蛭川研究室

蛭川立の研究と明治大学での講義・ゼミの関連情報

人類学とは何か ーその科学史的位置づけー

人類学の背景

人類学(anthropology)は、人間を研究する学問である。しかし、そう定義しただけでは、人間を扱う学問のすべてが「人類学」になってしまう。

人類学という領域設定の背後には、ヨーロッパの創造論的世界観における、鉱物、植物、動物、人間、そして天使、神という「存在の連鎖 great chain of being」という序列が存在する。これに、鉱物学、植物学、動物学、人類学、そして神学が対応する。

進化論的世界観にもこの区分は引き継がれ、人類学は人類の進化を研究する分野となる。歴史学が、文字によって記録された史料をもとに歴史を研究するのに対し、人類学はわれわれ(という場合には文字を使う「文明人」のことなのだが)が文字というものを使うようになる以前の、もっと古い歴史を対象にする。

人類学の下位分野

この、人類の進化史を明らかにするための方法には大きく分けて以下の二通りがある。

  • 先史考古学 prehistoric archaeology
  • 民族学 ethnology

先史考古学は、先史時代(歴史時代(文字を使用する時代)以前という意味)の遺跡から出土する骨や道具などを手がかりに、その時代の人間の生活を復元する。いっぽうの民族学は、現在、文字を持たずに暮らしている無文字社会(いわゆる未開社会)の人々を調査することで、先史時代の人間の生活のモデルとする研究から始まった。

これと似たような区分に、

  • 自然人類学(形質人類学) physical anthropology
  • 文化人類学 cultural anthropology (社会人類学 social anthropology もほぼ同義だが「社会」を強調する場合に使われる。)

がある。それぞれ、人間の生物学的側面と、社会・文化的側面を研究する分野で、先史考古学・民族学という区分にもある程度対応している。とくに文化人類学民族学はほとんど同じ意味に使われる。

二つの人類学

学問の体系は、大まかに自然科学と人文・社会科学に分けられる。いわゆる「理系」と「文系」である。扱う対象の違いというよりは、物事のとらえ方の違いである。研究の対象が人間であれば、自然科学はそれを物質的な存在とみなし、人文・社会科学はそれを文化的存在とみなす。

たとえば心理学という分野には、自然科学と人文・社会科学からのアプローチが両方含まれている。いっぽう、現在の人類学は、自然人類学と文化人類学社会人類学という二つの分野に分かれていて、両者は分離してしまう傾向にある。

しかも、自然人類学の研究者は「人類学」といえば自然人類学のことだと考える傾向があり、この場合、文化人類学社会人類学は「民族学」と呼ばれることが多い。いっぽう、文化人類学社会人類学の研究者は「人類学」といえば文化人類学社会人類学のことだと考える傾向があり、自然人類学のほうはあまり省みられない。あるいは、人間を物質的な身体として研究する分野は、たとえば遺伝学や解剖学、そしてその応用分野としての医学だとみなされる。

研究者の人数は文化人類学社会人類学のほうが多いため、いっぱんに「人類学」というと文化人類学社会人類学のことを指すことが多い。

文理総合科学としての人類学

歴史的には、ヨーロッパでは、人類学は自然人類学と同義であり、文化人類学社会人類学に相当する分野は、民族学という別のカテゴリの分野だとされてきた。これに対し、アメリカでは、文理の区別なく人類学とし、考古学や言語学も含めることが多い。

日本には、自然人類学の研究・教育を行っている大学は少ない。そのひとつが東京大学理学部である。

人類学が理学部に属しているのを不思議に思いませんか?

現に,皆さんのいる駒場教養学部には文化人類学研究室があります。

しかし,本当に人類を理解しようとするなら,文系だとか,理系だとかにこだわらず,総合的なアプローチが欠かせません。

本来,人類学とは、ヒトにかかわる,生物学・心理学・社会学・医科学等々を包含した総合科学です。ただ,現在,学問の世界がそういう態勢になっていないのです。

 
東京大学理学部生物学科「人類学を学びたい人へ」[*1]

人類学を自然人類学と同義とするのは、戦前の国立大学がもっぱらドイツ式の学問を輸入しようとしていた時代の名残である。

人類学の現代的意義

文化人類学の研究者のほうが数が多く、それが人類学の同義語とされる背景には、文化人類学が、その本来の研究分野を超えて、人文・社会科学全体に及ぼしたインパクトの大きさによる。

20世紀の学問には二つの大きな革命があったといっていい。自然科学の分野では相対性理論量子力学が現代物理学を形成し、われわれの宇宙観を大きく変えた。人文・社会科学の分野では文化人類学が提出した文化相対主義、とりわけその方法論的基盤である構造主義が、われわれの人間観を変えた。

天文学という、地球の外側の世界を研究していた分野からもたらされた知見が、けっきょくは物理学全体を変えたように、構造主義などのなどの現代思想もまた、「狂気」(精神医学・臨床心理学)や「未開」(文化人類学)といった、「正気の[西洋]文明人(の大人の男性)」の世界の「外部」からもたらされた知見に多くを負っている。

こういう文脈でみると、人類学とは、「文明」社会に生きる人間を「外部」から映し返す鏡のような学問だともいえる。つまり、近代的な文明社会も多様な人間社会のあり方のひとつにすぎず、人類全体もまた数千万種におよぶ生物の一種にすぎないという、相対的なものの見かたをもたらしてくれる。これに加え、日本など、近代化した非西洋社会における人類学は、西洋文明と未開社会を三角測量するという、特殊な視点を提供してくれる。

