「左」と結びつく傾向がある。ただしこの「左」は、貧しい労働者・農民階級の立場ではなく、ある程度「文明」の恩恵を受けている、中産階級を中心とした思想である。

つまり、野生の神話と文明の神話は、有徴(marked)と無徴(unmarked)の構造は保たれたまま、要素だけが逆転しているとみることができる。そして、善悪の価値が反転しているようにみえても、両者に共通している根本的なテーマは「自然」という理想状態への郷愁 saudade である。この理想状態は、文字通りの意味での自然状態ではない。「自然」な出産や子育てを志向する観念は、あくまでも象徴的な観念であって、たとえばゼロ歳児死亡率が三割だったという、過去にあった歴史上の自然状態ではない。ここで仮定されている「自然」とは、一度「文化」的存在になってしまった人間が、決して回帰することのできないエデンの園なのである。



CE2010/0511 JST 作成
CE2021/01/18 JST 最終更新
蛭川立