歴史が提供するゆたかな素材を見つめる人々、より低級な本能を喜ばせるために、すなわち明晰性、精確さ、「客観性」、「真理」という形式の中で知的な事柄における安全性を切望する気持を満たさんがために、その素材を貧しいものにするつもりのない人々にとっては、次のことが明らかになるだろう。あらゆる状況において、また人類の発展のあらゆる段階において、擁護することができる原理といえば、そのようなものはたった一つしかないということが。すなわちこの原理である。 anything goes(なんでもかまわない)。
ファイヤアーベント『方法への挑戦』[*1]
科学哲学の観点からすれば、正しい科学の理念型を示すことが可能であっても、科学史の観点からすれば、科学は、気まぐれな過ちを繰り返しながら、結果的に進歩してきたようにみえる。だから、気まぐれな過ちを事前に否定してしまうと、その後に起こるであろう進歩をも阻害してしまうことになりかねない。
科学哲学の理論が保守的になりがちであり、科学史の理論が許容的になりがちであるのは、こうした歴史的経緯を織り込むかどうかという視点の違いから来るものでもある。
相対主義の極左的言明として知られる一節ではあるが、病跡学的な、余計なお世話を追記しておけば、このとき、ファイヤアーベントは軽躁状態にあったとみることもできる。だから『方法への挑戦』は、そこは差し引いて読む必要があるだろう。
というのも、彼はこの『方法への挑戦』の執筆直後に病的な抑うつ状態に陥ったことを自伝に書き記しているからである。
「知識人」がどういう連中か、私には段々判ってきた。彼らは非常に特殊な共同体を造り上げている。彼らは特別なやり方で書き、特別な感情を持ち、人間の正当な代表は自分たちだけだと自分のことを考える。知識人は科学者ではないが、科学の成果を夢想的に信じられる人々である。彼らは哲学者でもないが、哲学というビジネスのなかに秘密のエージェントを抱えている。トーマス・ネーゲルはその秘密エージェントであり、ローティもそうだ。サールさえ時にそうだ。ただ彼は真に知識人にさっさとなり切れないようだ。そして、この知識人という共同体が、私めに、いささかの関心をお持ち下さった。で、私めを彼らの目の高さまで引っ張りあげて下さり、どんな奴か見てやろうと一瞥し、それからまた下におっことして下さった。自分が思いもしなかったほどに、私が重要人物であるかのように見せておいて、彼らは私の欠陥を数え立て、それから、私を元の場所に差し戻したのである。本当に私は困惑した。
この騒ぎのただ中のある時期、私はかなり抑鬱症的になった。その「鬱」は一年以上続いた。それはまるで1匹の動物のようで、非常にはっきりし、どこにいるかも判るようなものだった。眼が覚める、目を開く、さあ、どうかな、いるかな、いないかな。気配がない。眠っているのかもしれない。今日は私を悩ませないでいてくれるかもしれない。そっと、そおっと、私はベッドから起きる。静かだ。台所へ行く。朝食を始める。音はしない。テレヴィジョン?そう「おはよう、アメリカ」。あのデイヴィッド・某なる人物、私には我慢できない男だ。食べる、番組のゲストを見る。次第に食物が胃に満ちてくる、力が湧いてくる。さあ手洗いに急いで直行する。朝の散歩に出る。ああ、やっぱりいる。我が忠実なる「鬱」よ。「私抜きで出掛けられると思ったの」。
私はよく、自分を自分の仕事に同化させないようにせよと、学生たちに忠告してきた。私は彼らに言った。「何かをし遂げようと思ったら、本を書く、絵を描く、何でもよい、何かしたいと思ったら、そこから外れたところに自分の存在の中心を置いて、そこにしっかり自分を固着させることだ、そうしておいて初めて、かならずやってくる攻撃に対して冷静でいられ、また笑い飛ばせるようになるんだから」。過去には私自身この忠告に従ってきた。しかし今度の私は孤独だった。わけの判らない苦悩にさいなまれて病気となった。私の私生活は混乱の一語に尽きた。我が身を守ることもできなかった。何であんな糞ったれ本を書いちゃったんだろうと、何度も思った。
ファイヤアーベント『哲学、女、唄、そして…ーファイヤアーベント自伝ー』[*2]
勢いで威勢の良いことを書いてしまい、後で「何であんな糞ったれ本を書いちゃったんだろう」と後悔する。気の毒なことではあるが、木村敏のいう、うつ病的な認知「post festum」つまり「後の祭り」の好例であろう。
ファイヤアーベントの著作で、このほかに、日本語に訳されているものとしては、『理性よ、さらば』、『自由人のための知』、『知についての三つの対話』がある。
CE2019/06/20 JST 作成
CE2022/11/16 JST 最終更新
蛭川立
*1:ファイヤアーベント, P. K. 村上陽一郎・渡辺 博(訳)(1981).『方法への挑戦―科学的創造と知のアナーキズム―』新曜社, 17-18. (Feyerabend, P. K. (1975). Against Method: Outline of an Anarchistic Theory of Knowledge. New Left Books.(以下に引用する『自伝』の中で「AM」と略されているのは、この本のことである。))
*2:ファイヤアーベント, P. K. 村上陽一郎(訳)(1997).『哲学、女、唄、そして…ーファイヤアーベント自伝ー』産業図書, 210-211. (Feyerabend, P. K. (1995). Killing Time: The Autobiography of Paul Feyerabend. University of Chicago Press.)