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承前。(昨日の日記)
起床と朝食
三日坊主という言葉があるが、日記というものを書くという試みの三日目。
いつも、研究の打合せなど、仕事上の通話は、できるだけ午前中に設定してもらえるよう、頼んでいる。今日は、朝の八時半から、臨死体験の事例の統計的分析について、今後の作業の予定。アラームで起こされた直後なので、気分が悪い。気分が悪いのはよいのだが、明日は火曜日で、四限は人類学の授業で、四限というのは、15時20分…?あれ?17時?といった具合で、細かい数字を考えるのが難しい。以前、午前中に認知機能テストを受けたことを思い出してしまった。
その後は、毎朝の体重測定。オムロンとiPhoneの組合せで、体脂肪率を記録している。睡眠時無呼吸症候群の治療もあって、二年前にはいったん減量をしたのだが、昨年、外出自粛と運動不足もあって、リバウンド。
去年の秋ごろから、また体重を減らし始めている。お菓子を食べないこと、人工甘味料の比較研究、そして、今年度に入ってからは、出勤。
いつも沢山の本といっしょに移動するので、出勤するだけでも、かなりの運動になる。およそ22〜23%ぐらいが、成人男性の体脂肪率の平常値の上限らしい。なんとか正常値の上限あたりまで戻ってきた。
昨日の夜は、ブドウ糖など食べてしまったので、深夜に糖分を摂ると、それが寝ている間に脂肪に変わってしまうらしい。
カーテンを開けると、今朝も天気が良い。ヤマブドウのような植物が生えていたので、葉脈写真解析アプリで読み取ってみると、ヤマゴボウの一種らしい。
朝食は、豆腐と豆乳。箸と箸置きは、タイ製だったか、インドネシア製だったか。食べものに向かい合っても、食べ物を食べることよりも、先に、食器を見てしまったり、世界各地へと意識が移動してしまう、ということに気づけるようになった。
日記に余計なことを書きすぎている
毎朝、最初の一時間に、急ぎのメールに返事をして、これからの計画を書き出すという作業を行ってきたのだが、上記のような文章を書いていると、それだけで一時間以上かかってしまう。いや、この時間の中に食事の時間が算入されていない。
日記実験を始めたのが一昨日で、今日で三日目だが、文章量が多すぎて、見聞きしたことや考えたことを細かく書いていくと、そもそもの仕事の時間が減ってしまう。
大幅に記述を減らしつつ、しかし考察の部分は、別に、研究資料として活用したほうがいい。
さしあたり今日は、明日の人類学の講義ノートを作らなければならない。作るのは楽しいのだが。
(また向精神薬の話)
朝八時ごろに起きると、だいたい11時ごろに眠気が来る。それ以前に出勤してしまえば、脳は刺激の波に乗っていくが、自宅でじっとしていると、眠気の泥沼に引き込まれていく。このときには、薬物療法が奏効する。中枢神経刺激薬、stimulant、は、いわゆるカテコール酔いを起こす薬である。
モダフィニルを、通常の一錠、100mgを、半分に割って服用する。50mg。モダフィニルは、比較的穏やかな良い薬である。メチルフェニデートは、もっと切れ味が良いが、強すぎる。かつてはリタリンという商品名で、5mg単位で割ることができる錠剤だったのだが、いまはコンサータという徐放剤で、一錠が18mgと決まっており、それ以上に割ることができない。しかも、高価である。ADHDという便宜的な処方だが、発達障害は、社会構築主義的な「病」でもあり、背後には製薬会社の販売促進があることも、主治医は知っている。知っていて、過眠症の患者にADHDという診断名を出している。職人芸である。
こうして日記を書いていると、注意の向き方が変だ、と自覚させられることもある。トレイにお寿司が乗っているのに、お寿司を食べながら、その味を感じずに、トレイに書かれた桜の花に見入っている。これを一種の発達障害だということもできるが、自閉症スペクトラムなどということを言い出せば、すべての人がある程度は自閉症だということになってしまう。こういうことの背景にも、製薬会社の販売戦略がある。製薬会社が悪いわけではない。高価なコストをかけて作った薬は売らなければならないし、それを飲んで救われる人が確実にいるからだ。
私の書いている文章も、どこか文脈がおかしい。自閉症児は、人と、差し障りのない話をするのが苦手だという。その治療薬の候補として上がっているのが、オキシトシンである。オキシトシンは、日本では医薬品ではないので、アメリカなどから個人輸入できる。学生さんたち数名に声をかけて、オキシトシンとプラセボを点鼻薬の瓶に入れて、比較試験を行ったことがある。個々人が個人輸入、個人消費するかぎりは、合法である。本人にはわからないようにして、純水を入れた瓶を用意し、区別できないようにして、ランダムに使ってもらう。私じしんは、二つの瓶のどちらを吸っても、サッパリ効き目が感じられなかった。効いたという学生さんに聞くと、話し相手が自分に敵意を持っているのではないか、という感覚が減ったのだという。
