サルトルが『実存主義とは何か』において「実存(existentia)」は「本質(essentia)」に先立つがゆえに「人間は自由の刑に処せられている(L’homme est condamné à être libre)」と論じている部分。
無神論的実存主義はいっそう論旨が一貫している。たとえ神が存在しなくても、実存が本質に先立つところの存在、何らかの概念によって定義されうる以前に実存している存在が一つある。その存在はすなわち人間、ハイデッガーのいう人間的現実である、と無神論的実存主義は宣言するのである。実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、その後で定義されるものだということを意味するのである。実存主義者の考える人間が定義不可能であるのは、人間は最初は何ものでもないからである。人間は後になってはじめて人間になるのであり、人間は自らが造ったところのものになるのである。このように人間の本質は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。人間は、自らそう考えるところのものであるのみならず、自ら望むところのものであり、実存して後に自ら考えるところのもの、実存への飛躍の後に自ら望むところのもの、であるにすぎない。人間は自らつくるところのもの以外の何物でもない。以上が実存主義の第一の原理なのである。
(中略)
ドストエフスキーは、「もし神が存在しないとしたら、全てが許されるだろう」と書いたが、それこそ実存主義の出発点である。いかにも、もし神が存在しないなら全てが許される。したがって、人間は孤独である。なぜなら、人間はすがりつくべき可能性を自分の中にも自分の外にも見出し得ないからである。人間はまず逃げ口上をみつけることができない。もし果たして実存が本質に先立つものとすれば、ある与えられ固定された人間性を頼りに説明することは決してできないだろう。いいかえれば、決定論は存在しない。人間は自由である。人間は自由そのものである。もし一方において神が存在しないとすれば、我々は自分の行いを正当化する価値や命令を眼前に見出すことはできない。こうして我々は、我々の背後にもまた前方にも、明白な価値の領域に、正当化のための理由も逃げ口上も持ってはいないのである。我々は逃げ口上もなく孤独である。このことを私は、人間は自由の刑に処せられていると表現したい。刑に処せられているというのは、人間は自分自身を作ったのではないからであリ、しかも一面において自由であるのは、ひとたび世界の中に投げ出されたからには、人間は自分のなすこと一切について責任があるからである。
『実存主義とは何か』[*1]
なお『嘔吐』(La Nausée 1938)については別の場所で論じたいが、サルトルの思想の背景には1935年のメスカリン体験がある[*2]ことを追記しておきたい。