この記事は書きかけです。
講義計画思案中
今年度は諸事情あって大学での講義はいったんお休みにさせてもらっている。去年と一昨年は授業はすべてオンラインだったから、来年度、2023年度からは、ひさしぶりに教室での授業が再開となる予定。今年度はすこし余裕があることもあり、毎年同じ内容で続けてきた学部生向けの講義も、大幅にバージョンアップしたい。
以下に思いついたことを書き綴りながら、随所に「書き散らかし」た資料にリンクを張って整理し、資料の整理を続けているところである。この記事自体が「書き散らかし」だが、2022年の冬頃までには、徐々にまとめなおして2023年4月からの講義計画として整備したい。
研究と教育は相互的なもので、授業を行うことはまた研究を進めていくことでもある。
授業計画を作るということは、自分の知っていることを他の人たちに教えることでもあるのだが、自分自身の勉強でもあり、講義ノートは自分のための勉強メモである。同じ内容ならもっと優れた教科書はあるのだが、それでも自分で書いてみるほうが、自分じしんの研究の整理にもなるし、その研究をまた教育活動へフィードバックしていくことでもある。ネット上にアップされている画像や動画へのリンクを集めてリンク集にする方法もあるし、それとは別に、自分が調査旅行をする中で集めた資料を旅行記のように思い出しながらまとめることにも意義がある。
この作業は、もう二十年も続けてきたが、自分が勉強することと、他人に勉強を教えることはフィードバックであるし、その中で、他人から教わることも多い。
ブログ上に資料をアップし、随時書き直していくという方法は、WEB2.0の動きとも親和性があり、インターネット時代の情報発信のあり方としても実験的な意義があると考えている。WWW上に情報を公開するということについては、著作権などの問題もあるが、そのことは「リンクと引用の指針」にまとめている。特定の大学での特定の授業であるということを超えて、良い意味で不特定多数に情報が共有されるように情報をアップしていくのはより普遍的な研究活動になるだろうと考えている。
たとえば精神医学の歴史の中では、フロイトは論考を書きながら思想を発展させたが、クレペリンはひとつの教科書を何度も改定しつづけた。いまから振り返って読むと、クレペリンの教科書の記述はよく整理されていて、時間を超えた一般性を持っている。
学部の講義
人類学
学部の1・2年生向けの講義は「人類学A」と「人類学B」である。春学期の「人類学A」と秋学期の「人類学B」は独立の科目だが、人類学は文理融合の総合科学であるという主張は「人類学の科学史的位置づけ」に書いたとおりだが、二つの授業は、いずれも自然人類学の話から始めて、社会人類学・文化人類学へと発展させていくという構造は続けたい。
「人類学A」は自然科学的な基礎知識として、脳神経科学を概観し、神経伝達物質、精神活性物質、そして芸術や宗教などの精神文化を論じたい。
「人類学B」は自然科学的な基礎知識として、遺伝学・進化論を概観し、配偶システム、親族と婚姻、社会人類学、経済人類学等々を論じたい。自然科学から人文・社会科学への境界領域としては、個人遺伝子解析や生殖技術、優生学論争、社会生物学論争などを中心に取りあげたい。
人類学A
→「人類学A 講義計画」(ブログ内サイト)を参照のこと。
人類学B
→「人類学A 講義計画」(ブログ内サイト)を参照のこと。
自然人類学的な背景として、まず生命の起源と進化、人類の起源と進化、現生人類の拡散、日本人の起源論を順に追っていく。これで講義3回ぶんぐらいになる。
また、現代的な問題として、個人向け遺伝子解析や認知機能とパーソナリティの小進化(と、それをめぐる生命倫理)も論じたい。これで講義2回ぶんぐらいになる。
人類遺伝学を論じるにあたっては、DNAからタンパク質へという遺伝学の基礎知識が必要だが、これはRNAウイルスやウイルスと宿主の共進化という現在進行形のトピックとも関係する。これで講義1回ぶん、追加である。
新型コロナウイルス、COVID-19の世界的流行は、特定のウイルスが変異しながら「進化」していくプロセスを人類的規模で精密に追跡した、人類初の小進化の研究でもあった。新型コロナウイルスの世界的流行自体が史上初なのではなく、それを細かく追ったのが史上初だったといえる。その背景には、PCR法やmRNAワクチンのような新技術の発展があり、また少数の人命を守るためには社会全体が活動を制限するという社会のあり方の変化でもあった。これはまた、性権力の社会学のテーマでもある。