また近年では脳の研究が急速な進歩を遂げつつあり、人間の精神や社会のありかたを、生理学的な観点から理解できるようになってきている。人間と他の生物との違いは、進化の過程で脳の構造が変化したことに由来するはずであり、他の生物や「原始人」、そして「文明人」を連続したものとしてとらえる自然人類学の考えかたが、ふたたび重要なものになってきているといえる。

自然人類学・文化人類学を総合した人類学が、自然科学と人文・社会科学の橋渡しをする学問として、重要な役割を担うようになるだろう。



記述の自己評価]★★★★☆
CE2017/03/18 JST 作成
CE2022/03/25 JST 最終更新
蛭川立

*1:東京大学理学部生物学科「人類学を学びたい人へ」(2019/09/23 JST 最終閲覧)(蛭川は東京大学理学部の大学院博士課程で人類学(生態人類学研究室)を学んだ。自然人類学を学ぶにはこの研究室しかなかったからである。)

【資料】仏教経典

概説

仏教経典はキリスト教の『聖書』やイスラームの『クルアーン』のように整理されておらず、おそらく長い時代に書きためられた文献が非常に大量にある。書かれた言語によって分類すると、もっとも古いのがパーリ語で書かれた上座部仏教の経典であり、次にサンスクリットで書かれた大乗仏教の経典がある。

大乗仏教のうち、さらに新しい時代に編纂されたのが密教(タントラ仏教)の経典だが、書かれた言語からすると、もともとはサンスクリットで書かれたであろう経典の多くが、インドから仏教が失われていく過程で散逸してしまった中で、とくにチベット語に翻訳されたものが残されているものが多い。

大蔵経

日本では、およそ大乗仏教の時代に中国を経由して経典を輸入したため、漢語で書かれた大乗経典は古くから知られていた。

漢文の大蔵経としては「SAT大正新脩大藏經テキストデータベース」がオンライン上で公開されている。

その後、大乗経典は元のサンスクリットから平易な日本語に訳されるようになった。上座部仏教と中期以降の密教については、新しい時代にパーリ語チベット語から直接翻訳されるようになった。

日本語に翻訳されている仏教経典については、Wkipediaの「日本語訳仏典」にまとめられている。


タイ・チェンマイ、ワット・ラム・プンの図書室

上座部仏教経典

パーリ三蔵

ローマナイズされたパーリ三蔵(Tipiṭaka)は、Vipassana Research Instituteによって「Pali Tipikata」にまとめられている。

上座部仏教は伝統的には日本には伝わらなかったのだが、それゆえに新しい時代になってから、パーリ語から直接日本語に訳されるようになった。

律蔵

パーリ三蔵(Tipiṭaka)のうち、律蔵(Vinayapiṭaka)は、戒律等の「条文」であり、とくに現代日本語訳は行われていない。

経蔵

経蔵(Sutta pitaka)のうち、『長部経典』『中部経典』『相応部経典』『増支部経典』は、中村元の監修による和訳『原始仏典』が春秋社から出版されている。

『小部経典』については、近年、正田大観による和訳が電子書籍として出版された。もっとも初期の経典とされる『ダンマパダ』や『スッタニパータ』など、主要な経典についてはについては、中村元の訳で岩波文庫として出版されている。また『ミリンダパンハ』については和訳が『ミリンダ王の問い』として東洋文庫におさめられている。

また、経蔵を漢訳した阿含経の和訳は、『阿含経典』として、ちくま学芸文庫に収録されている。

論蔵

論蔵(Abhidhamma piṭaka / Abhidharma piṭaka)は、経蔵の後から追加された考察だとされるが、和訳については、藤本晃 『『アビダンマッタサンガハ』を読む』と、その解説書である『ブッダの実践心理学』(全八巻)がサンガから出版された。

日常読誦経典

パーリ語で日常的に唱えられるパリッタ(Paritta)については、小苾蒭覺應(慧照)の「上座部 常用経典集」に主な経典の巴和対訳と丁寧な解説がある。ただし、呪術色の濃い護呪の和訳が省略されているところがある。

アルボムッレ・スマナサーラによるパーリ語日常読誦経典『ブッダの日常読誦経典』がCDと日本語の解説とセットでサンガから出版されていたが、現在は中古でしか入手できない。

同様の読経と解説は、日本テーラヴァーダ仏教協会公式チャンネルでも公開されている。


www.youtube.com

YouTubeのページを開くと個々の経典のチャプターが出てくる。文字もpdfでダウンロードできる。

大乗仏教経典

大乗仏教経典のほうは、じつに様々な和訳があり、詳細は列挙しきれないが、

網羅的な全集としては、中央公論社の『大乗仏典』(インド編、全15巻、中国・日本編、全30巻)があり、このうちインド編のほうは文庫化されている。蛭川研究室ではこれを全巻所蔵している。

東京書籍からは、中村元の翻訳による『現代語訳 大乗仏典』(全7巻)が出版されている。

ことに日本仏教の宗派で重要視される『法華経』や『浄土三部経』などについては翻訳や解説も多いが、正確なところを知りたければサンスクリット原文を参照するしかない。蛭川研究室では『梵文和訳 無量寿経阿弥陀経』を所蔵している。(『観無量寿経』のサンスクリット原典は発見されておらず、おそらく漢語が原典らしい。)

