茶道は日本の伝統文化の代表のように語られるが、その歴史は意外に浅い。大麻(Cannabis sativa)が縄文土器の縄目模様と同じだけの歴史を持っている可能性に比べると、今でこそ日常「茶飯」事になっている茶や米が日本列島に渡来した歴史は、はるかに新しい。どちらも中国の雲南から華南にかけての照葉樹林帯を起源とする外来種である。
8世紀、遣唐使の時代、チャ(Camellia sinensis)は一種の漢方薬として日本に伝わったとされるが、本格的な普及は、12世紀、栄西が臨済禅とセットで輸入して以降のことである。そして、茶道という形態が整ってきたのは16世紀、室町時代であり、侘び茶というアートを集大成したのが、いうまでもなく千利休である。伝統文化としての茶道は、しばしば京都という古都と結びつけてイメージされるが、それは後の時代に「創られた伝統」である。利休は堺の商家の出身であり、当時の堺は勃興期にあったグローバルな資本主義に向けて開かれた最先端都市であった。
茶道の道具立ての中に「煙草盆」があるが、タバコ(Nicotiana tabacum)に至っては、もともと南米原産の植物であり、そのような植物がポルトガル経由でいちはやく取り入れられたのは、当時の数寄者たちの進取の気性をよくあらわしている。
もともとヨーロッパには興奮剤を使用する伝統はなかった。人類学者の山本誠によれば、カフェインに代表される興奮剤の輸入が、近代の勤勉な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の勃興を準備したという。外来の植物であったチャもコーヒー(Coffea spp.)も、植民地のプランテーションで大量生産され、それが本国に輸入されて大量消費された。紅茶はイギリス人の国民的飲料となったが、貴族の優雅な東洋趣味(オリエンタリズム)として受容されたイメージがあるいっぽうで、酒ばかり飲んでいて働かない労働者階級に、政府が国策として普及させた結果でもある。
アメリカでも、禁酒法の時代、酒に代わる新たな興奮飲料として、アンデスのコカ(Erythroxylum coca)の葉からとれるコカインと、西アフリカのコーラ(cola)の実からとれるカフェインをブレンドした「コカ・コーラ」 が発明され、国民的飲料として急速に普及した(→「興奮するモダン/沈静するポストモダン」)。朝はとりあえず薄めのコーヒーを多目に飲んで目をさまし、市場経済の世界へと飛び出していく、というのも、ステレオタイプ的なアメリカ人の姿である。
日本では明治期に漢方薬であるマオウ(Ephedra spp.)の成分エフェドリンをモデルにして、メタアンフェタミン、つまり覚醒剤が合成され、とりわけ第二次大戦中には特攻隊員から銃後の労働者まで広く使用された。商品名「ヒロポン」はギリシア語のフィロ(愛する)とポノス(労働)に由来する。戦後、余った覚醒剤が大量に流出し、大量の乱用者を生むことになった。
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エフェドリンが単離されアンフェタミン類が合成された過程の解説
話を日本の茶の湯文化に戻そう。禅僧たちによって坐禅中の眠気覚ましに使われていたチャもまた興奮剤としての役割を担っていた。私がまだ日本の茶道というものにまったく不慣れだったころの失敗談だが、差し出されたお濃茶を茶碗一杯ぶん、全部飲んでしまったことがある。しばらくの間、高揚感が続き、最後には気分が悪くなってしまった。幕末の黒船をもじって「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」などとも詠まれたように、現在のように強い感覚的刺激に慣れていない昔の人たちにとっては、濃茶一口、薄茶一杯であってもじゅうぶんに興奮剤的な作用があったことが推測される。
侘び茶の思想が出現する以前は、装飾過剰の茶室で、カフェインによって「ハイ」になりつつ賭け事に興ずるといった成金趣味の享楽であった。そのころ、世界の中心はまだ欧米ではなく中華帝国だったから、数寄者たちにとっては、中国で流行っている唐物(からもの)を集めては自慢するのが格好良かった。さしずめ今でいうなら、パリやニューヨークで流行っているものをいちはやく手に入れて自慢するような感覚だったのだろう。意匠を凝らした道具類を美術として鑑賞することは心を豊かにしてくれる。しかしそれは、たんに珍しい蒐集品を自慢し合うことではないはずだ。侘び茶はそのようなバブリーな指向性に対する一種の「カウンターカルチャー」であった。それは、ポストモダンの先取りであったともいえる。