有性生殖や配偶行動の進化生態学については『性・死・快楽の起源』に書かれたものを書き直したものをブログ教材として使用する。類人猿と化石人類の配偶システムの進化についても論じたい。ここにもまたセクシュアリティをめぐる倫理的な議論が必要になる。これで講義2回ぶんぐらいになるだろうか。
2003年に中国の雲南省のモソ人の婚姻制度と社会構造について調査している最中に旧型コロナウイルス、SARSの流行に巻き込まれたのは貴重な経験だったが、かんじんの婚姻体系の議論が途中で止まってしまっていた。雲南の少数民族の社会は古代の日本社会と共通のルーツを持っており、歌を読み交わして妻問い婚を行う文化が日本の奈良時代や平安時代の文化とよく似ていること、また中国のマルクス主義とフーリエの社会思想の関係など、研究が途中で止まったままだった。
講義で扱う地域については、以下に列挙するとおり。
不思議現象の心理学
→「人類学A 講義計画」(ブログ内サイト)を参照のこと。
「不思議現象の心理学」は、心霊研究から超心理学への歴史、懐疑論からの反論、そして科学と疑似科学の境界設定問題へと話をすすめる。
心霊現象・超常現象を扱うにあたっては、錯覚や認知バイアス、さらには陰謀論や終末論、精神疾患と関係する幻覚や妄想との比較も行う。
いわゆる超心理学・パラサイコロジーの扱う領域だが、これは心霊現象や超常現象を裏づけるための研究ではない。といって不思議な現象を既存の科学で説明し尽くしてしまおうという研究でもないし、根拠のないことを信じる人たちをすべて精神病とする研究でもない。
超常現象の研究は、物質と観測者の関係、物質と精神の関係を再考してきた現代物理学の領域につながっている。心物問題は心身問題ともつながっていく。量子力学の不思議なイメージを雰囲気的に取り入れた疑似科学も多い一方で、同じ超常現象でも予知とPKは相反する概念であって、つまりは自由意志(があるかのように「錯覚」することが本当の超常現象だという、これは映画『マトリックス』の第二話のテーマでもあり『ユリイカ』に論文を書いたのが2003年だった。
講義は心理学の歴史を辿るところから始めたい。肉体の死後も霊魂は残るのか?という素朴な問いかけを発端にして、心霊研究から心理学という科学が分化してきた過程でもある。これで講義2回ぶんである。
現代の心理学の基本的な方法論は統計学である。超常現象を扱う超心理学の基本も統計学である。超心理学は超心理現象を、ESP(テレパシーなど)とPK(念力)に分類し、統計的な実験を進めてきた。これで講義3回ぶんぐらいになる。
超心理現象を扱うにあたっては、精神疾患や疑似科学との見きわめも必要になる。錯覚、認知バイアス、陰謀論と終末論、精神病と神経症、因果性と共時性といったテーマにも触れる。そもそも、科学と疑似科学の間には線引きができるのだろうか。これで講義4回ぶんぐらいに相当する。
とくに、「予知」と「念力」は物理学の基本法則に反するような現象だが、これは量子力学のような現代物理学によって説明できるとか、それもまた疑似科学だという論争がある。これで講義2回ぶんぐらいである。
さらに、精神と物質の問題を整理するためには、インドやヨーロッパの哲学が心身問題や心物問題と呼んできた普遍的な問題に行き当たる。これを議論するのには講義2回ぐらいは必要だろう。
身体と意識
→「身体と意識 講義計画」(ブログ内記事)を参照のこと。
「身体と意識」は、意識の諸状態というテーマで議論を進める。変性意識状態のうちで、もっとも身近にあるのが睡眠と夢であり、それを導入とする。睡眠と覚醒のリズムは生活の基本であるが、同時に、個人的にはこの概日リズムが不安定だという体質もあって、当事者的に研究を進めてきた分野でもある。
その後、臨死体験や瞑想体験などの特殊な(じつは普遍的な)意識体験を概観し、同時に西洋と東洋における心身問題の哲学史を概観する。最後は、現代的、近未来的なテーマとして、AI、VRへと論を進めたい。
意識の諸状態としては、以下のようなものが列挙できる。