密教経典

密教大乗仏教の一部ではある。日本に伝わった『理趣経』『大日経』『金剛頂経』についてはいくつかの和訳があり、大乗仏典の全集にも含まれている。

しかし、後期密教経典は経典の系統関係も不詳で、邦訳も断片的である。松永有慶による『秘密集会タントラ和訳』など、いくつかの経典が和訳されている。

蛭川研究室では、同じ松永有慶による解説書である『インド後期密教』(上下巻)も所蔵している。



記述の自己評価 ★★★☆☆
(基本文献の整理のための覚書であって、専門的な立場からの文献案内ではない。)
CE2019/06/19 JST 作成
CE2022/06/12 JST 最終更新
蛭川立

縄文文化の超自然観(移植整備中記事)

www.isc.meiji.ac.jp

階層を発達させつつあった社会

縄文文化は西暦紀元前1400年~紀元前1000年ごろに、日本列島に存在した、いわゆる縄文土器によって特徴づけられる文化である。1万年以上におよぶ縄文時代は、いくつかの時期に区分される(→北東アジアの歴史)が、けっして変化に乏しかったわけではない。(→縄文時代の文化的要素の時代的変遷)以下、人口が急増し、精神文化の遺物を多数残した、中期以降の東日本の文化に焦点を当てる。

縄文人は文字を残さなかった。弥生時代、日本列島に大規模な文化の流入があった(→北東アジアの地図)ため、縄文人弥生文化以降の日本人の直接の祖先かもはっきりしない。その言語人類学的系統は不明だが、前半は古アジア諸語、後半はオーストロネシア語族などとの関係が指摘されている。(→北東アジアの言語)

縄文人は狩猟・採集をベースにしながらも、高度な漁撈と根菜・雑穀の単純農耕を行い、定住性の高い社会をつくっていた。 (写真:長野県与助尾根遺跡復元集落/中期/茅野市尖石縄文考古館)

集落の構造や遺体の埋葬方法からみて、明確な社会的階層は存在しなかったと考えられる。埋葬人骨の抜歯パターンによる分析や子どもに対する副葬品の分析を合わせて考えると、縄文社会は基本的には母系的な部族社会であったが、晩期北日本の亀ヶ岡文化では、北米北西海岸にみられるような、高度な漁撈にささえられた、より父系的な首長制社会が形成されていったらしい。また前期~後期の中部・関東で発達する環状集落には2分節、4分節の構造がみられるので、単系出自・双分制、さらには重系出自・四分制の親族組織が存在した可能性がある。(縄文文化と関係が深いとされるアイヌの社会は重系である。)(→北東アジアの社会)

政治的指導者と宗教的職能者

また後期以降には、埋葬法は一般人と同じでも、一部の人物が装身具とともに葬られていることがあり、 政治的な首長ないし宗教的職能者であった可能性が高い。腰飾りは男性に多く、貝輪は女性に多く、ヒスイなどの石の玉、耳飾りは男女双方が身につけている。このことから、あるていど男女の政治・宗教的分業が行われていたことがうかがえる[*1]。(写真:ヒスイ製大珠/晩期/山梨県金生遺跡/大泉村歴史民俗資料館)

一般に、狩猟・採集社会では男性の脱魂型シャーマンが政治的リーダーでもあり、農耕・牧畜社会になると、男性の祭司的首長と女性の憑霊型シャーマンが分化する。このモデルにしたがえば、まさに縄文時代にこの分化のプロセスが進行したものと考えられる。

しかし、かりに、もっとも希少であったヒスイの首飾りを政治的首長の象徴と考えると、縄文社会では男女の両方が政治的なリーダーになることができたということになる。さらに、腰飾りを祭司的男性、貝輪をシャーマン的女性の象徴とすると、たとえば福岡県の山鹿貝塚(後期)から出土した、玉と多量の貝輪を同時に身につけていた成人女性は、シャーマンと首長を兼任する存在だったということになる。これは、職能者の分化の一般モデルにはあてはまらない。そして逆に、弥生時代以降の文献にあらわれる、シャーマン的女王との連続性をうかがわせる。(写真:ヒスイ製首飾りをつけた女性像/茅野市尖石縄文考古館)

土偶と女神信仰

土偶縄文文化を特徴づける呪物である。北部ユーラシアの旧石器時代にみられる、いわゆるヴィーナス像の系譜を受け継いでいる。前期以前は平たい、シンプルな板状土偶が主流だったが、中期以降は多様な形態を持った立体的な土偶がつくられるようになる。(→縄文時代の文化要素の時代的変遷)(写真:「縄文のヴィーナス」/長野県棚畑遺跡/中期/茅野市尖石縄文考古館)

土偶の用途については諸説あるが(→土偶の機能論)、その大多数が女性の姿であることからみて、なんらかの女神崇拝があったと考えられる。

土偶の中には、合掌しているような姿勢のもの(写真左:青森県風張遺跡/後期/八戸市博物館)や、仮面をかぶっているような形をしているもの(写真右:長野県中ツ原遺跡/後期/茅野市尖石縄文考古館)がある。これらが、シャーマンなどの宗教的職能者の姿をかたどったものだという可能性もある。もしそうなら、縄文社会の宗教的職能者の大半は女性だったということになる。

後期~晩期の東北地方を中心に出土する、しゃがんだ姿勢の「屈折土偶」は、背中が平らなものがあることからみて、座っているのではなく仰向けになって出産の姿をあらわしているという解釈もある。いずれにしても土偶が象徴しているのはあきらかに「母としての女」であって、もしこれが宗教的職能者のイメージだとすると、未婚の「姉妹としての女」としての色彩の濃い弥生時代以降の巫女とは微妙に意味がずれることになる。

