蛭川研究室

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日記の試み(6日目) ーまたは「無為自然 ー 赤レンガ通院記(六)」ー

7時に自然に目覚める。しかしまた眠り、8時すぎに起き出し、気分が悪くて絶望的になり、それからカフェインではなくメチルフェニデートを一服し、目を覚まし、部屋中に転がっていた、可燃ゴミの袋を集めて、これが五袋も溜まっていたが、まとめてゴミ置き場に出した。おそらく二カ月ぐらいかけて蓄積した、紙屑や包装紙である。

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外はまたすばらしい晴天。

可燃ゴミという分類で出されたゴミは、いずれまとめて焼却されることになる。

散らかり放題だった部屋が、すこし清潔になった。

朝九時までにゴミを出すという小さな生活改善。

無為自然

今日は三週間ぶりの通院日で、主治医と話をした。

hirukawa-notes.hatenablog.jp
主治医との問答は「赤レンガ通院記」(一〜五)というタイトルで、今までにも書いた

前回の診察は四月一日だった。そのときは、これから新年度、大学も再開されて、元気に働けそうだ、と話した。

その後、大学は、大部分、オンライン化を継続することになり、昨年度とあまり変わらない、ほぼ在宅勤務が続くことになった。オンライン化は面白い。しかし、そうすると、また生活にメリハリがなくなってしまう。どうしたらいいのだろう。

主治医に、昨夜の思考実験の話をした。

もし、毎日、ずっと同じ部屋で、一人で暮らし、寝るときは布団で寝て、起きているときは椅子に座り、冷蔵庫か何かに、食べるものがあるという状況で、誰とも会わず、誰とも会話しない、という生活が続いたら、どうなるだろうか。

私だけが特別にリズム障害だというわけではなく、誰でも、身心のバランスが狂うだろう。人によっては、孤独に耐えられなくなってしまうかもしれないし、うまく持って行けば、深い瞑想状態に入れるかもしれない。じっさい、もし私がそうなれば、ずっと眠り続けてしまうような気はする。

本当に、そんな暮らしをしてみたら、どうなるだろうか。

むしろ主治医は、それをやってみるべきだと言った。また緊急事態宣言も出るし、連休だし、いいチャンスではないかと。

たしかに、洞窟の中で瞑想するヨーギーではないが、むしろ、そんな暮らしができるのは、滅多にないチャンスかもしれない。ヨーギーが瞑想に集中できるのは、生活に必要な食料などがお布施で賄われているからだ。そういう恵まれた条件があってのことである。説教と布施の交換で成り立っているという点では、大学教授も僧侶と同じバラモンカーストに属する。

そして、睡眠薬や刺激薬を止める。眠くなったら寝て、目覚めたら活動する。食べたいときに食べる。三年前に入院したときには、まずこの「フリーラン」という生活実験をしたのだが、じつは、すぐに早寝早起き生活に順応してしまった。集団生活という順応因子があったからだ。では、順応因子がまったくなければ、どうなるだろうか。

オーストラリア滞在中、夏休みで大学に行く必要がなくなったときには、それに近い状態だった。食事と排泄の時以外は、ずっと眠り続けていたことがあった(→「積極的な「沈黙」としての実証主義」)。

しかし、また同じことをしてみたら、どうなるだろうか。最低限、仕事上のメールのやり取りは続けなければならないし、時間的な制約はないが、仕事をしなくてもいいわけではない。

ピンチをチャンスに。むしろ、積極的に引きこもり、積極的に人を避け、オンラインでさえ会話をするのを避けてみたらどうか。そうしたときに、逆に、自分の内部にある、内発的なリズムが動き出す。薬は、社会生活に適応するための方便だが、常用してしまうと、むしろ内発的なリズムのはたらきを妨害してしまう。主治医は、そう言った。なるほど。

入院したとき、病院では、睡眠リズムの調整について、以下のようなステップがあると教わった。

  1. 薬なしで、ただ眠くなったら寝る。目が覚めたら活動する。
  2. 朝、決まった時間に起きる。昼寝は禁止。夜は、眠くなったら寝る。
  3. 朝、決まった時間に起きる。昼寝は禁止。夜、決まった時間に寝る。