睡眠と覚醒を繰り返しているだけの生活であれば、薬物体験や瞑想体験などする必要はないのかもしれない。しかし、多様な意識状態を体験することは、意識の視野の拡大である。もしすべての人が死の間際に臨死体験のような体験をするのであれば、多様な意識状態は「死の予行演習」だといえるのかもしれない。
遺伝と文化
大学で最初に学んだのが行動遺伝学だったので、これは今でも研究の基礎になっている。分子遺伝学の進歩とともに、20世紀後半のパラダイムは、文化から遺伝へと動いた。このことは、個人の平等や文化の相対性という理念からの逆行のようでもあるが、事実と価値は分けて考えられなければならない。
大学院を出たあたりから精神活性物質に関心を持つようになった。これは睡眠と覚醒のリズムを整えるために睡眠薬や刺激薬を試行錯誤で使ってきたという個人的な事情もあるが、向精神薬が遺伝決定論と自由意志という矛盾を解決しうるテクノロジーではないかと考えるようになったからでもある。
たとえば精神病の代表的なものである統合失調症の遺伝率は高く、かなりの部分、遺伝病だといえる。環境や教育では治せないと考えると悲観論になるが、生物学的なメカニズムが解明されるほどに、薬物療法が奏効するようになってきた。これは技術の進歩による生活の改善である。
能力には個人差があって遺伝的に決まっていると考えることが、教育の無力や差別を意味しないし、なによりも技術の発展が人間の能力を大幅に補強するようになった。走る速さには才能と努力があるだろうが、電車や自動車を使えばより速く、より重いものを持って移動できるし、飛行機に乗れば空を飛ぶこともできる。
身体的な能力よりも精神的な能力が生得的だという議論のほうがより受け入れにくいようだが、たとえば記憶力には個人差があるかもしれないが、文字で書きとめておくという技術、コンピュータに記憶させておくという技術が発展したことのほうが、はるかに重要なことである。
向精神薬は、特殊な精神病の治療薬としてだけではなく、日常生活の調整にも役立つ。睡眠と覚醒のリズムを整えるのには中枢神経刺激薬と睡眠薬が役に立つ。中枢神経刺激薬と書くと大げさだが、カフェインはもっとも日常的に使用される向精神薬である。
目を覚まして活動的にする物質と、鎮静作用があり眠りを導く物質以外に、注意の方向を無意識に深める第三のグループの精神活性物質があり、サイケデリックスやカンナビノイドがこれに該当する。意識の状態を、覚醒、夢のない眠り、夢見の三状態に分けるなら、夢見に対応するのがサイケデリックスである。これは、無意識へのアクセスを軽視してきた近代的理性のバランスを取り戻すのに役立つ。
行動遺伝学と同様、精神活性物質の使用にも近代的な自由の観念に反するところがある。これが薬物乱用の規制という社会問題になっているのだが、そうであればこそサイケデリックスはポストモダン文化において重要な役割を果たすのだといえる。
薬物は誤用すると事故が起こるが、これは自動車という便利な乗り物は事故を起こすと致命的だというのに似ている。だから自動車には安全運転というルールがあり、教習を受けて運転免許をとる必要がある。
カンナビノイドは自動車のような道具であり、サイケデリックスはロケットのような道具である。しかし、カンナビノイドは、使いかた次第では飛行機のように使うこともできる。
大麻はアルコールのような嗜好品にもなるが、サイケデリックスとしても使える。そのように使うには知識と経験が必要とされる。たとえば自動車しか知らない人が飛行機の操縦席に載っても、滑走路の上を走ることしかできないだろう。空に向かって飛翔するには、この乗り物が空を飛ぶことができるものだという知識と、離陸するための操縦法を学ばなければならない。
薬物ばかりに頼っていると自分で努力することをやめてしまう、脳が自力で神経伝達物質を分泌する能力が下がってしまうという問題もある。これは、自動車ばかりに乗っていると運動不足になるという議論と同じである。自動車は便利だが、散歩やランニングも健康のためには必要である。
さらに、サイケデリックスを使用することは、ロケットに乗ることに似ている。ロケットに乗れば宇宙空間や他の星に行くことができるが、それによって生活が便利になることはない。しかし、ロケットに乗って宇宙へ行くことは、人間の視野を広げ、あらたな知見をもたらしてくれる。宇宙空間から地球を見返したときに、神秘体験を得る宇宙飛行士も多いという。サイケデリック体験によって人生観がより広いものに変わったり、その結果としてうつ病や依存症が治るのは、宇宙空間から地球を振り返る俯瞰効果と対比されされる。
