力への帰依・力への意志 ー「依存」のシステム理論ー

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〈処罰〉から〈治療〉へ

薬物乱用に対する方略は、「処罰から治療へ」あるいは「規律から管理へ」というパラダイムでとらえることができる。違法薬物を所持・施用すれば、逮捕され、裁かれる。懲役刑になるのも普通である。法はルールである。たとえば「殺人」は「死刑」だというルールは、行為の倫理的な善悪を問わずに適用される。刑罰は、もっぱら同様の犯罪・再犯を防ぐという社会的役割を果たすために定められている。しかし、死刑、あるいは無期懲役は、受刑者が更生し、社会復帰することを不可能にする。だから「更生」は、より「治療」に近い思想である。

単純な「処罰」は、政治権力が個人の生死の自由を奪うという、「権力=法律(pouvoir-loi)」の行使である。しかし「更生」においては、受刑者は服役中に、規律を内面化するという訓練を受ける。これがフーコーのいう「規律権力(pouvoir de discipline)」である。つまり外部から規律で拘束するのではなく、規律を内面化するのである。(不完全な覚え書きではあるが「パノプティコン/監獄の誕生」も参照されたし。)

あるいは、薬物乱用による心神喪失心神耗弱状態で行われた自傷・他害に対しては、医療保護入院措置入院という、本人の意志(任意入院)ではない入院という手段も用意されている。乱用者の行き先は、監獄ではなく、病院(精神科病院)である。監獄で行われるのは更生だが、病院で行われるのは治療である。これは薬物乱用の「医学化」である。

依存の象徴としてのアルコール

多くの国と地域において、アルコールは文化として許容されている。その施用自体に対しては、処罰という方法は適用されない。多くの国と地域ではアルコールが合法だからである。(それは、専売・税収という、また別の政治権力と表裏一体なのだが、それは「課税のポリティクス」で論じた。)処罰でなければ、入院である。しかしアルコール依存者の多くは、治療を否認する。なぜなら、依存者は、アルコールという物質それ自体というよりは「アルコールに依存できる状況」に依存しているからである。

通常、医療保護入院措置入院は、重度の統合失調症などで判断能力を失っている場合に適用される制度だが、アルコール依存者は、すくなくとも〈醒め〉の状態では、正常な判断能力を保っており、まさにその判断能力によって、自らの〈酔い〉を防衛し、治療という「生・権力(bio-pouvoir)」を否認するのである[*2]

1885年、アメリカでは国民的ドリンクであるコカ・コーラ、つまりコカインとカフェインのブレンド飲料が誕生した。自我を強化する興奮剤(stimulant)は、むしろ加速する資本主義と相性が良い(→「興奮するモダン/沈静するポストモダン」)。いっぽう、アヘンやアルコールのような抑制剤が忌避されるようになったのは、強化される自我に逃避の場を与えることになったからである。資本主義を批判しつつも、労働に人間の本質を見いだしていたマルクスは「宗教は民衆のアヘンである(Die Religion … ist das Opium des Volks.)[*3]」という言葉で、ルサンチマンに毒されたキリスト教道徳をオピオイド鎮痛薬にたとえた。

つまり興奮剤、コカインやカフェイン、そして後に日本で合成されたメタンフェタミン覚醒剤は、使用者に「無限に速く走れる」という幻想、男根的な全能感という〈酔い〉をもたらしたのに対し、アルコールやアヘンは、使用者に「無限に速く走れるはずがない」という現実から逃避し、良い乳房を咥えた、乳児的な全能感という〈酔い〉をもたらした。

1912年にハーグで万国阿片条約(International Opium Convention)が締結され、これが向精神薬の国際的統制の始まりとなった。さらにプロテスタンティズム=資本主義の最先端を行くアメリカでは、1920年禁酒法という大きな実験が行われたが、その法権力は、1933年に失効した。

たしかに物質としてのエタノールには強い毒性と依存性がある。世界各地の文化には地酒があったが、乱用されるほど問題にはならなかった。アルコール度数が低かったからである。『聖書』ではアルコール度数の低いワインが日常的な飲料として描かれているし、イエスはワインを製造し、人々に施用している。後発の宗教であるイスラームは酒に対する態度を変えていった。先行する経典でワインが服用されているのだから、ワインの飲用は良しとする、という議論から[*4]、やがて全面禁止の方向へと向かった。この変化の背景には、イスラーム文明に支えられた中世アラビア科学における化学(al-kīmiyā)の発展と、そして蒸留法の確立があった。アルコール(Al-Cohil)という言葉自体がアラビア語に由来している。