土製の仮面は後期~晩期の東日本に多く出土する。人間の顔と同じぐらいの大きさで、左右に紐を通すための穴があいているものもあるので、じっさいに儀礼や舞踊に使われたらしい。(写真:土面/長野県下原遺跡/中期/東京国立博物館

「仮面土偶」は、長野県中ツ原遺跡、縄文後期の墓地から出土した。人骨は残っていなかったが、被葬者の頭部にかぶせたものらしい鉢があわせて出土した(→出土状況の再現写真)。

骨が残りやすい貝塚からは、じっさいに鉢を被せ葬られた人骨が発見されている。写真は千葉県さら坊貝塚で発見された、縄文時代中期後葉の中年女性の遺骨(千葉市立加曽利貝塚博物館)で、左腕に、おそらくはシャーマンのシンボルである貝輪をはめている。土偶がシャーマンをかたどったものかどうかはともかく、縄文のシャーマニズムにおいて重要な役割を果たしていたであろうことはまちがいない。

「殺された女神」仮説

土偶の、妊娠しているという特徴は特異なものである。未来の考古学者がわれわれの文化の遺物を研究しても、裸体の女性を崇拝?していたと考えるかもしれないが、そこで崇拝されているのは性的な美の象徴としての女性であって、母としての女性ではない。縄文文化からは、アンデスのモチェ文化のような、性行為を行う男女の像なども見つかっていない。

妊婦であるという特徴を重視すれば、土偶は安産・多産の女神だという解釈がもっとも自然だといえる。

しかし、それだけでは、壊されたり、埋葬されたりしているという奇妙さが説明できない。数千年前の土製品が割れることはむしろ当たり前なので、意図的に壊されたことを証明することは難しいが、

  • 同じ土偶の破片が遠く離れた場所から見つかる
  • 土偶X線で調べると、あらかじめ壊すことを前提にしたような造られかた(分割塊作成法)をしている

などの間接的な証拠が挙げられている。(写真:土偶X線写真と分割塊作成法/山梨県釈迦堂遺跡博物館)

また、神話学の知見からは、殺され、埋められた女神の身体の各部から各種の栽培植物が発生するという、オーストロネシア文化圏などにみれらるハイヌウェレ神話との関係が指摘されている。日本では『古事記』のオホゲツヒメ神話、『日本書紀』のウケモチノカミ神話にハイヌウェレ神話素がみとめられる[*2]

縄文人は、土偶を壊し、その身体の一部を埋葬することで、豊穣を祈ったのかもしれない。(写真:土坑に埋葬された状態で発見された土偶/山梨県釈迦堂遺跡/釈迦堂遺跡博物館)

しかし、ユーラシアのヴィーナス像は旧石器時代に多く発見され、土偶も縄文草創期から出現するので、縄文中期以降に粗放農耕が行われていたとしても、土偶祭祀と農耕を直接結びつけることはできないとして、北方狩猟民の家の守り神と結びつける考えもある[*3]。また、土偶だけでなく石棒にも意図的に壊された形跡があり、一般に使い終わった呪物は壊してから破棄するという観念があったのかもしれない。

容器のデザイン

中期の勝坂文化圏で出土する人面付深鉢や人面付釣手型土器は、もし実用的なものであるなら、それぞれ、食物の調理と火を灯す用途に使われたものらしい。いずれも妊婦のような形をしており、人面把手付深鉢の中には子を出産しつつある姿が描かれているものもあるので、これらの土器は<容器としての女性>を象徴しているといえる。(写真:人面把手付深鉢/中期前半/長野県梨ノ木遺跡/茅野市尖石縄文考古館)

そのほかにも、岡本太郎をして「超現代的日本美」[*4]と言わしめた縄文土器の模様、とくに「火焔土器」(写真:馬高式深鉢/中期/新潟県馬高遺跡/東京国立博物館)や、「水煙土器」(写真下:曽利式深鉢の「水煙把手」/中期/山梨県釈迦堂遺跡/釈迦堂遺跡博物館)など、中期の深鉢には不思議な隆起線文様が描かれることが多く、シャーマン的意識状態で体験されるサイケデリックなヴィジョンを思わせる。

たとえば、アマゾンの根菜農耕民シピボの、妊婦をかたどった、顔の付いた壺の表面には、サイケデリック植物であるアヤワスカを摂取したときに見える、不思議な幾何学模様が描き込まれている。縄文土器が同じような意味を持つ可能性もじゅうぶんに考えられる。(→シピボの美術と精霊たちの植物)

他界と交流する技法

縄文のシャーマニズムはおそらく脱魂型から憑霊型へ移行していったものと考えられるが、脱魂型の色彩の濃い時代には、太鼓や向精神薬などの積極的な意識変容技術をともなっていたはずである。

縄文人が使用していた楽器の証拠あまり多くないが、おもに中期に出土する土鈴、土笛・石笛がある。

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箆型木製品(縄文時代後期 八戸市是川中居遺跡出土)

晩期の東北で出土する箆形木製品はアイヌトンコリと似ており、弦楽器の一種だったと考えられている。

特異なものとしてひときわ目を引くのが有孔鍔付土器である。ややこしい名前だが、ようするに、口の部分にほぼ等間隔で小さな穴が開けられており、見るからに太鼓のようである[*5]。(写真左:山梨県釈迦堂遺跡/中期/釈迦堂遺跡博物館)

1990年には土取利行により「縄文鼓」の実験的な復元と演奏が行われた[*6]。(写真下左:鹿皮を張って太鼓型に復元した有孔鍔付土器/茅野市尖石縄文考古館)