精神文化とサイケデリックスと神経科学
サイケデリックスについては1990年代からずっと研究を続けている。もともとは世界各地を旅して、芸術や宗教などの精神文化とサイケデリックスを含む薬草の関係に興味を持ったからでもあるが、精神文化の背景にある意識状態の変化が神経伝達物質や受容体のタンパク質をコードする遺伝子の進化という生物学的メカニズムに還元できることにも関心がある。大学入学後、学部から大学院にかけては、行動遺伝学を学んだので、生物学的な脳神経科学のパラダイムには親近感をおぼえる。高次の精神文化のすべてが分子レベルに還元できるわけではないが、どこまで還元できるかを見きわめなければ、分子レベルよりも高次の「構造」を見きわめることはできない。
そういう理論的な関心で研究を進めてきたところが、ここのところ「裁判沙汰」という角度から問題を見直すことになった。精神を変容させる物質や薬草が違法薬物として犯罪視されているのはかねてより問題があるとは思ってはいたのだが、被告人が正論を言って争う裁判は珍しい。そもそも、幸か不幸か、犯罪や裁判などとは身近に関わったことがなかったから、非常に新鮮な「フィールド」に投げ込まれたような感覚でもあった。現代の日本で起こっている事件であるがゆえに、先住民社会の調査よりもリアルな状況だともいえる。
DMTをめぐる状況
アヤワスカの精巧な模造品とでもいうべき植物がネット上で流通、摘発されて裁判になっているという事件には本当に驚いている。この件については「Kyoto DMTea Ceremony Case / 京都アヤワスカ茶会裁判」という別のブログにまとめている。
卒業生を通じて担当弁護士から連絡があったのが2020年の4月だっただろうか。弁護士さんも優秀な人ではあったが、国選で担当になっただけで、アマゾンの先住民族が使っていた薬草のことなど知るはずもない。
しかし思い起こせば、薬草協会の活動については、2017年ごろにゼミの学生さんから聞いてはいた。アヤワスカを飲むお茶会が行われているので、興味があると聞いて、薬草協会なる団体のサイトを見たが、アニメのような絵にラノベのような文章、なんとも怪しいと思い、その学生さんには、関わらないほうがいい、と助言したものだった。
薬草協会の存在を知ったのもゼミ生からの情報で、裁判が始まったということを知ったのも卒業生からの情報だから、大学教授という仕事をしていても、アンダーグラウンドな文化の現在形については、むしろ学生たちから教わることのほうが多い。
青井さんがネット上でDMT植物を売ったこと、それを買って飲んだ大学生が救急搬送されたことが問題だと思われている事件だが、じつは大学生の希死念慮が数時間で消えてしまったということ、これは大学生が未成年でしかも精神を病んでいたためにあまり公表されていないことなのだが、DMT植物をめぐる議論の発端と核心はそこにあると見ている。この大学生の話を聞くと、抑うつが、抗うつ薬を飲むように治ったのではなく、光に出会うという神秘体験をしたということで、しかもその大学生はショーペンハウアーやヴェーダーンタ哲学でその体験を解釈しているという点で、非常に貴重な証言だと思っている。
もとより私はサブカルチャー的な文脈の中でのドラッグカルチャーにはあまり関心がなく、サイケデリックスについては、世界各地の少数民族の伝統文化として、また神経系に作用して意識状態を変容させるという意識科学的な、アカデミックな研究のほうに知識が偏っていた。
京都での裁判のことについては、海外からの注目のほうが高いということもあって、別のところに裁判記録を書いたが、最初は、アヤワスカとは何か、という専門家として試料を提供するだけの予定だったのが、その後、薬物事件をめぐる法律や裁判のありかたについても考えさせられることになった。法律のことは詳しくは知らなかったのだが「麻薬」として規制されている植物や物質は、所持しているだけで懲役刑になるのがふつうである。誰も傷つけていないのに犯罪と見なされるのは、たとえば銃や刀を所持しているのと同じ理屈なのだという。しかし、サイケデリックスやカンナビノイドにかぎっていえば、適度に嗜めば感性を高め精神性を高めてくれる上品な嗜好品にもなるし、瞑想修行の補助にもなるし、あるいは精神疾患や薬物依存症の治療にも有効だということは、弁護士さんに頼まれて資料を調べていくうちに学んだ。