同じ抑制剤でも、オピオイドは違法化されたが、蒸留酒が大量生産されるような時代になっても、アルコールは合法であるがゆえに、近代的自我の〈影〉という象徴的役割を担う特権的な薬物になってしまったのである。ここで、依存の対象としてもっぱらアルコールについて扱うのは、そのような理由からである。

「依存」というシステム

AAーアルコホーリクス・アノニマス

そのアメリカで、1934年に新たな霊的啓示が起こり、翌年、アルコール依存症の自助会、AA(Alcoholics Anonymousアルコホーリクス・アノニマス[*5])が組織された。禁酒法やAAの強硬な父権的論理の背景には、アメリカ化されたキリスト教への信仰がある[*6]。もはや処罰されなくなった飲酒者を「回心」させ、自助会(self help group)という教会へと導く。「自助(self help)」とは「天は自ら助くる者を助く」という、内面化された規律権力である。

AAの神学において「回心」は「底を極める(hitting bottom)[*7]」ことによって起こる。この方略においては、依存者を援助することは禁忌である。「援助を奪う援助」というパラドキシカルな働きかけによって、依存者を否認が不可能な限界まで追い詰める。そして彼[女]が「底を極め」自己の無力を受容した瞬間に、自己を超えた絶対者への回心が起こる[*8][*9]

宗教体験には副作用がある。自我肥大(ego inflation)は自我収縮(deflation)[*10]
によって抑制される。なぜなら人間は神=絶対者ではないからである。AA ⇄ Al-Anonの基本理念である「アノニミティ(anonimyty: 無名性)」は、たんにミーティング参加者のプライバシーを保護するための方便ではなく、参加者が自覚的に氏名や社会的属性を積極的に放棄することによって、絶対者の前ではすべての個々人がひとしく無力な存在であることを自覚するための方法でもある。個々人は、各人が理解したところの「神」と直接的に交感するのだから、両者を仲介する宗教的権威を否定せず、しかしその作用を注意深く避けている[*11]

そして、自我肥大の逆の自己憐憫に対しては、勇気(courage)が対置される。これはまた、ルサンチマン(ressentiment)こそがキリスト教の罠であると喝破したニーチェが「力への意志(Der Wille zur Macht)」を対置させたのとも並行している。

「自己」なるもののサイバネティックス

この霊的(spiritual)な神学を、ベイトソンサイバネティックスの用語で言い換えようと試みた。サイバネティックスにおける回心とは、自己が「自己よりも大きな力(a Power[*12] than the self)」への抵抗をやめ「降伏(surrender)[*13]」することであり、それは自己通過儀礼(self-initiation)である[*14]

アルコール依存症は、しばしば家族システム内部の相互作用に見出される。夫がアルコールに依存し、妻を虐待するという典型例[*15]において、夫はアルコールという物質だけに依存しているのではない。表層的な依存の対象は、アルコールという物質でもありうるし、ギャンブルという行為でもありうる。しかし家族システムの要素として見れば、彼は「依存を許す相手」としての妻に依存している。そして妻が夫に関与しようと努力するほどに、逆説的に、妻は夫の依存を可能にする「イネーブラー(enabler)」としての役割を果たすことになる。

Al-Anonーアラノンー

アルコール依存者の自助会を補完するように、アルコール依存者家族の自助会、アラノン(Al-Anon)が存在する。参加者の多くは、夫がアルコール依存症である[であった]女性たちである。アラノンの「礼拝」において、匿名の参加者は、アルコール依存者の家族であり被害者であったはずの自分じしんが、じつは被害者であると同時に加害者であった、つまり「共犯者」だったと気づいた、という罪の告解(confession)を行う[*16]

システム論的な相互作用として見るとき、Al-AnonがAAを事後的に補完しているというよりは、むしろAl-Aanonという、無力さへの「自覚」が先にあってこそ、AA ⇄ Al-Anonという回心のフィードバックが起こるのである。

聖俗におけるジェンダーの相互作用は、旧大陸シャーマニズムにおいて、男性たちが〈俗〉の世界で権力を持つがゆえに、女性たちのほうが先んじて〈聖〉の領域へと召命されるのと同型である。(→「黄衣の巫女ーコン・ムアン社会におけるトランスジェンダーなトランス儀礼ー」)

パワーゲーム[*17]としての相互行為が、共依存という正のフィードバックのサイクルに入ってしまうのを止められなくなると、それは発散という形で終わるしかない。つまり離別による家族システムの解体である。しかし、それは象徴的な母子の分離と再社会化という定型的な発達課程であり、解体したシステムがより高次のシステムの一部として統合されていく、階層化された自己組織化のプロセスでもある。