いっぽう、有孔鍔付土器の中からヤマブドウの種子が発見されたことや、注口部を持つものがあることから、これを一種の酒樽とする説もある[*7]。この場合、口につけられた穴は、醸造のさいのガス抜きないし装飾用だと解釈される。(写真右:羽根飾りをつけて復元された有孔鍔付土器/富士見町井戸尻考古館)

しかし、太鼓にしても酒にしても、意識の状態を変容させ、霊的な世界とコンタクトするために使われたということには変わりはない。またどちらも日本の土着信仰=神道儀礼には欠かすことのできなかったものであり、弥生以降の文化との連続性を感じさせる。(→神道にみる縄文的なるものの残存の可能性)

酒以外に、日本列島の自然条件で、意識状態を変容させる向精神薬として使用された可能性が考えられるのは、大麻ベニテングタケ、シビレタケ、ワライタケなどのシロシビン系キノコ、そしてヒキガエルである。

中期の勝坂文化圏から出土する土器、とくに有孔鍔付土器には蛇やデフォルメされた人物像が描かれることが多いが、これをカエル(の精霊?)と解釈し、古代中国のヒキガエル崇拝と結びつける考えもある[*8]。(写真上)縄文人はイヌやイノシシなど身近な動物たちを写実的にかたどった土製品を多数残しているが、その伝統の中で奇妙にデフォルメされた動物像は異彩を放っている。それは、あたかも身近な精霊たちを「写実的に」かたどったものであるかのようだ。

アサ(大麻、広義には苧麻(カラムシ)を含む)は縄文前期にはすでに縄や布として利用されていた。ただしそれが繊維材料ではなく向精神薬として用いられたかどうかはわからない。『魏志倭人伝』には弥生時代の西日本で酒が好まれる一方、麻の栽培が行われていたことが書かれているが、それが向精神薬として用いられていたという記述はない。しかしその後も大麻神道の伝統の中では神聖な植物でありつづけた。(→神道にみる縄文的なるものの残存の可能性)(写真:福井県鳥浜遺跡/前期/福井県立若狭民俗資料館)

東北~北海道の縄文後期の遺跡からは、しばしば環状列石にともなってキノコ形の土製品が出土する。キノコが神聖な植物とみなされていた可能性があるが、これが古代メソアメリカにあったような、向精神性のキノコ崇拝なのかどうかはわからない。傘が凸状のもの、凹状のもの、赤く着色されているものなど、いろいろな形態のものがあるが、どれもベニテングタケやシビレタケ類のキノコには似ていない[*9]。(写真:青森県観音林遺跡/後期/五所川原市歴史民俗資料館)

再生への信仰?

縄文時代の葬送法は土葬で、楕円形の土坑墓に手足を折り畳んで葬る屈葬が一般的だった。これは、伸展葬が一般的となった弥生時代以降とは対照的である。岩を胸に抱かせて葬る抱石葬がみられることもあるので、正常死か異常死かを問わず、縄文人は死者がよみがえってくるのを恐れていたという解釈がある。逆に、屈葬は子宮の中の胎児の姿であり、再生への願望をあらわしていた、という解釈もなりたつ。あるいは、たんに土を掘る労力を節約したのだという解釈もある。(写真:屈葬された男性/千葉県加曽利貝塚/後期/千葉市立加曽利貝塚博物館)

中期~後期の中部・関東に発達する環状集落は、中心に墓地、周縁に居住地という構造を持っている。死者を穢れたものとして周縁化するよりはむしろ、積極的な祖先崇拝のような観念があったことをうかがわせる。

中期以降には遺体を甕棺に入れて埋葬することもあったが、そのほとんどが胎児か乳児で[*10]、流産・死産の子を特別に葬ったと推測される。これにも、死んだ子を子宮=甕棺に戻して再生を願うという意味があったのかもしれない。

縄文後期の関東でよくみられる柄鏡形住居(敷石住居)の入り口には、甕棺らしい土器が埋められていることが多く(埋甕)、胎盤、あるいは流産・死産児の遺体を収めたものだと考えられている。(写真:東京都新山遺跡/中期/東久留米市教育委員会

これを、死産児の遺骨を、住居の近辺のトイレや玄関など、女性がよくまたぐ場所に埋葬して再生を願うという、近年まで残っていた風習と結びつける考えもある。

長野県唐渡宮遺跡から出土した埋甕(写真左:中期/富士見町井戸尻考古館)には、性器を広げた女性の姿が描かれている。そこから下に伸びる線は、赤ん坊にも見えるし、子どもの魂が立ち昇って子宮に帰っていくようにも見える。

埋甕の中には、上下を逆にして底部に穴を開けたものも多い(逆位底部穿孔埋甕)。子どもの霊魂が抜けていけるようにとの配慮だろうか。(写真右:山梨県釈迦堂遺跡/中期後葉/釈迦堂遺跡博物館)

配石の世界観

中期~後期の中部・関東では、男性器をかたどった石棒が、ふつう住居の中、とくに入口-炉端-奥壁に立てられるようになる。石棒は土偶と同様意図的に壊されたり、意図的に焼かれたりしているものが多く、なんらかの儀礼的意味を持っていたと考えられる。

土偶とは違い、男根崇拝は現在の日本の民俗社会にもみられるもので、ふつう、女性が石や木の男根に触れることで、子宝に恵まれると信じられている。縄文の石棒にも、同じような、生殖力への崇拝という意味があったと考えることができる。

