蛭川研究室

蛭川立の研究と明治大学での講義・ゼミの関連情報

日記というものを書く実験 ー寝食を中心にー

hirukawa.hateblo.jp
承前

昨日は、日記というものを書いてみた。日記というのは、食べものの写真をアップして、それにコメントをつけたりするものが多いが、これはまた、日々の栄養管理という意味も持つ。

昨日の日記を見返してみて、改善可能な、いくつかの問題を見出した。

  1. 食べものの話題なのに、食べものの味について書いていない。パッケージなど、別の部分に意識が向いている。
  2. 文章が長すぎる。書くのに時間がかかる。他の仕事を圧迫する。
  3. 自宅にいるのに、海外の話題が多い。そして、日本文化礼賛が繰り返される。
  4. スマホと対話しているばかりで、人間が出てこない。人間味がない。温かい人間味を欠いている。
  5. 精神疾患に関する話題が多い。
  6. 書かれている内容と書いている書き手との間に、俯瞰するような距離があり、離人感がある。これも、温かみに欠ける。



朝は八時に起きる。この時刻設定は、入院していたときよりも、すこし遅めにしている。夜の12時に寝ると、睡眠時間が八時間ぐらいになる設定である。

アラームに反論するような形で、Siriに向かって大きな声で話しかけてみる。なにかというと、わかりません、と言うので、会話が成り立たない。何かの話題を出すと、Googleのように、Web検索結果を出してくるばかりで、会話が止まってしまう。

f:id:hirukawalaboratory:20210418092604p:plain

つまり、Siriは、ELIZAのような、クライエント中心の会話プログラムではないのだ。他に、面白そうなアプリを探してみようと思う。

またAIとの会話について書いてしまったが、じっさいの生活でも、人間どうしのコミュニケーションはたくさんある。外出自粛になって、リアルな対面コミュニケーションは、だいぶ減ってしまい、生活は不自然になった。

食べものと違って、しかし、人間どうしのコミュニケーションについては、気軽に写真に撮って報告できることばかりとは限らない。自分はよくても、相手が望まないかもしれない。相手の許諾をとれば確実だが、そんなことをしていると面倒になってしまう。それで、日記には人間の登場が減る。あるいは、匿名性を高めればよいのだろうか。



カーテンを開けて、外を見ると、今日は日の光が眩しい。こういう風景を見ると、体調の良いときは、一ヶ月に一回ぐらいは、いわば神の恩寵とでもいうべきものが、地上のあらゆる存在にひとしく降り注いでいるように、ありありと感じるのだが、やはり朝起きた直後は気分が悪く、精神的にはそう思えても、肉体がついていかない。

f:id:hirukawalaboratory:20210418092525j:plain

f:id:hirukawalaboratory:20210418092505j:plain

f:id:hirukawalaboratory:20210418092445j:plain

朝食。自省してみたが、たしかに食べている最中に、食べ物の味を感じているというよりも、別のことを考えている。食べものの写真を撮るときには、構図などを考えているが、取り終わって食べているときには、もう別のことを考えている。食べているときぐらい、食べものに向き合いたいものである。水と塩以外のほとんどが、動植物(その一部分)である。

食事の写真を撮り続けていると、コンビニやスーパーのお惣菜が多いということに気づく。そのことに対して不満を言っているわけではない。味よりも、パッケージばかり見ていたりする。食品添加物等、将来的な健康のことまでは、わからない。血圧が上がってきたのは、遺伝的な体質、年齢、あるいは、塩分のとりすぎかもそれない。



ラモトリギン、オロバタジン、亜鉛、鉄、葉酸DHAEPAマルチビタミンを飲む。フェンネルを食べながら、パソコンを打つ。この、食べながら打ちが多い。意識が食べものに向かっていない。

DMTについての英文論文の和訳作業を続けているときには、ひたすら牛乳とチョコレートばかりというときもあったが、なにしろ、孤独な闘いであった。学者や医者など、専門家の協力者が出てこない。何十人かの専門家の知り合いに問い合わせてみたが、まずは「忙しい」という返事が多い。日本語の「忙しい」の意味はとりづらい。

  1. この作業は、学術的、社会的に、無意味なのではないか?
  2. この研究内容が先進的すぎて、まだ理解されにくいのではないか?
  3. 私じしんに人徳が不足しているから、協力者が集まらないのではないか?