分裂生成

共依存と同様のシステムをベイトソンは「分裂生成(schismogenesis)」と呼ぶ。これはニューギニアの先住民イアトムル(Iatmul)における〈男/女〉の対立の発散的分裂儀礼である「ナヴェン」の分析[*18]に由来している。


『Naven』の表紙に描かれたイアトムルの儀礼

諸文化においてもっとも重要な通過儀礼(initiation)は成人儀礼である。成人儀礼の主題は、母親からの分離であり、子供は〈死と再生〉のプロセスを経て、男児は成人として男子秘密結社への参加を許され、また女児は成人として婚姻という形で他の出自集団に移動する[*19]

同居/別居は物理的実態であり、あるいは婚姻/離婚は社会的合意であり、その背後にあるシステム自体は抽象的な概念であり、不可視である。

AAにとっての目的は断酒という実際的な行為だが、Al-Anonの目的はより抽象的であるー「Live and Let Live(自分は自分自身に生き、他の人は他の人自身に生かしめよ)」[*20]ーがゆえに、より純粋に「システム」の作用を表象している。

毒を以て毒を制す

生物学的精神医学は、アルコール依存症に対して、抗酒薬を処方する。抗酒薬は、アセトアルデヒドの分解酵素を阻害し、アルコール摂取後の不快な二日酔いを増大させることによって、飲酒に対して負の条件付けを行う。

いっぽう、DMTやシロシビンなどの精神展開薬(psychedelics)が、コカインやアルコール依存を改善することが知られている。薬物使用が薬物依存を改善するという逆説を、抗酒薬と同様の、ミクロな神経科学的によって説明することもできる。アルコール依存症のマウスにシロシビンを投与すると、アルコール依存が改善するという。この作用機序については、アルコール依存症は脳内のmGluR2(代謝グルタミン酸受容体)タンパク質の不足によって起こるものであり、シロシビンはmGluR2を増加させるという実験がある[*21]

しかし、人間を対象とした心理学的研究では、被験者の主観的経験が語られる。たとえば、カナダの先住民族のコミュニティで行われた、アヤワスカ茶がアルコールやコカインの依存を改善するという研究[*22]において、被験者は、マインドフルな瞑想的心理状態を報告する。その「回心」の「副作用」として、依存という構造が解体される[*23]

AAにおける「底をつく」という「死と再生」のプロセスは、臨死[様]体験でもある。臨死体験においては、極度のストレスに対する反応として、神経保護作用を持つ内因性DMTが生合成される(→「臨死体験」)。

ハーム・リダクション/ハーム・デコンストラクション

アルコール依存者からアルコールという特定の依存対象を奪ったとしても、依存者はまた別の依存対象を見つけ、それに依存するだろう。なぜなら依存者は「何かに依存している状態」に依存しているからである。しかし、およそすべての人間は発達の初期から母親の「良い乳房」に対する依存者なのだから、依存じたいは哺乳類の適応的な生得的プログラムである。どのような形態の依存を処罰・治療の対象となる逸脱とみなすのかは、社会的に構築された規範による。

オーストラリアの北部準州では、先住民族に広がったアルコール依存に対して、カヴァ(→「南島の茶道 ーカヴァの歴史と現在ー」)を普及させるという政策が実施されたことがある。カヴァ茶はアルコールよりも穏やかな〈酔い〉をもたらす飲料であり、依存性が弱く、自傷・他害のリスクが少ない。しかし、カヴァ茶の服用でも、肝障害や運転事故は起こる。この政策は、さらなる肝障害の広がりによって断念されることとなった。

依存者の「依存」を「治療」するのではなく、より危険性が少ない依存対象に置き換えるという、消極的だが、現実的な方略である。「底つき」によってハームを無くすのではなく、「底上げ」によってハームを減らす。これが、ハーム・リダクション(危害の低減)である。オランダでは、大麻は違法であるが、非犯罪化された。非犯罪化というのは、違法だが処罰しないという、矛盾を含んだ概念である。同じ違法薬物でも、ヘロインのようなハード・ドラッグを使用するよりは、大麻のようなソフト・ドラッグを使用するほうが、あるいは、不潔な注射針を使って静脈注射を行うよりは、政治の側から、より清潔な注射針を提供するほうが、比較的に安全である、という思想である。