柄鏡形住居の入口では、石棒と埋甕が対になって出土することもある。埋甕+石棒(あるいは柄鏡形住居全体+石棒)=女性器+男性器=妊娠・出産(再生)という象徴的な構造が考えられる。棒状のものをなんでも男性器、穴や容器をなんでも女性器とみなす精神分析的な象徴論は、やりすぎるときりがないが、少なくとも石棒の一部が確実に男性器をかたどっていることは間違いない。(写真:新潟県籠峰遺跡/後期~晩期/中郷村教育委員会

石棒は晩期の東北を中心に、男性器の写実的表現を離れ、石剣、石刀などのより抽象的な形態に発展していく。また中部・北陸地方では、石棒は「石冠」に発展する。ひとつの石に男性器のような突起と女性器のような溝の両方が彫り込まれているものが多く、ここにも女/男という象徴的二元論をみてとることができる。(写真:石剣/山梨県金生遺跡/晩期/大泉村歴史民俗資料館)

配石は北海道から九州まで、縄文時代全体をとおしてつくられた。祭祀の場所だったと考えられているが、同時に墓地だったことが確認されているものも多い。

住居の中に置かれた小型の石棒とは別に、縄文後期には大型の石棒が配石の中心など、屋外に立てられるようになる。配石墓の中央に建てられた石棒には、抱石葬同様、死者の霊を鎮める意味があったのかもしれないし、逆に、死者の再生を願うシンボルとしての意味があったとも考えられる。(写真:復元配石/山梨県金生遺跡/晩期)

後期の東北地方を中心につくられた環状列石(ストーンサークル)は墓石だったらしい。また後期~晩期の北海道では環状土籬(周提墓)が、北陸では、環状木柱列(ウッドサークル)がつくられた。(写真下:秋田県大湯遺跡野中堂環状列石/後期/鹿角市教育委員会

環状集落などの構造もあわせて考えると、縄文人の世界観は、北/南、山/海のような直線的な二元論ではなく、円環的で同心円状だったといえる。しかし、写真右の野中堂環状列石のように、おおよそ東西南北の四方向に大きな石が置かれているのをみると、縄文人は東西南北という方位をあるていど意識していたことがうかがえる。環状集落にも四つに分節されているものがあること、土器の模様は4を単位とするものがもっとも多いこと[*11]も視野に入れると、縄文文化に四分制的世界観が存在したことも想定できる。

※このページは、もともと西暦2002年ごろつくられたものなので、年代などが現在の学説とは多少異なっていたり、遺跡の所在地が旧町名になっていたり、連絡先が前任校の江戸川大学になったままになっている部分が残っていますが、ひとつの小論文として書いたものなので、あえて大幅な修正をしていません。ご了承ください。

CE2010/05/18 JST 更新
CE2022/03/20 JST 最終更新

  

*1:(片岡, 1983)

*2:藤森, 1973: 105-107; 吉田, 1997: 111-131

*3:(渡辺, 1998; 1999)

*4:(1973: 42)

*5:(山内, 1964)

*6:(1990, 1999)

*7:(武藤, 1970)

*8:(井戸尻考古館・田枝, 1988)

*9:(キノコ形土製品についての詳細は、佐藤(1998)(北海道)、福田(1998)、成田(1998)(青森)、日下(1998)(岩手)、高橋(1998)(秋田)、泰(1998)(山形)、山口(1998)(福島)を参照。)

*10:(菊池, 1983)

*11:小林, 1994: 203-6

ポストモダンとしての侘び茶

茶道は日本の伝統文化の代表のように語られるが、その歴史は意外に浅い。大麻Cannabis sativa)が縄文土器の縄目模様と同じだけの歴史を持っている可能性に比べると、今でこそ日常「茶飯」事になっている茶や米が日本列島に渡来した歴史は、はるかに新しい。どちらも中国の雲南から華南にかけての照葉樹林帯を起源とする外来種である。

8世紀、遣唐使の時代、チャ(Camellia sinensis)は一種の漢方薬として日本に伝わったとされるが、本格的な普及は、12世紀、栄西臨済禅とセットで輸入して以降のことである。そして、茶道という形態が整ってきたのは16世紀、室町時代であり、侘び茶というアートを集大成したのが、いうまでもなく千利休である。伝統文化としての茶道は、しばしば京都という古都と結びつけてイメージされるが、それは後の時代に「創られた伝統」である。利休は堺の商家の出身であり、当時の堺は勃興期にあったグローバルな資本主義に向けて開かれた最先端都市であった。

茶道の道具立ての中に「煙草盆」があるが、タバコ(Nicotiana tabacum)に至っては、もともと南米原産の植物であり、そのような植物がポルトガル経由でいちはやく取り入れられたのは、当時の数寄者たちの進取の気性をよくあらわしている。

もともとヨーロッパには興奮剤を使用する伝統はなかった。人類学者の山本誠によれば、カフェインに代表される興奮剤の輸入が、近代の勤勉な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の勃興を準備したという。外来の植物であったチャもコーヒー(Coffea spp.)も、植民地のプランテーションで大量生産され、それが本国に輸入されて大量消費された。紅茶はイギリス人の国民的飲料となったが、貴族の優雅な東洋趣味(オリエンタリズム)として受容されたイメージがあるいっぽうで、酒ばかり飲んでいて働かない労働者階級に、政府が国策として普及させた結果でもある。