カンナビノイドをめぐる状況
大麻とカンナビノイドについても、むしろ若い学生さんたちに教わることが多かった。日本でも欧米の文化の影響を受けて、若い人で大麻の使用者が増え、逮捕者も増えているという。それとは別に、CBDなど、各種のカンナビノイドがサプリメント感覚で流行しているのだと、これも去年あたりに学生さんたちから聞いて知ったことである。
法律や取締のありかたについても大きな変化が起こってきているようで、そもそも大麻がなぜ懲役刑まで科せられるほどの犯罪なのかという基本的な問題があらためて論じられてきているのだと知った。このあたりは「先進国」の中では、日本は相当に遅れをとっている。このこと自体も、文化人類学的に考察しなければならないテーマではある。
麻紐を使って縄文土器を復元している大藪龍二郎さんが大麻取締法をめぐって2021年から裁判になっていることについても、2020年から始まっているアヤワスカ・アナログ裁判と並行して関心を持っている。大麻の合法化をめぐる言説は、処罰から治療へという犯罪学的な視点や、難治性てんかんの治療など、医療大麻という視点に向かう社会学的要因があるのだが、カンナビノイドが芸術的な感覚を高めるという主張が行われているのが興味深い。サイケデリックス・カンナビノイドは感覚や認知、そしてより高次の情報処理を分子レベルで理解する(あるいは操作する)ための「効率的な」アプローチでもあるはずだし、その操作可能性が社会的法的な通念により忌避されることでもある。
睡眠と時間
睡眠と覚醒
睡眠の問題については睡眠障害の当事者でもあり、治療と養生のプロセスで入院したり検査したりと、いろいろな体験をしてきた。これも参与観察であり当事者研究として教育研究活動にフィードバックしていきたい。
概日リズムのサイクルの中で、セロトニン、メラトニン、そしてDMTが順番に分泌されるプロセスなども治療と裁判の過程で学んだ。睡眠リズムの調整のため、ということで精神科病院に入院することになったのだが、統合失調症やうつ病のような病的な苦痛がない状態で、精神科病院という場所で暮らした体験は、まるで異民族の世界でフィールドワークをしているようでもあったし、フーコーやゴッフマンが論じてきた権力論もよく理解できるようになった。
規律正しい入院生活の中で考えた時間論については「パノプティコン/監獄の誕生」、「カントの道徳律・フーコーの規律」に覚書を書いた。それに先立って「『純粋理性批判』と『視霊者の夢』」というカント論を書いた。
時間論
時間には、物理的時間、生理的時間、心理的時間、社会的時間がある。
物理的時間と、そして心理学的時間については、授業に関連する部分については、「不思議現象の心理学」の中で、「超常現象」とされる「PK」と「予知」を、時間対称性とその破れ、として議論する内容と関連する。『現代思想』に寄稿した『マトリックス』論についても改稿したい。
生理的時間については、当事者的には、概日周期と睡眠時間について、ずいぶんと考えさせられた。半分は個人的な、まったく生活の問題だが、なぜ周期的に眠るのか、夢とは何か、という一般的な問題提起については「身体と意識」の最初のほうで論じたい。
生理的時間と社会的時間が生権力によって媒介されていることも学んだが、同時に物理的な時間の根拠もまた間主観的な要請によって構築されるのだということもわかった。これは、相対性理論や量子力学などの現代物理学が古典的な絶対時空の概念を捨てたこととも関係がある。学部での授業の内容からはすこし離れるが、コスモロジー=宇宙論の歴史についてもまとめていきたい。以前、自分で取材して見聞きしたことを「風の旅人」にエッセイを連載したが、この原稿を切り出して加筆修正したい。連載は字数制限もあって十分な内容が書けなかったという理由もある。ヨーロッパの天文学史については、たとえば「天動説と地動説 ー 西欧ルネサンス期のコスモロジー ー」という記事をまとめている。
ヨーロッパにおける天動説から地動説へのパラダイム・シフトについては、科学史の典型例として、科学史の中では論じ尽くされてきたテーマではあるが「重力波望遠鏡」など、自分なりに観光旅行も兼ねて取材して見聞きした話はまた別のコラムのようにまとめたい。