自己と他者の二元論自体を解体し回心を起こさせるという方略が、いわばハーム・デコンストラクション(危害の脱構築[*24])である。それに対するハーム・リダクションは、より「安全」である。しかし、これは、フーコードゥルーズのいう垂直的な「規律権力」(男性の象徴である、強いファルスによる切断)と、水平的な「安全装置」(女性の象徴である、良い乳房による包含)のアナロジーでもあり、それは同じ「生・権力」がよりミクロになり不可視なシステムとして作用しているとみることができる[*25]

規律権力 安全装置
ハーム・デコンストラクション ハーム・リダクション
AA ⇄ Al-Anon CRAFT
底つき 底上げ

たとえばより現実的なクラフト(CRAFT)と比較すると、アラノンは厳しすぎるがゆえに回復率も低い[*26]とされる。けれども、AA⇄Al-Anonは霊的な方法論なのだから、その「効果」を数量化すること自体が不可能だともいえる。いずれにしても、アルコホーリクス・アノニマスは外部からの評価に対しては意見を持たない。

さらにリベラル化する精神医学は、依存症は治療するものでさえなく、依存者に対しては「安心して『誰か』に依存できる社会」[*27]を保証しようとする。ここで「誰か」が人間であれば、それが、水平的な「ハーム・リダクション」である。

しかし、人間の有限性の自覚を強く求めるAAの神学においては、その「誰か」が人間であるかぎり、依存の対象は有限であり、だから完全に安心(あんじん)することはできない。完全に依存できる対象は、完全でなければならない[*28]。絶対者が実在するという以前に、有限な人間の実践理性(praktische Vernunft)[*29]が絶対者の存在を要請するのである。

僧院 監獄 病院
救済 処罰 治療

「処罰」も「治療」も、いずれも「される」ものである。受動態である。しかし「帰依」は「する」ものである。能動態である。能動的に受動的になる態度である。そして彼が「帰依」「する」とき、彼は「救済」「される」。

「権力」と「力」

日本語の「権力」の語は、政治的な支配力というニュアンスを持っており、そして、ことに左翼的な社会思想においては、国家権力の政治的支配に対して個人が自由を勝ち取るために戦わなければならないという含意がある。しかし、フーコーの「権力(pouvoir:プヴォワール)」は、たんに「〜できる」という意味でしかない。

たとえば「Vous ne pouvez pas prendre l'alcool.(あなたは酒を飲むことができない。)」という言明において、飲酒を禁じている主体は誰なのだろうか。かりに酒が違法薬物であり、その法が明文化されているなら、禁止する主体は権力=法律であろう。しかし、勤務時間中に酒を飲むことを禁じている規範は、より不可視な社会的合意である。あるいは医者が患者に対して「あなたの健康のためだ」と説得するための表現でもありうるし、そしてついには飲酒者自身が主語を「私」に置き換え、「私の健康のためだ」と信じるとき、規律権力ー安全装置は、完全に不可視となる。しかし同時に、ニヒリズムを突き抜けた先に、ニーチェがいう「聖なる肯定」が、そして「力への意志(Der Wille zur Macht[*30])」が立ち現れるのである。


追記

正のフィードバックと負のフィードバック

二人でアルコールを飲むとき、自分で自分のグラスには注がない、相手のグラスに注ぐ、というルールがあるとき、そのシステムには負のフィードバックがかかり、飲酒量は抑制される。これが対称性である。

一人でアルコールを飲み続けることは不可能である。酒を飲み続ければ、酒を入手するための収入も得られなくなってしまうからである。

しかし、たとえば、ある男性が一人でアルコールを飲み、飲み尽くしてしまったとき、妻に対して、酒を買ってこいと命令し、妻が酒を買ってくれば、彼はアルコールを飲み続けることができる。このシステムには正のフィードバックがかかる。これが相補性であり、分裂生成である。

正のフィードバックが止まらなくなると、飲酒量が限界を超え、システムは破綻する。(これが「底つき」である。)

静穏の祈り

文中では、米日AA特有の用語と、ベイトソンとその佐藤訳が混在してしまったので、追って整理したい。

静穏の祈り(ニーバーの祈り)については、日本のAA/Al-Anonのミーティングでは、以下のように朗唱される。

神様 私にお与えください
自分に変えられないものを
受け入れる落ち着きを
変えられるものは
変えていく勇気を
そして二つのものを
見わける賢さを

『精神の生態学』の佐藤訳では、より文語調になっている。

神よ
変える術なき物事には黙して従う静穏さを授けたまえ
変える術のある物事には立ち向かう勇気を授けたまえ
そしてふたつの違いを見分ける智慧を授けたまえ

すでにアメリカのAAにおいて、その「神学」では、キリスト教的な、教会的(churchy)、宗教的(religious)なニュアンスを避け、特定の宗教には束縛されない、内的で霊的(spiritual)で、なおかつ口語的な表現が注意深く選択されていることに注意されたい。ミーティングにおいては特定の神への帰依は求められず、匿名の個々人は自らが神であると理解したところの「力」を通じて超越的世界と直接的に交感する。