アメリカでも、禁酒法の時代、酒に代わる新たな興奮飲料として、アンデスのコカ(Erythroxylum coca)の葉からとれるコカインと、西アフリカのコーラ(cola)の実からとれるカフェインをブレンドした「コカ・コーラ」 が発明され、国民的飲料として急速に普及した(→「興奮するモダン/沈静するポストモダン」)。朝はとりあえず薄めのコーヒーを多目に飲んで目をさまし、市場経済の世界へと飛び出していく、というのも、ステレオタイプ的なアメリカ人の姿である。

日本では明治期に漢方薬であるマオウ(Ephedra spp.)の成分エフェドリンをモデルにして、メタアンフェタミン、つまり覚醒剤が合成され、とりわけ第二次大戦中には特攻隊員から銃後の労働者まで広く使用された。商品名「ヒロポン」はギリシア語のフィロ(愛する)とポノス(労働)に由来する。戦後、余った覚醒剤が大量に流出し、大量の乱用者を生むことになった。


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エフェドリンが単離されアンフェタミン類が合成された過程の解説

話を日本の茶の湯文化に戻そう。禅僧たちによって坐禅中の眠気覚ましに使われていたチャもまた興奮剤としての役割を担っていた。私がまだ日本の茶道というものにまったく不慣れだったころの失敗談だが、差し出されたお濃茶を茶碗一杯ぶん、全部飲んでしまったことがある。しばらくの間、高揚感が続き、最後には気分が悪くなってしまった。幕末の黒船をもじって「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も眠れず」などとも詠まれたように、現在のように強い感覚的刺激に慣れていない昔の人たちにとっては、濃茶一口、薄茶一杯であってもじゅうぶんに興奮剤的な作用があったことが推測される。

侘び茶の思想が出現する以前は、装飾過剰の茶室で、カフェインによって「ハイ」になりつつ賭け事に興ずるといった成金趣味の享楽であった。そのころ、世界の中心はまだ欧米ではなく中華帝国だったから、数寄者たちにとっては、中国で流行っている唐物(からもの)を集めては自慢するのが格好良かった。さしずめ今でいうなら、パリやニューヨークで流行っているものをいちはやく手に入れて自慢するような感覚だったのだろう。意匠を凝らした道具類を美術として鑑賞することは心を豊かにしてくれる。しかしそれは、たんに珍しい蒐集品を自慢し合うことではないはずだ。侘び茶はそのようなバブリーな指向性に対する一種の「カウンターカルチャー」であった。それは、ポストモダンの先取りであったともいえる。

茶道文化は茶碗として使用される土器=陶器とつねに密接な関係にありつづけてきた。土器はおそらく紀元前一万年、縄文時代草創期にあった日本列島で世界に先駆けて発明された。初期の縄文土器はシンプルな模様しか持っていなかったが、縄文中期の馬高式土器(火炎土器)、勝坂式土器の時代にその装飾美のピークを迎える。その躍動性は日本の陶芸史一万二千年の最高峰であって、未だにそれは超えられていないといっても過言ではない。その後縄文時代の晩期へ、さらに弥生土器、須恵器へと、土器=陶器は薄く、丈夫な方向に向かって一直線に進化を遂げていく。そして、十六世紀には日本でも磁器が生産されるようになる。機能性を追求してきた土器のモダニズムの完成といっていい。にもかかわらずほぼ同時期に、侘び茶の出現と並行して、一見不格好な茶陶の世界が展開しはじめる。「ヘウケモノ」と称された美濃の織部焼のように、新しい時代の数寄者たちは、まるで縄文土器に先祖返りしたような、あるいはそれ以上に、わざと分厚くて非対称に歪んだ茶器を好んだ。これは、商業都市という最先端の場所の真ん中で、それとはまったく対極にある野生の自然を志向する「市中の山居」という思想と軌を一にしている。

しかし、侘び茶によって見事に昇華させられたとはいえ、やはりカフェインは興奮剤である。興奮剤の代表として悪名高いメタアンフェタミンの俗称が「スピード」であることが示すように、興奮剤は加速しながら前進し続ける資本主義の時間と相性がよい。しかし消費への欲望が実体をはるかに離れて加速していくことが、果てしのない競争を呼び起こし、環境破壊や石油資源をめぐる戦争といった矛盾が露呈しているのが現代である。そこで求められているのは、いわば「スローライフ」であり、茶室でほっと一服くつろげるような、スピードダウンの思想である。

純粋な日本の伝統と思われがちな侘び茶でさえ、その成立当初からグローバルな国際性を内包していたことは、すでにみたとおりである。そして現在のポストモダンポストコロニアル、多文化共生的な状況では、もっと多様なお茶が、四季折々の時候におうじて嗜まれてもよいはずである。チャにしても、もともとは外来の「薬物」だったのだから。

スローライフ」を提唱する先駆的な役割を果たしたのが、人類学者の辻信一らによってつくられたNPO法人ナマケモノ倶楽部」である。始まりは、エクアドルとの、コーヒーなどのフェアトレード活動だった。しかし、このようなフェアトレードには「先進国」の貨幣によって、「途上国」の物産を、ある種の憐れみによって買い取ってあげようという、どこかアンフェアな非対称性の雰囲気が、なお存在する。コーヒーは北東アフリカ原産で、南米の植物ではない。「大航海時代」以降、植民地化される中で、いわば強制された植物である。そしてその有効成分は、やはり興奮剤、カフェインであり、スローな物質ではない。エクアドルエクアドルの土地が育んだ特産品を誇らなければならない。エクアドルの風土が誇りうるお茶とは、たとえば東部の密林(セルバ)で産出されるアヤワスカ茶である。