1が、フリーランである。薬は飲まない。これでうまく行けば、それでいい。

朝、頑張って起きるのは、努力してできることだし、誰かに起こしてもらうこともできるが、夜、眠れないのを、頑張って努力して寝るというのは、むしろ逆効果になってしまう。このときには、睡眠薬が役立つ。寝付きが悪い人は、短時間型、中途覚醒してしまう場合は、中時間型、早朝覚醒してしまう場合には、長時間型、と、使い分けることもできる。

それから、朝、どうしても起きられないとか、起こしてもらえないとか、あるいは、昼間の眠気にどうしても耐えられない場合には、刺激薬が役に立つ。

こうして得られた知識は、自分の生活を整えるのにも役に立っているし、生活リズムが狂ってしまって、大学に来られない学生の指導にも役に立つようになった。

ちょうど生活日誌をつけはじめたところでもあるし、緊急事態を良いチャンスとして利用してみたらどうなるか。言われてみれば、なるほど、やってみようと思う。そういう、自分でも考えつきそうなことに、あらためて気づかせてくれるのは、良い医者である。

今後のスケジュールを考える。今日は通院とゼミのために外出した。

明日、23日、金曜日は、午前中はオンライン授業で、これは文字だけの掲示板。午後はオンライン会議である。会議は、とくに議論がなければ、自分から発話することは、あまりない。土日をこえて、月曜日はオンライン授業。これも文字だけの掲示板。

その後は、火曜と水曜は、リアルタイムの仕事はなく、29日、木曜からは、連休に入ると同時に、緊急事態宣言下になる。

連休が終わって、翌日、5月6日の木曜には、三年生のゼミがある。しかし、緊急事態は、9日の日曜まで続くらしい。

以上、リアルで人に会わない、アイソレーション実験は、22日の金曜日から、短くても、5月5日の水曜日まで、13日間も続けることができる。ひょっとしたら、5月9日の日曜日まで、17日間、さらに長く。これだけの余裕は、なかなか得られないことだ。しかし、文字を書く仕事は続けるから、仕事には支障をきたさない。しかも、遊びのために外出するのを避けようという、緊急事態宣言の趣旨とも整合的だ。

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「精神神経科」という冗長な日本語。モノとココロの交わるところに、なぜか「神」という漢字が二回重複している。

次回の診察の予約は、薬が処方できる最長限度の、四週間後に決めた。先生と精神と身体と医学の話をするのはとても面白いのだが、医者に来るのを楽しみにしてはいけない、と言われた。医者に通っているヒマがあったら、その時間に、もっとやるべきことがあるだろう、それだけの能力があって、学んできたことを活かせる場も与えられているのに、もったいないぞ、と言われる。

私が、病気や、病気の治療のために時間と労力と保険による負担金を費やすのは、ひとり私じしんのためではなく、社会的な損失でもある。医学の勉強をするのは面白いし、それがまた自分の仕事にもフードバックされ、研究も、より深まった。とはいえ医者に通うのが楽しみだというのは、たしかに倒錯している。本末転倒である。

医者に来るなと言ってくれる医者も、良い医者である。

本郷から駿河台に移動して、三年生のゼミ。これだけは、大学内での対面授業である。VRについて。

ゼミ生たちとの議論は楽しい。同じ空間で音声言語で話をすると、ふつうに脳が作動する。

社会的な隔離生活の中で、コミュニケーションの様態が試されてきたが、私じしんにとっては、同じ言語的コミュニケーションでも、「音声」はリアルであり「文字」はリアルではないのだと気づいた。ヒトをヒトたらしめているのは言語だというが、その基本は音声言語である。文字は、非常に新しい時代の人工的な発明であり、地球上では、まだ多くの人たちが、ほとんど文字を使わない生活をしている。

「音声」を使わない、「薬物」を使わない、実験を始めてみる。



記述の自己評価 ★☆☆☆☆
(思いつきを書きとめたものなので、文章が不完全であり、内容の信頼性も低い。)
CE2021/04/22 JST 作成
CE2021/04/22 JST 最終更新
蛭川立