ベイトソンによれば精神病は「勝て」「負けろ」という矛盾したメッセージの論理階層(ロジカルタイプ)の混同によって引き起こされる。静穏の祈りは、その違いを見分けよ、と説くのである。

アルコール依存症は〈否認〉の病だとされるが、むしろ〈否認〉という防衛に適した向精神薬がアルコールなのだといえる。オピオイドベンゾジアゼピンも同様の作用を持つが、食品として見なされているアルコールよりも味において劣り、入手も困難である。

向精神薬 〈酔い〉 自力 他力
興奮剤 「カテコール酔い」 自信 否認
抑制剤 オピオイド酔い」 無力 否認
幻覚剤(使用中) (底つき→絶対他力 無力 受容
幻覚剤(使用後) インドール酔い」 自信 受容

「カテコール酔い」は、自我と絶対者との距離を縮めようと、自我を絶対者へと高めようと「自力」で努力する。しかし、人間は神ではない(not God)のだから、この努力は最終的には自我肥大に終わる。これに対し「オピオイド酔い」は、自我と絶対者の距離を、あるいは絶対者そのものを、麻痺させ否認する。

オピオイド酔い」における否認が、じっさいには絶対者に対する自我の敗北(submit)であるのに対し、「インドール酔い」は、自我と絶対者の距離を、等身大のものとして受容し、むしろ自我の限界を超えた状況は、絶対者からの救済(他力)にゆだねる(surrender)のである。

〈酔い〉と〈醒め〉

『Steps to an Ecology of Mind(このタイトル自体がAAの「12のステップ」を含意しているのが、佐藤訳では「steps」が略されている)』における「intoxication」と「sobriety」は、佐藤訳では〈酔い〉と〈醒め〉という日本語に置き換えられている。しかし、ベイトソンじしんが指摘しているように「sobriety」は、たんに酔っていない状態のことをいうのではない。日本のAAは「sobriety」を、そのまま「ソブラエティ」と訳しているが、これはたんに「酔っていない状態」のことではなく、〈酔い/醒め〉という対立自体を超えた状態を指す言葉だといえよう。

「静穏の祈り」は「Living one day at a time. Enjoying one moment at a time(今日一日を生き、今この時を喜び…(蛭川試訳))」と続くのだが、これは、昨日酔っていたとしても、今日、醒めている、明日酔うとしても、今日は醒めている、その今日一日を過ごすと、明日が今日になり、その一日を醒めて生きる、という動的な状態として解釈できる。ずっと醒めているという静的な状態なのではなく、とりあえず今この瞬間には醒めている、という状態の持続を意味する。禅仏教の「日日是好日」という〈悟り〉にも通じる。

この議論を強いて「青井教」の教義に当てはめれば、〈オピオイド酔い/カテコール酔い〉の対立を超えるものとして〈インドール酔い〉が位置づけられる[*31]のに対応する。インドールサイケデリックス(インドール酔い)は「底つき」によってアルコール依存(〜オピオイド酔い)もコカイン依存(カテコール酔い)も治癒してしまうのである。

佐藤は「『自己』なるもののサイバネティックス」の訳註で、アルコール依存症を「西洋文明における『自己依存症』」と言い換えているが、これは、松本が「肥大したエゴという『心の酔い』」[*32]と言い換えているものに対応する。ベイトソンが「self」と呼んでいるものは、むしろ「ego」と言い換えたほうが良い。



記述の自己評価 ★★★☆☆
(自分なりの仮説を論じたものなので、あまり学術的な根拠はない。たとえば「力」に対応する語について、原語と日本語のニュアンスの対応関係が難しく、記述が煩瑣になってしまった。とくにAAの用語とその和訳には、独特の歴史的背景があり、説明すると煩瑣になってしまう。加筆していくうちに、AAについての記事や註釈が長くなりすぎたが、これは、切り出して別記事にする予定。)

CE2021/12/04 JST 作成
CE2022/02/15 JST 最終更新
蛭川立

*1:免責事項にかんしては「Wikipedia:医療に関する免責事項」に準じています。

*2:松本俊彦 (2016). 薬物依存患者の行く末 : 足抜け出来る日は来るのか? (特集 出口を見据えた精神医療 : 何処をめざし如何に診るか) 精神保健研究, 29, 47-52.

