蛭川研究室

蛭川立の研究と明治大学での講義・ゼミの関連情報

「身体と意識」2021/10/08 講義ノート

小僧(一)「風が吹いているから旗が揺れているのだ」
小僧(二)「風が揺れているから旗が動いているのだ」

老師「揺れているのは君達の心だ」



これは、昔の中国の禅宗の高僧、六祖慧能の言行録である『六祖壇経』という本に書かれている逸話です。まあ、私の、超訳ですが。

この授業では、意識の状態が変わればそれに対応して目の前の現実も変わる、というお話をしてきました。もうすこし平たくいうと、心の持ちようによって外の世界はいかようにでも変えられる、少なくとも、外の世界で起こっていることは、いかようにでも解釈できると、こうした考え方は、西洋哲学、近代思想よりも、東洋思想、とくにインド哲学に顕著なものです。

夢は幻覚ですが、それでは起きているときに目の前に見えている世界も幻覚なのか。これは確かめようがないことですが、それはさておき、目の前に見えているのは幻覚かもしれない、と思いながら生きているほうが、目の前にあるものに執着しないで、自由でいられる、という、インド哲学や、そこから派生して東アジアに伝播して、最近は西洋でも流行している仏教思想では、そう考えます。

寝ているときに悪夢を見たりもしますが、そのときに、これは夢ではないか、と気づくことができれば、すこし楽になれるでしょう。いま目の前で嫌なことがあっても、これも夢かもしれないな、と思うと、気分的には楽になれるでしょう。こういう考えは、仏教などではよく言われることです。ただし、それはニヒリズム、厭世的な世界観でもあります。

人生で嫌なことがあったり、社会で悪いことが起こっていても、まあそれは夢みたいなものだから、気にしない、という発想は、現実の人生や社会を変えていくことから逃げているともいえるので、これが仏教思想がニヒリズムだと批判されるゆえんでもあります。

日本に伝わってきた仏教では、地震のような自然災害も、人間の力ではどうにもならないので、あきらめる、という諦めの思想になっているところもあります。

しかし、嫌なことや怖いことに振り回されて不安になったりしているときに、ちょっと冷静になってみる、これは悪いことではありません。

さて、今週は、授業の予定表に書いたように、睡眠麻痺、俗に金縛りというやつです、明晰夢、といった、ちょっと変わった夢を扱います。(→「入眠時幻覚と睡眠麻痺」「日本人の『金縛り』体験事例」「明晰夢と体外離脱体験」「明晰夢・体外離脱体験時の脳波」)

明晰夢というのは、夢の中で、これは夢だな、と気づきながら見る夢のことです。悪夢にうなされているときでも、これは夢だ、と気づければ楽になれますし、もっと積極的に、自分の意志で夢の内容を変えてしまうこともできます。これも才能と努力だそうで、私もすこしできるようになったときがありましたが、日々の練習を怠ると、すぐにできなくなってしまいます。あまり才能がないのだと思います。

目の前に見えている世界は幻なのだ、というと厭世的になってしまいますが、自分の心が作っている幻なのだからこそ、自分の意志で変えていくことができるのだ、というポジティブ思考だともいえます。

まさか物理的現実を心の力で変えることはできないでしょう。ヒマラヤの聖者で、本当にそれができるという噂を、ネパールで聞いたことがありますが、まさか、不動の心を持てば地震が起きない、などということは、すくなくとも私には信じられません。

しかし人生の三分の一である夢の世界であれば、ちょっとした努力で身の回りの世界をかなり自由に変えられてしまいます。お金もかかりません。これは意外に知られていない、しかし非常に興味深い現象です。

ちなみに金縛りというのは、これは脳が発達していく十代ぐらいに多い現象で、二十代ぐらいから自然に消えていくのですが、これもかなり悪夢になることが多く、半数ぐらいの人が苦しめられています。しかしこの金縛り、睡眠麻痺の時にも、意識はありますので、これは金縛りだ、入眠時幻覚だ、としっかり意識すると、怖くなくなります。それどころか、楽しんだりすることもできます。余談ですが、これは若い人にとっては実際的なことでもあります。

いま深夜にこの文章を書いていますが、寝ている間に余震が来ては困りますから、こちらの現実で意識を保っておこうと思ったのですが、といって寝なければ体に悪いですし、寝床の身辺を整理して、すぐ横にスマホや予備電源や飲料水などをカバンに入れて置いておいて、寝ることにします。



CE2021/10/08 JST 作成
CE2021/10/08 JST 最終更新
蛭川立