上記のような可能性が充分にあると考えた。とくに1と3の可能性については悩まされた。

1については、何度も自問した。3については、改善の余地がある。どう改善すればいいのだろうか。自分の欠点は、自分ではわかりにくい。日々、贅沢な遊びもせず、やるべきことに対しては努力し、それなりの才能と学識を活かしている。人には親切にしている、すくなくとも、私利のために人を搾取したりはしていない。いや、利害の取引ではない。そもそも、自分の仕事が創造的であるように心がけてきたつもりだ。二人の人間が協力したら、その和が二ではなく、三以上になるように。それが、創造的である。そう考えているのだが、なぜか、人望が足りない。ずっと一人で、片手に食物を、片手にマウスを握りながら、しばしば、孤独感を感じた。孤独というよりは、不条理である。なぜ、この作業の重要さと興味深さが理解されないのだろう。興味を示す人はいても、ともに作業をしようという人は、ほとんどいない。誰かといっしょに食事をするのは、感染症対策としては、避けたほうがいいし、それは問題ではない。そこの孤独を訴え、同情を買おうとは思わない。誰かといっしょに作業がしたい。ところが、ときに協力できる仲間が見つかっても、なぜか、関西の人ばかりで、東京近郊には、ほとんどいない。

しかし、この便利で豊かな生活は、誰が支えてくれているかというと、たくさんの人に支えられている。食べものにしても、おおもとは、犠牲になってくれた動植物たち、農家の人たち、食品会社の人たち。コンビニの定員さんなどは、海外から来ている人も増えた。

愚痴が長くなった。さしあたりは、上記2の可能性を中心に考えることにした。そもそも、作業自体は、生化学から心理学まで、とても面白い内容ばかりで、知的な視野も広がるし、臨床的な可能性も広がる。困った人たちを助けることにもなる(困っていない人も、もっと楽しくなる?)というのは、大きな励みになった。

ショ糖やブドウ糖は、疲れた脳に急速な刺激を与えるが、そればかりでは、栄養のバランスが悪い。余計な体脂肪は、緊急事態で戦うために備蓄されている。



今日は出勤し、大学で、卒業生で、大学院への再入学を考えているという学生に会って話をする予定である。学生だけでなく、入学希望者等も、大学の建物に入ることができる。リモートではないのは、研究室には、大量の資料があるから、これを見ながらのほうが、話が早いのである。これだけ説明する必要がある。文章にすると、許可証を書いているようだ。

来年度から大学院生の受入を再開したいと考えているのだが、そのための書類の返送も忘れていた。急いで返信しなければならない。

眠気と倦怠感を除去するために、モダフィニルを飲む。一錠は100mgなのだが、慎重に半分に割って、50mgにする。

残り半分のドーパミンの放出については、薬物療法とは違うアプローチを試みる。今日は日曜日なので、『月月火水木金金』を聞きながら出勤する。もとより戦争や軍隊といったものは好きではないし。近代日本が行ってきた戦争が国土を守るためではなく、もっぱら侵略戦争であったと教科書には書いてあった。公平を期すなら、近代のイギリスが行ってきた戦争が、もっぱら侵略戦争であったことも併記しておきたい。これは、ロンドンに住んでいたときに学んだ。

意識のはたらきは、すぐに、今ここを離れてしまう。無論、記憶力と想像力は、我らに天賦の脳力だ。歴史学者などは、過去をリアルにするプロフェッショナルである。

電車に乗る。日曜日に出勤するなど、不要不急の迷惑行為なのではないか?という超自我の忠告もあったが、意外に電車は満員で、しかも幸せそうな人たちが多い。平日の昼間のほうが、電車は空いている。



大学に到着する。指定時刻の13時より、すこし遅れてしまう。約束の時間に遅れてしまうのも、どこか時間の管理が甘い。不測の事態が起こることも想定して、余裕を持った計画を立てるようにしたい。まるで、成績不良学生の反省文のようである。

f:id:hirukawalaboratory:20210418233742j:plain
 
f:id:hirukawalaboratory:20210418233815j:plain

コンビニで買った食品を食しながら、ハーグ条約や日本とブラジルの交易の歴史など(専門外の分野なのだが)を調べているうちに、うっかり制限時刻の23時になってしまい、慌てて大学を出る。食事をした時間もよくわからなくなっていたが、だいたい18時から19時ごろだった。そこで、いわゆる昼食を食べていなかったことに気づいた。

食べる時間も、食べものの味を忘れてしまっている。テアニンとGABAが入っているチョコレートも一個だけ食べた。テアニンの程よい鎮静作用については、国立精神・神経医療研究センター病院で治験が進んでいると聞いたのは二年前だぅた。