*3:マルクス, K., エンゲルス, F. 出隆(訳)(1959).「ヘーゲル法哲学批判」『マルクス・エンゲルス全集(1)』大月書店, 415.

*4:より神学的には、神は人間に飲酒という悪を行う自由意志を与えておいて、それでも飲酒という罪を犯した人間を罰し、さらには、飲酒という罪を犯し、それを悔い改めた人間は赦す、と解釈できる。

*5:匿名性には、なにより参加者のプライバシーを守るという意味があるが、また個人から「名前」を取り去ることによって、自我を無力化するという作用がある。これは、精神科病院や留置所では個人名の代わりに数字が使われるのと同じで(ゴッフマン, E. 石黒毅(訳)(1984). 『アサイラムー施設被収容者の日常世界ー(ゴッフマンの社会学3)』誠信書房

規律権力の前に個人を無力化する。しかし、AAの文脈では、自己の無力さは、積極的に自覚されなければならない。それは、絶対者に対する自己帰投である。
カーツ, E. 葛西賢太・岡崎直人・菅仁美(訳)(2020).『アルコホーリクス・アノニマスの歴史―酒を手ばなした人びとをむすぶ―』明石書店.

*6:禁酒はキリスト教原理主義ではない。『聖書』において、むしろワインは聖なる飲料である。

*7:ベイトソン, G. 佐藤 良明(訳)(2000).「『自己』なるもののサイバネティックスアルコール依存症の理論ー」『精神の生態学新思索社, 421-455.

(Bateson, G. (2000). The cybernetics of "self": A theory of alcoholism. In Steps to an Ecology of Mind. The University of Chicago Press, 309-337.)「hitting bottom」は「底つき」と和訳されることも多いが、ここでは『精神の生態学』の佐藤訳にしたがった。

*8: 日本文化にAAの思想は馴染まないが、これは自力の限界への自覚と、絶対他力への帰依を説く浄土真宗の思想と類似性がある。しかし、自力で煩悩から解脱できない凡夫だからこそ、戒律も遵守できないという思想によって、酒色も赦される。 日本の中世における他力の思想は、中世インドにおけるバクティ(bhakti)とも平行性がある。語源のbhaj-tiは、大家族の中で食料が無条件に一般交換(→「交換としての経済」)されることを意味する。バクティは日本語では「信愛」と訳されることが多いが、この「信」は神への自己帰投(self-surrender)であり、しかし「愛」には、人格神への人間的な愛情、ときに恋愛にも似た感情を含んでいる(ヘーダエートゥッラ, M. 宮元 啓一(訳)(1981).『中世インドの神秘思想ーヒンドゥームスリム交流史ー(人間科学叢書〈2〉 )』刀水書房, 82-83.

Hedayetullah, M. (2021). Kabir : The Apostle of Hindu-Muslim Unity. Motilal Banarsidass, 69.) 。13世紀のインドでは、北方のバダガライVaḍagalai派が「信愛」であるbhaktiを強調し、南方のテンガライTeṅgalai派は、むしろひたすら神に身を投げ出すプラパッティ(prapatti)を強調した。 

*9:新宗教の危険性に敏感な現代の日本では、AAの自己帰投による回心の方略は「カルト」による「マインドコントロール」として批判されることもある。 たとえば、[無署名記事](2006).「『無名のアルコール依存症者たち』のカルト的マインドコントロール」『macska dot org』(2021/12/18 JST 最終閲覧)とそのコメントは[少なくとも日本の]AAについての冷静な分析である。この記事においては、AAは一度参加したら抜けられないという種類のカルトではない、と分析されている。 一般に「カルト」は、参加者に無力さを知らしめた上で、そこに集団のイデオロギーを植え付けるとされているが、AAのイデオロギーは抽象的で、絶対的な教祖や教義は示されないし、外部に仮想敵を作らない。無力さを自覚した後は、個々人と、個々人が想定するところの神との関係によって自ずと問題が解決されるというリベラリズムがあり(これは創設者の一人であるビルが宗教嫌いの理系だったこととも関係があるだろう)、統計的なエビデンスには馴染まない。(アラノンには家族をアルコール依存症で失った参加者もあり、これは治療の失敗なのかグリーフ・ケアなのかも区別ができない。) AAは信仰療法であるがゆえに、歴史的に、意図的に、医学や心理学の用語を避けてきたようである。科学の用語を使わないから、科学用語の誤用が少なく、疑似科学になる可能性をうまく回避してきたともいえる。記事の中で指摘されている「共依存」や「イネイブラー」というのは、AAの用語ではない。(この記事自体の中でも混同されているので、整理したい。) また日本語への翻訳も、たとえばspiritualを「スピリチュアル」ではなく「霊的」という古めかしい言葉に置き換えている。カタカナ・ニューエイジと類似している訳語としては「ハイヤーパワー」がある。