『風の旅人』の連載にも書いたことだが、ヨーロッパの天文学史を古代のギリシアまで遡っていくと、数学・音楽・天文学という三位一体の世界観にたどり着く。この中で天文学が物質科学として分離していくいっぽうで、音楽は数学とともに発展し、バロック音楽のような西洋音楽として集大成される。これは天文学がニュートン力学として集大成されたプロセスと並行関係にある。そしてその体系は、ヨーロッパという地域の限定を超えて普遍的なものである。惑星探査機ボイジャーにもバッハの音楽を録音したレコードが搭載されている。
ウイルスと認知バイアス
2019年に世界中に拡散したSARS-CoV-2は非常に学際的な問題を引き起こした。
個人的な体験だが、2003年に中国の雲南省でナシ族・モソ人の調査中にSARS-CoVのヒト・ヒト感染に遭遇したのは貴重な体験だったが、それから16年後にまた「第二波」が拡大したのも驚きであった。
大学一回生の時には京都大学ウイルス研究所で学んでいたが、その後のウイルス学の進歩を振り返ることにもなった。ウイルスという、体外に飛び出したトランスポゾンと宿主との共進化の過程がこれほど詳細に追いかけられたのは史上初のことだろうし、このことは、圧倒的多数の無害または有益なウイルスが水平伝播によって進化を引き起こしていることを再考させられる出来事でもあった。
世界的な非常事態は、ウイルスそのものとは異なる次元での社会的な事件でもあった。リスクの認知バイアスと最適ではない意思決定が集団で共有されるという、遺伝子・文化共進化のような現象も起こった。
話が拡散してしまい、大学での授業とも関係ないことも書いているが、同じことを何度も繰り返しているようでもある。WEBサイトというハイパーテキストに断片的な文章を書くようになってから、むしろ思考の断片がまとめやすくなったし、それが知識の情報化の新しい方法なのではないかと思う。
付記・テーマ別・地域別リンク
神経伝達物質と遺伝子
「パーソナリティと遺伝子」
「認知機能・パーソナリティの小進化」
「個人向け遺伝子解析」
「パーソナリティの遺伝子解析」
地域別のテーマ
今まで、アフリカ・中近東・東欧を除く世界各地で現地調査を行ってきた。これはテーマによって人類学AとBに振り分けながら、授業で順々に触れていきたい。
意識の諸状態と精神文化というテーマだと、地域的な偏りがある。精神展開薬の文化的使用は中南米の先住民文化に偏っており、また瞑想の文化は南アジアから東アジアに偏っている。
ミクロネシア・ポリネシア
ポーンペイ島やハワイのカヴァ文化について
「理性と逸脱ーミクロネシアのドラッグカルチャーー」(彼岸の時間)
「南島の茶道 ーカヴァの伝統と現在ー」
「南洋の礼儀作法」
中米
中米の先住民文化は、アステカやマヤなどの文化圏とも重なる。ここでは、ペヨーテ、シビレタケ、サルビアなど多様な薬草の文化が発展した。トウガラシ、トウモロコシ、カカオなどの栽培とも並行している。
「中米先住民文化と精神展開性植物」
南米
DMTを含むアヤワスカ茶のことはずいぶんとあちこちに書いたものだが、重複も多く、また自分で現地に行ったのも二十年ぐらい前で情報が古いということもあり、まとめなおしたい。
「誇り高きマテ茶道」
「アマゾン先住民シピボのシャーマニズム」
「アヤワスカの宴(プロローグ+エピローグ)」(彼岸の時間)
「アヤワスカの時代」(彼岸の時間)
「世界を夢見ているのは誰か」
「ブラジルからの逆襲」
「ブラジルにおけるアヤワスケイロ宗教運動の展開」
「聖ダイミの恍惚」(彼岸の時間)
「アヤワスカ茶による脳機能とパーソナリティの変化(加筆中)」
「アヤワスカ茶の生化学」
「DMT含有植物と薬草としての使用」
「京都アヤワスカ茶会事件 ーDMT植物茶が争われる日本初の裁判ー」
「DMTーありふれた構造の特異な物質ー」
記述の自己評価 ★★★☆☆
(つねに加筆修正中であり未完成の記事です。しかし、記事の後に追記したり、一部を切り取って別の記事にしたり、その結果内容が重複したり、遺伝情報のように動的に変動しつづけるのがハイパーテキストの特徴であり特長だとも考えています。)
デフォルトのリンク先ははてなキーワードまたはWikipediaです。詳細は「リンクと引用の指針」をご覧ください。