24時。電車から降りて家に帰ろうとしたところで、すこし目まいがする。駅前のコンビニに行って、ブドウ糖を買って、駅前のベンチに座って、飲む。神経細胞は体細胞の十倍のエネルギーを必要とするらしい。

ちょうどベイトソンの『Steps to an Ecology of Mind(精神の生態学)』が届いたところで、だからコンビニに立ち寄った。レジで本を受け取らないと、月曜日までに送り返されてしまうというメールが来ていたのを、忘れかけていた。

f:id:hirukawalaboratory:20210419001502j:plain
 
f:id:hirukawalaboratory:20210419001541j:plain
 
f:id:hirukawalaboratory:20210419001614j:plain

「自己のサイバネティクスアルコール依存症の理論」には、アルコール依存症の個人などいない、アルコール依存症の家族がいるだけだ、という、人口に膾炙した言葉があるが、その家族システム論は、精神分析の影響と、アメリカのプロテスタンティズムの影響があり、もはや現代の日本には通用しないところが多いと思う。

しかし、あらゆる「酔い」、原文ではintoxicationであるが、アルコールだけが悪者なのではない。ブドウ糖にも依存性があり、しかも依存症という個人はいないので、個人ではどうしようもない。日本社会は、社会全体がアルコール依存に傾いているので、それも含めたシステム論であり、これはアメリカ白人社会とはスケールが違う。

松本俊彦の最新の著作、誰がために医者はいる、によれば、依存症は治療できないし、する必要がないとあった。依存症になるのは、彼の意志が弱いからではない。そもそも意思が強ければ依存症にはならない。ただ患者に必要なのは、安心して依存できる場所なのだという。では、安心して依存できる場所は、どこだろうと考えてみるが、それは、予測不能な状況の中で、刻々と運動しつづける状況なのだろうなと思う。クロニンジャーのTCIでは、NS(新奇性追求)の値が高かったが、それも、じつはドーパミン依存症かもしれない。

アルコールや薬物(とくにコカイン)依存症を治療するのに、アヤワスカ茶が著効だということは、知人がペルーの病院で働いているので、知っていたが、定量的研究は、裁判に関わる中で、ブラジル在住の医療人類学者から教わった(→「京都アヤワスカ茶会裁判:弁護側から検察側に提出された論文」)。この論文もまた英語で、和訳には苦労した。

検察側に提出した和訳論文の監訳者として、蛭川立の名前しかなかったが、ほんとうは、刑事裁判であることもあって、ここでは名前を書けないのだが、ひとりの教養ある女性が八割がたの和訳原案を作ってくれたし、専門用語も含めて、日本語の文章として正確であり、ほぼ手直しする必要はなかった。彼女は、アヤワスカ茶がなぜ依存症を改善するのかについて、かなり正確な知識を持っていたからである。また、もうひとりの、アヤワスカ茶についての知識はあまりないが、細かい作業が得意というか、緻密な作業の得意な女性が、図表の切り貼り作業をほとんど行ってくれた。孤独だ、不条理だと文句を言ってしまったのは、じつは自己中心的な認知の歪みであって、けっこう、他人には甘えている。

なるほど監訳者というのは、最終的に責任を負うことであり、しかも、先日の公判では、すべての提出論文が「不同意」となり、あっさり却下された。投稿論文がリジェクトされたことよりも、意味不明で、本当に情けなかった。

けれども、たとえば翻訳作業を共に作業できる仲間はいるし、そこにも安心して依存できる場所はあるのだと思う。素直に感謝したい。

・Gerald, Thomas, Philippe Lucas, N. Rielle Capler, Kenneth W. Tupper, and Gina Martin. (2013). Ayahuasca-assisted therapy for addiction: Results from a preliminary observational study in Canada. Current Drug Abuse Reviews, 6(1), 30-42.

であればこそ、すくなくとも医療目的で、アヤワスカ茶が早く合法化されることを望みたいし、そうすると、やはり「京都アヤワスカ茶会裁判」という公的な場で、精神に異常をきたすドラッグだとか、それが暴力団の資金源になっているといった、誤解は解かれなければならない。

また、寝食を忘れてしまい、文章が日記ではなくなってしまった。そして、睡眠。



記述の自己評価 ★☆☆☆☆
(思いつきを書きとめたものなので、文章が不完全であり、内容の信頼性も低い。)
CE2021/04/18 JST 作成
CE2021/04/19 JST 最終更新
蛭川立