*10:ユング『個性化とマンダラ』(p. 12)で述べられている「人格の縮小」(沖縄の民俗宗教でマブイオトシと呼ばれるような、魂が抜けたような無気力な状態)がAAの理論に組み込まれたようである。

*11:たとえば日本のAA ⇄ Al-Anonは、東京におけるイエズス会のミッションの拠点である聖イグナチオ教会でも行われているが、教会・修道会の建物の一室を、適正な使用料金を支払って借りることで、キリスト教への独立性を保っている。

*12: AAにおいては、しばしば「God」は「a Power」つまり「大文字の単数の力」と、あるいは「God as we understood Him(各自がそれぞれに理解する神)」つまり「大文字の単数の男性」と言い換えられる。ベイトソンの「Mind」は「心」であり、とくに禅仏教における、より大きな自己のあり方である。 これはまた、イスラームにおける「Al-lāh」が「アッラー」という名の神なのではなく「定冠詞+偉大な存在」という抽象的な意味であるのと同様である。 「God」をキリスト教の、さらには特定の宗派における「神」の理解のみに限定せずに一般化しようとするAAの思想の背後には、ジェイムズの『宗教的経験の諸相』の影響がある(Alcoholics Anonymous (2013). William James and Alcoholics Anonymous. Markings, 33(2).)が、さらにその背景には、ジェイムズ自身の亜酸化窒素体験がある(→「【資料】ジェイムズ『宗教的経験の諸相』」)。亜酸化窒素もケタミンと同様、治療抵抗性うつ病に著効であるとされる。ビル・ウイルソンは1934年にベラドンナ療法の最中に光と遭遇し回心した(Howard, M. (2009). An Alcoholic's Savior: God, Belladonna or Both? The New York Times.(Mr. Wilson cried out: “I’ll do anything! Anything at all! If there be a God, let him show himself!” He then witnessed a blinding light and felt an ecstatic sense of freedom and peace. ) )が、ベラドンナ療法のことは、AAの基本文献である『Alcoholics Anonymous』( Anonymous (2013). Alcoholics Anonymous. Alcoholics Anonymous World Services, Inc. 390.)

にも明記されている。ビルは1956年にLSDを体験し、その回心を追体験している(Lattin, D. (2020). Bill Wilson, LSD and the Secret Psychedelic History of Alcoholics Anonymous. Lucid News. (2021/12/18 JST 最終閲覧))。

*13:『アラノンで今日一日』(アラノン文書委員会 (1983). 『アラノンで今日一日』アラノンジャパンゼネラルサービスオフィス東京日本, 135.)では、submitを表層的な「服従」、surrenderを全体的な「ゆだねること」と訳し分けている

*14:ベイトソン, G. 佐藤 良明(訳)(2000).「『自己』なるもののサイバネティックスアルコール依存症の理論ー」『精神の生態学新思索社, 421-455.

(Bateson, G. (2000). The cybernetics of "self": A theory of alcoholism. In Steps to an Ecology of Mind. The University of Chicago Press. 309-337.) なお、大文字の「Mind」もまた、禅仏教では、個人の心を超えた、大きな「心」をあらわす言葉としても使われる。ベイトソンの「Mind」もまた、彼のシステム理論によって理解される「God」のことである(佐藤訳, 611-612.)。この場合、英文のタイトルにあって和訳されていない「steps」は、AAにおける12のステップの比喩であろう。

*15:アルコール依存症は男性に多いが、女性のアルコール依存症は、単独ではあらわれにくく、[とくに境界性]パーソナリティ障害、摂食障害と併存(comorbid)することが多い(榎本稔・安田 美弥子(編)『にがい宴ー女性のアルコール依存症』太陽出版, 183.)。日本における飲酒率は、若年層、とくに男性で減少しつつあり、対照的に、フェミニズムの世代である中年女性のコホートの飲酒率が増加している(→「飲酒における年齢とジェンダー」。)

*16:アラノンの「聖書」である[著者・訳者は匿名]『アラノンで今日一日』(Al-Anon Family Groups (2020).One Day at a Time in Al-Anon. )