オキシトシンは、信頼の物質とも言われる。なるほど、私は、とくだん他人には敵意を感じないので、だから効かなかったのだろう。
昼食
12時のメッセージが来た。講義ノートの原案執筆も、ひと息。モダフィニル50mgはしばらく効いたが、やがて眠気がやってきて、すこし意識を失った。薬を飲んで眠気を覚まそうとしたが、止めた。刺激薬を飲んで交感神経が上がりすぎて、そしてフルニトラゼパムで抑えるという、これはかなり悪い組合せなのだが、賢明な読者から、ベンゾジアゼピンの使用について警鐘があったので、今日はこれを飲んでいない。日本にいるとわかりにくいが、欧米の基準では、ベンゾジアゼピンは、アルコールやバルビツールと同様の危険ドラッグだと認識されている。
こんにゃく麺シチュー。何度もコショウを振りかけながら食べつづける。食べ物の味よりも、香辛料のほうに敏感である。熱いものは苦手だが、ホットでスパイシーなものに対しては耐性と依存性ができている。それゆえコショウの刺激は幸福を遠ざけると言ったのはラッセルだった。
- 作者:B. ラッセル
- 発売日: 1991/03/18
- メディア: 文庫
ラッセルの幸福論と結婚論は、無難なことが書いてあって、面白くない。「書きたい本」よりも「売れる本」を書く経済的必要性があって書かれたのだともいう。この葛藤は、プロの物書きが誰しも抱えている。さて話を戻すと、依存症者には、安心して依存できる居場所が必要だというのなら、香辛料依存症者はどこへ行けばいいのだろうか。インドだろうか。
上げて下げるサイクルというと、何のことやらわからないが、朝、コーヒーを飲み、夜、(酒を)飲みに行く、晩酌をする、というのが、この依存サイクルの典型例である。これは社会に対する前向きな適応であり、この方向の向精神薬は、社会の回転に適応しにくい人を、適応しやすくすると同時に、適応している人を、過適応させてしまう。
向精神薬と薬物依存の話題が多いが、脳と心、物質と精神の関係を、やや危険な自己実験も伴いながら探求していくのに、じつに的確なテーマだからでもあり、こうした薬物は、適切に乗りこなしていくことで、生活は、より早く、より深くなる。これは、自動車、あるいは飛行機、あるいは潜水艦、あるいはロケットのようなものであり、相応の知識と経験が必要となる。潜水艦やロケットにかんしては、ふつうの意味での生活には不要かもしれないが、内宇宙飛行士の話は、拙著『精神の星座』に書いたとおりなので、繰り返さない。
休憩、そして
講義ノートは講義口調なので、じつは日記の本文よりも文章が荒い。あえてそのように書いている。しかし、モニタを凝視しながら、しゃべるように打ち続けるのは、けっこう疲れる。目まいがする。
徹底的に低脂肪にこだわり抜いた疑似ラッシー
ラッシーを一服、と同時に、フルニトラゼパムを0.2mg。これは、1/5錠である。水に溶かして、微調整できるようにした。これは、イギリスにいたときに断薬したときに学んだ。忙しいときには刺激薬や砂糖で上げて、上がりすぎたらフルニトラゼパムの錠剤を放り込むといった乱暴なことを繰り返してきた。フルニトラゼパムを2mg服用するのが当たり前の日々も続いた。このように書くと異常なことのようだが、コーヒーを飲み、酒を飲むほうが乱暴な方法で、その後に開発された医薬品のほうが、ずっとスマートである。(このように書いてまた、コーヒーや酒の、その味や香りを楽しむという側面を無視して、神経系への安全性と効率だけを考えていることに気づく。)
ロンドンでは不眠を訴えただけで精神分析を受けることになってしまい、良い経験になったが、とくだん効果はなかった。しかし、イギリスではベンゾジアゼピンの断薬プログラムがしっかり作られていたので、それには助けられた。ベンゾジアゼピンは、バルビツールやアルコールよりも、ずっと洗練された、革命的な発見であったが、といって漫然と服用しつづけるものでもない。必要なときに使って、不要なときには止める。止めるときにも、ゆっくり減らさないと、反動で墜落する。飛行機の高度をゆっくり下げていって、滑走路に軟着陸させるときの感覚に似ている。管制塔とパイロットとの阿吽の呼吸による共同作業でもある。
逆にまた自分が使っていない薬草や薬物のことにも気づく。上のようなことを書いた割には、酒とタバコと大麻は、ほぼ日本国外で真摯な宗教行為として合法的にしか使用したことがなく、私にとっては、アヤワスカと同じぐらい、日常から遠くにある、聖なるものである。逆に、世俗の世界で嗜好品として使ってはいけないものだという宗教的観念も持っている。コーヒーも十年ぐらい飲んでいないような気がする。タバコというものは、南米のシャーマンが使うもの、大麻というのは、ヒンドゥー寺院でいただくもの、酒というのはモンゴルや沖縄の宗教儀礼で用いられるものだというイメージを持ちつづけてきた。だから、日本でタバコを吸っている人を見ると、アヤワスカの茶会を妨害する邪悪な精霊を追い払ってくれている人のように見えてしまう。
