蛭川研究室

蛭川立の研究と明治大学での講義・ゼミの関連情報

「人類学A」講義ノート 2021/06/15

さて今週は、人類の起源と進化、そして芸術や宗教など、精神文化の起源と進化、という、人類学らしい話に戻ります。

哺乳類から霊長類(サル目)へ、そして現生人類へと、どのように進化してきたかと、そういう話はどちらかといえば人類学Bで扱うのですが、「人類の進化と大脳化」という記事に、どのようにして人類が進化してきたのか、そして、人間の最も大きな特徴、なぜこんなに脳が大きくなってきたのかと、そういうことを書きました。細かいこと、たとえばアウストラロピテクス属の系統関係とか、そういう専門的なことはさておいて、大筋はざっと知っておいてください。

そして人類学Aのほうで勉強してもらえればと、同じような内容を「化石人類の物質文化と精神文化」に書きました。脳の進化については上の記事とだぶるところもあるのですが、ヒトの脳は、どうも部分的に大きすぎたり小さすぎたり、他の動物とは違うのですが、それと精神文化をもつということ、たとえば絵を描いたり、アクセサリーを身につけたり、死後の世界について考えたり、それから音楽については、なかなか遺跡としては残らないのですけど、そういう、生物学的な生存とか、子孫繁栄とかとは直接関係がないことをする、そういう文化をもつ、そのことをこの授業では議論していきたいわけです。

人間は他の動物と違う、理性を持つ存在である、これはよく言われることです。しかし、人間は理性と感性と霊性を持つ動物です。霊というと、なにか幽霊のようですが、別の言葉では、宗教性とでもいえばいいのでしょうかね、理性は科学を生み、感性は芸術を生み、霊性は宗教を生むと、そう対応づけられます。科学は大いに発展しました、技術も多いに発展しました。これは人類の理性が花開いた結果です。では芸術や宗教は科学の時代には必要なくなったのかというと、そうではありません。真善美などとも言いますが、芸術は人生を美しくするものですし、宗教は人生に意味を与えてくれるものです。

科学は客観的事実を教えてくれますが、生きる意味、死ぬ意味は科学で解明できるものではありません。ここで宗教というのは、仏教とかキリスト教とかいう特定の宗教のことではなくて、広い意味で、人間がただ動物として生まれ、動物として子孫を残し、動物として死ぬと、それ以上の、なぜ生きているのか、なぜ死ぬとかという意味を与える体系のことですね。宗教なんかなくても動物として生きるのには必要ないのですが、人間はどうしても意味を求めてしまう、これがヒトという動物の本性だともいえます。宗教的理由で出家したり、それで子孫を残さずに死んでいく人もいるのですが、それはむしろ生物としての繁殖には反することです。ときに精神文化は生物学的な生存に反する側面さえあります。

宗教というのも思想、観念ですから、それ自体は遺跡などには残らないのですが、ひとつ興味深いのは、人類の進化のある時点から、死者を埋葬したような遺跡が出てくるのですね。お葬式なども、必要がないといえば必要はないのです。たしかに近しい人が亡くなれば悲しいことですし、その悲しみをなんとかするために人が集まって慰め合ったり、それは合理的なことですが、遺体を焼いたり埋葬したり、お坊さんがお経を詠んだり、そういうことに手間暇をかける必要はない、でもそういう儀礼的な行為をしないと精神的に納得がいかないと、それが宗教行為というものであり、人間に特有なことだと、この授業ではとくに強調しているわけです。

そして、これは少し空想ですが、どうも向精神作用を持つ薬草を使うことと、死後の世界などについて考えることとが関係があるのではないかと、そういう仮説もあります。

前回までの授業では、精神作用のある薬物の話でずいぶんと時間を費やしてしまいました。これはいつも冗長になって困ってしまうことなのですが、私としてはある種の薬草が芸術的、宗教的体験を引き起こす、それが人間の脳の巨大化、精神文化の発達と関係があるのではないかと、そういう話がしたいのですが、ドラッグとか麻薬とかいう話になってしまうと、まずそちらの説明をして誤解を解かなければならないので、どうにも時間がかかってしまいます。

薬物が精神作用を持つこと自体が不思議なことですが、しかし、麻薬とかドラッグとかいうイメージですと、覚醒剤とかアヘンとか、あるいはお酒もそうでしょうけど、気持ちよくなる、楽しくなる、そういう薬物というイメージがまずあります。そして、気持ちいいとか楽しいとか、そういう感情は他の動物にもあると思います。

しかし、服用すると複雑な図形が見えてきたり、目の前の風景が神聖に見えてきたり、あるいは祖先の霊や神様が見えてきたり、そういう薬物は、ただ気持ちいいということとは次元が違います。精神展開薬、サイケデリックス、大麻といったものが、そういう薬草、薬物に対応します。大麻なども、ただ快楽を感じてやめられなくなる悪いドラッグだというイメージがあり、また医療用として使えるという意見も広がってきましたが、それがインドで宗教文化と結びついてきた薬草なのだと、これはあまり知られていないことですし、そこまで説明するのにえらく話が長くなってしまったというわけです。

さて話を戻しますと、「化石人類の物質文化と精神文化」には、洞窟壁画の話を書きました。何万年も前から描きつづけられてきた岩壁画ですが、この伝統は、オーストラリアの先住民族の文化の中では、ずっと受け継がれてきて、いまは現代美術としてリバイバルをとげています。このことは「オーストラリア先住民美術」に書きました。

いきなりオーストラリアの先住民といってもイメージが涌きにくいと思いますが、これには私の個人的な体験があって、ひとつは六年ほど前にオーストラリアの大学で科学哲学を学んでいたことがありまして、そのときに先住民の美術、これが遺跡として残っていると同時に現代美術として洒落たデザインとして発達しているということに興味を持ちました。

それからもっと個人的なことなのですが、個人的に、ちょっと睡眠障害といいますか、不眠症とか過眠症とか、そういう持病がありまして、それで夜型になりがちな生活リズムを治すとか、治療でお世話になった病院で、たまたま現代美術作家の草間彌生さんと遭遇し、この草間さんの生きざまに感銘を受けたのと同時に、彼女の作品がオーストラリアの先住民美術によく似ていることにも気づいたという経緯があります。

そして「精神疾患と創造性」というテーマにも興味を持つようになりました。これはまた長い話になりますし、精神医学の基礎知識がないとわからないので、また来週扱うことにします。

来週の予告編ですが、俗に狂気と天才は紙一重、などと言います。狂気とか精神病とかいう概念自体、気をつけなければならないのですが、本当に脳の病気で困っている人もいますし、いちがいには言えないのですが、現代文明社会では精神的な病気だと診断されてしまう人たちの中には、原始時代から続く芸術的創造性や宗教的能力を持った人がいるのではないかと、それが、たまたま西洋文明社会の基準からすると、社会的な不適応を起こしていると、そういうこともあるのではないかということですね。あるいは、サイケデリックスや大麻を服用すると幻覚が見えるとか、だから法律で禁止しようとか、そういう議論もあるわけですが、その幻覚が見えるということは、今の文明社会では病的なことではあっても、ひょっとすると大昔の人間社会では意味を持っていたことで、いちがいに病的なこと、反社会的なことだとは言えないのではないか、むしろ豊かな幻覚を見る能力こそ、人間の人間らしさなのではないかと、そういう人類学的な視点からの考察を、議論を続けていければと思います。