においては、アルコール依存者の配偶者である自分じしんが、家庭を戦場にしてしまったのだから、自らで武装解除しなければならない、という自省が、繰り返し語られる。しかし、二十世紀のアメリカにおけるキリスト教の近代化において、AA⇄Al-Anonは、フーコーが『性の歴史』(フーコー, M. 渡辺守章(訳)(1986). 『性の歴史 Ⅰ 知への意志』新潮社, 75-84.)で指摘したような、罪(sin)の自覚がカトリック教会という権威に吸収されるメカニズムを、注意深く避けてきたようにみえる。

*17:ここでの「パワー」は信田さよ子によって用いられた日本語である。(信田さよ子 (1999).『アディクションアプローチ』, 医学書院, 113.)

*18:Bateson, G. (1958). Naven: A Survey of the Problems suggested by a Composite Picture of the Culture of a New Guinea Tribe drawn from Three Points of View. Stanford University Press. 175.

*19:通過儀礼は「未開」社会に特有のものではない。近代の日本社会には、大学入試という通過儀礼があり、出身大学という階層化されたクランへの参加を許される。ただし、男は大学に進学し、女は嫁ぐという性役割は失われてきた。

*20:[著者匿名・訳者匿名『アラノンで今日一日』、最終ページ

*21:Marcus W Meinhardt, Simone Pfarr, Grégory Fouquet, Cathrin Rohleder, Manuela L Meinhardt, Janet Barroso-Flores, Rebecca Hoffmann, Jérôme Jeanblanc, Elisabeth Paul, Konstantin Wagner, Anita C Hansson, Georg Köhr, Nils Meier, Oliver von Bohlen Und Halbach, Richard L Bell, Heike Endepols, Bernd Neumaier, Kai Schönig, Dusan Bartsch, Mickaël Naassila, Rainer Spanagel, and Wolfgang H Sommer (2021). Psilocybin targets a common molecular mechanism for cognitive impairment and increased craving in alcoholism. Science Advances, 7(47), eabh2399. doi: 10.1126/sciadv.abh2399.

*22:Gerald Thomas, Philippe Lucas, N Rielle Capler, Kenneth W Tupper, Gina Martin (2013). Ayahuasca-Assisted Therapy for Addiction: Results from a Preliminary Observational Study in Canada. Current Drug Abuse Reviews, 6(1), 30-42. doi: 10.2174/15733998113099990003.

*23:アヤワスカはAAにおいても注目されている(Youngs, T. (2019). Ayahuasca and the Twelve Steps: An Anonymous Friendship. Chacruna.(2021/12/18 JST 最終閲覧))。

*24:脱構築デリダのキーワードだが、ハイデガーの「Destruktion」である。現存在は過去から未来へと続く物理的な絶対時間を破壊してしまう。(ハイデガー存在と時間』(中山元超訳では第一巻の103ページ前後。

)。私の知るかぎり、この「ハーム・デコンストラクション」は、京都相思茶会事件希死念慮を自己治癒した大学生の造語である。

*25:松本卓也(2020)「依存症臨床における垂直方向と水平方向―平準化に抗するために」松本俊彦(編)『アディクションスタディーズ――薬物依存症を捉えなおす13章』日本評論社

*26:

*27:松本俊彦 (2021).『誰がために医師はいる―クスリとヒトの現代論―』みすず書房

ここで「誰か」に依存するということは、単純に依存が肯定されているのではない。裏切られるかもしれない「ヒト」に依存できないので、薬効が安定している「クスリ」に依存してしまう人に対して、「クスリ」に依存しなくても「ヒト」に依存することができるようにする、という、ハーム・リダクションの方法である。

*28:AAと断酒会を、罪の文化と恥の文化に対比させた榎本は、AAにおいては、アルコール依存症者が、アルコホーリクス・アノニマス依存症者へと生まれ変わる、という比喩を使って説明している。(榎本稔「断酒会とAAー比較文化精神医学的考察ー」『榎本稔著作集 Ⅲ アルコール・薬物依存症』日本評論社, 217-231.

*29:カントの三批判の和訳については「【文献】カント『純粋理性批判』と『視霊者の夢』(あるいは文献学一般について)」で論じた。

*30:Machtは「権力」と訳されることもあるが(とくにナチズムにおける)政治権力と混同すべきではない。

*31:蛭川立第二回接見」『京都アヤワスカ茶会裁判』

*32:松本俊彦(2020). カーツ・葛西賢太訳『アルコホーリクス・アノニマスの歴史』に対するオビ推薦文