私が見ている世界は、かなり普通ではないのかもしれない。また、そういう離人感を感じる。その理由は、私に「自明性の喪失」のような精神障害があるというよりは、単純に、海外での体験が多いということがあるだろう。今まで、アフリカから東欧にかけてのエリア以外を、浅く広く移動しながら暮らしてきたので、そのことで視野が広がったし、均質性の高い日本の社会とのズレがおこりやすいのだろう。もっとも、均質性の高い日本の社会に違和感があったからこそ、外へ出ていったということでもあるし、また日本に戻ってきて、日本だけで暮らしていたのではわからなかった、日本文化の美しさについてもよく体感できるようになった。
食生活日記として書きはじめたところが、断薬日記になってきた。こちらのほうが、他人に見られているという感覚があったほうがやりやすい。
食生活の改善の前に、健康診断にも行かなければ。昨年度はキャンセルだったので、二年ぶりになる。
四時からは、また学生さんとの打合せ。なんと今朝の打合せのときには、最初は布団の中にいたが、音声だけだった。次は画像つきなので、上半身だけ、まともな服装に変身する。
夕食
7時。昼食と同じ。それにはとくだん問題はない。禅寺では、一つには功の多少を測りその来所を計るという。原材料動植物から口に入るまでの長い経路を観想すれば、生態系の一部として今ここで食物が喉を通り、また吐息と排泄物が生態系へと還っていくことの神秘的奇跡の流れの中にいると解る。
大学生のときに睡眠発作で倒れたときに運ばれ、お世話になった京都大学病院ポーチに常備薬を入れている
食事よりも、薬のほうがはるかに問題があるということに気づいた。食べのものの詳細な写真を撮っている場合ではないかもしれない。いつの間にか、フルニトラゼパムを0.5mg飲んでいた。もっとも、何も考えずに常用していたときの四分の一に減っている。日記を書くのは、無意識の薬物依存からの更生に役立つ。
毎食後三回、などと指定されている薬を、その意図どおり、六時間おきに飲んだりはしてこなかった。というのも、食事の時間がはっきりしなかったからである。
アルコールのような、人生を壊す危険ドラッグには手を出さない、などと理念的なことを言っている割には、ベンゾジアゼピンを日常的なサプリメントのように常用していることに気づいた。ここでも常識との逆転が起こっていた。ふつうは、コーヒーや酒や、あるいは自然物由来のサプリメントは自然だから、まあ安全なものだと思われていて、医者から処方されるような人工的な薬は、どこか不自然で体に悪いと思われるのかもしれないが、私は、アルコールやカフェインのほうが原始的で野蛮なものであり、研究の蓄積の上に発明されてきたベンゾジアゼピンや新規中枢刺激薬のほうがより洗練されていて副作用も少なく安全だと考えていたところがあるし、じっさい、それは間違いではない。ただ、より洗練されているからといって、その作用機序を知っているからといって、慢心してはいけない。日常的な嗜好品のように無意識に飲み続けるのも良くない。
睡眠と覚醒と光
昨日は帰宅が遅く、疲れていたので、お風呂に入らないまま、寝てしまったことも思い出した。シャワーを浴びてスッキリする。
「10時です。今日できることは、明日やりましょう」というメッセージが来る。授業の準備は、自分の知識の整理にもなり、楽しいが、そろそろ脳を休めたい。
また遠い場所の記憶が蘇ってしまったが、上の記述の訂正。
最後にコーヒーを飲んだ記憶は、七年ばかり前、ブリスベンで、友人と、うっかりラマダンの日に外出してしまって、なにか飲食店を探し、それからエチオピア系難民の街に迷い込み、本物のカフェに入ったときだった、と思い出した。本物のカフェーの本物の女給さんは、じつにエチオピアの巫女だった。茹でたコーヒー豆を、いったん祭壇に捧げてから、湯を入れて客に供していた。コーヒーもまた茶会であり、真摯な宗教行為だと知った。
精緻に合成された薬物は近代科学の粋だが、植物はソバージュである。レヴィ=ストロースが逆説的な意味で「野蛮」と呼んで尊敬したものである。つまり植物もまた物質にすぎないが、その土地のその文化の祈りの文脈の中でこそ、精霊の住処となる。
その後、コーヒーはチャと共に、覚醒の帝国による植民地支配のプランテーションと化し、精霊は抜き取られてしまった。そういえば、昨日は、来訪した学生さんと、神戸の上島忠雄商店のことを語り合った。
「11時です。光を落としてメラトニンを合成してください」というメッセージが来る。脳は、暗くなると眠くなるはずなので、電源を落とし、部屋を暗くして横になることにする。
光はまた明日、やってくる。ブラジルのサント・ダイミ教会では、力を与えよ光を与えよ、蔓は力で葉は光、と歌われるが、蔓とはアヤワスカのことであり、葉とは、コーヒーのことではなく、同じアカネ科のチャクルーナのことである。チャクルーナこそが、光をもたらす覚醒剤である。