茶道文化は茶碗として使用される土器=陶器とつねに密接な関係にありつづけてきた。土器はおそらく紀元前一万年、縄文時代草創期にあった日本列島で世界に先駆けて発明された。初期の縄文土器はシンプルな模様しか持っていなかったが、縄文中期の馬高式土器(火炎土器)、勝坂式土器の時代にその装飾美のピークを迎える。その躍動性は日本の陶芸史一万二千年の最高峰であって、未だにそれは超えられていないといっても過言ではない。その後縄文時代の晩期へ、さらに弥生土器、須恵器へと、土器=陶器は薄く、丈夫な方向に向かって一直線に進化を遂げていく。そして、十六世紀には日本でも磁器が生産されるようになる。機能性を追求してきた土器のモダニズムの完成といっていい。にもかかわらずほぼ同時期に、侘び茶の出現と並行して、一見不格好な茶陶の世界が展開しはじめる。「ヘウケモノ」と称された美濃の織部焼のように、新しい時代の数寄者たちは、まるで縄文土器に先祖返りしたような、あるいはそれ以上に、わざと分厚くて非対称に歪んだ茶器を好んだ。これは、商業都市という最先端の場所の真ん中で、それとはまったく対極にある野生の自然を志向する「市中の山居」という思想と軌を一にしている。
しかし、侘び茶によって見事に昇華させられたとはいえ、やはりカフェインは興奮剤である。興奮剤の代表として悪名高いメタアンフェタミンの俗称が「スピード」であることが示すように、興奮剤は加速しながら前進し続ける資本主義の時間と相性がよい。しかし消費への欲望が実体をはるかに離れて加速していくことが、果てしのない競争を呼び起こし、環境破壊や石油資源をめぐる戦争といった矛盾が露呈しているのが現代である。そこで求められているのは、いわば「スローライフ」であり、茶室でほっと一服くつろげるような、スピードダウンの思想である。
純粋な日本の伝統と思われがちな侘び茶でさえ、その成立当初からグローバルな国際性を内包していたことは、すでにみたとおりである。そして現在のポストモダン、ポストコロニアル、多文化共生的な状況では、もっと多様なお茶が、四季折々の時候におうじて嗜まれてもよいはずである。チャにしても、もともとは外来の「薬物」だったのだから。
「スローライフ」を提唱する先駆的な役割を果たしたのが、人類学者の辻信一らによってつくられたNPO法人「ナマケモノ倶楽部」である。始まりは、エクアドルとの、コーヒーなどのフェアトレード活動だった。しかし、このようなフェアトレードには「先進国」の貨幣によって、「途上国」の物産を、ある種の憐れみによって買い取ってあげようという、どこかアンフェアな非対称性の雰囲気が、なお存在する。コーヒーは北東アフリカ原産で、南米の植物ではない。「大航海時代」以降、植民地化される中で、いわば強制された植物である。そしてその有効成分は、やはり興奮剤、カフェインであり、スローな物質ではない。エクアドルはエクアドルの土地が育んだ特産品を誇らなければならない。エクアドルの風土が誇りうるお茶とは、たとえば東部の密林(セルバ)で産出されるアヤワスカ茶である。
エクアドルがアヤワスカを輸出し、日本が大麻を輸出し、あるいはハワイがカヴァ(Piper methysticum )(→カヴァの伝統と現在)を輸出する。それらが対等の価値を認め合いながら交換されるようになったとき、真のフェアトレードが実現するだろう(もちろん、法的な問題は議論される必要があるが)。そして、輸入されたものはその土地の風土に合わせ、独自の生活様式と美意識によって受容されていけばいい。
立礼で華和茶(カヴァ茶)を点てる著者(2005年11月)[*1]
それが日本であれば、やがて第二、第三の利休が出現し「侘びカヴァ茶」や「侘びアヤワスカ茶」という「道」を集大成していくことになるだろう。
あくせくと動き回る小さな自我へのこだわりを捨てて、大きな道(タオ)に身をゆだねてしまうこと。その、泰然としたスローな美学と、カフェインのような興奮剤はあまり相性がよくないことを考えれば、真の意味でのポストモダン、「茶禅一味」の侘び茶の文化は、たんに守り伝えていくべき過去の伝統ではなく、むしろようやくこれからの時代に本格的に発展していくことになるだろう。そして、その萌芽が四百年前にすでに準備されていたことは、驚くべきことだというほかない。
蛭川立 (2009). 「密林の茶道―茶の湯の人類学―」黒川五郎編『新しい茶道のすすめ』現代書林, 233-257. をもとに加筆修正。
記述の自己評価 ★★★★☆
CE2009/10/27 JST 公刊
CE2019/11/01 JST 電子版作成
CE2022/03/12 JST 最終更新
蛭川立