エクアドルアヤワスカを輸出し、日本が大麻を輸出し、あるいはハワイがカヴァ(Piper methysticum )(→カヴァの伝統と現在)を輸出する。それらが対等の価値を認め合いながら交換されるようになったとき、真のフェアトレードが実現するだろう(もちろん、法的な問題は議論される必要があるが)。そして、輸入されたものはその土地の風土に合わせ、独自の生活様式と美意識によって受容されていけばいい。

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立礼で華和茶(カヴァ茶)を点てる著者(2005年11月)[*1]

それが日本であれば、やがて第二、第三の利休が出現し「侘びカヴァ茶」や「侘びアヤワスカ茶」という「道」を集大成していくことになるだろう。

あくせくと動き回る小さな自我へのこだわりを捨てて、大きな道(タオ)に身をゆだねてしまうこと。その、泰然としたスローな美学と、カフェインのような興奮剤はあまり相性がよくないことを考えれば、真の意味でのポストモダン、「茶禅一味」の侘び茶の文化は、たんに守り伝えていくべき過去の伝統ではなく、むしろようやくこれからの時代に本格的に発展していくことになるだろう。そして、その萌芽が四百年前にすでに準備されていたことは、驚くべきことだというほかない。



蛭川立 (2009). 「密林の茶道―茶の湯の人類学―」黒川五郎編『新しい茶道のすすめ』現代書林, 233-257. をもとに加筆修正。

記述の自己評価 ★★★★☆
CE2009/10/27 JST 公刊
CE2019/11/01 JST 電子版作成
CE2022/03/12 JST 最終更新
蛭川立

*1:カヴァに含まれるカヴァラクトンは、CB1受容体のアゴニストであり、大麻に含まれるカンナビノイドと同様の薬理作用を持つ。カヴァやカヴァラクトンは麻薬としては規制されていないが、日本では薬機法により個人輸入と個人使用以外が規制されている。2007年に日本の厚生労働省オセアニア式の茶会も薬機法が規制している「譲渡」に該当するという見解を示した。それ以降、華和茶会は行われていない。

「身体と意識」2021年度 秋学期 期末レポート課題

授業で扱ったような変性意識体験、たとえば臨死体験明晰夢や、あるいはVR体験などを2個挙げ、それぞれの体験・現象の概略を記述し、そのメカニズムや意味を論理的に解釈してください。体験・現象の内容と解釈は混ぜて書かずに別個に記述してください。また、解釈については、どのような仮説・学説を用いても、どのような結論になってもかまいませんが、議論が、既存の研究をふまえた上で、論理的に展開されていることを評価します。



春学期の「不思議現象の心理学」を履修した人は、設問が類似しておりますゆえ、同じ体験を繰り返して解答しないでください。また、特殊な体験だからといって高い評価をすることはありません。日常的な、小さな出来事でもかまいません。たとえば、寝ているときに見る夢も、変性意識状態で体験する特殊な仮想現実です。

なお、体験内容については、必ずしも自分が体験したものでなくてもかまいません。他人が体験したものでもかまいませんが、ただし、間接的に聞いた噂話や、本に書いてあったことや、テレビで見たことなどは除きます。自分じしんの体験か、他人の体験かは、答案用紙に○をつけて、明記してください。そして、もし、差し障りがなければ、体験した人の、おおよその年齢(体験時の年齢、現在の年齢)、性別、その他、職業や国籍などの属性を書いてください。もちろん、書きたくない、わからない、という場合は、書かなくても、成績評価とは関係がありません。

このような細かいお願いをするのは、成績評価のためというよりは、むしろ、皆さんに解答してもらった貴重な内容を、ただ試験の答案として眠らせておくのではなく(個人情報は特定できない形で集計し)、分析して研究し、また、来年度以降の授業の題材としてフィードバックするためです。どうかご理解ください。ほんとうは個々の答案にすべてコメントをお返ししたいのですが、受講者数が多いとそういうわけにもいきません。しかし、フィードバックはブログの記事に反映していきますし、今後も自由に閲覧できます。



別途添付した、Microsoft Word形式のファイル二個のそれぞれに、学生番号、氏名、所属学部と学科、年・組・番号、提出日を記入し、解答してください。(採点結果の欄には何も記入しないでください。)

Webサイト、紙媒体を問わず、引用は、必ず引用部分と出典を明記してください。

なお、例年、講義の感想をひと言、書き添えてくれる人がおります。成績評価には反映しませんが、歓迎します。

提出受付期間は、日本時間で西暦2022年1月24日(月曜日)の00時00分から、1月27日(木曜日)の23時00分までとします。(機械で処理する都合上、1秒でも遅れると受け付けられません。23〜24時ごろにはアクセスが殺到し回線が遅延する可能性があるので、早めの提出をお勧めします。)

その他、FAQの「期末レポートについて」に、問題になりそうな点を列挙しておきました。ご一読ください。それでも疑問がある場合には、上記サイトにあるアドレスに、メールでお問い合わせください。



CE2022/01/22 JST 作成
CE2022/01/23 JST 最終更新
蛭川立

「身体と意識」2022/01/21 CE 講義ノート

「身体と意識」の最後の授業の概要です。まずは「仮想現実と心物問題」を読んでください。私もこの分野に関心を持ち始めたのは最近で、この記事もまだあまりまとまっていないのですが、以下は先週の講義ノートの繰り返しです。

まずは「目の前に見えている世界は、実在するのだろうか?」という問いかけです。これに対しては、実在するに決まっている、それ以上の理屈は無用、と考えるのが、素朴実在論なのですが、この素朴実在論の正反対が「目の前に見えている世界は、幻覚である」という考えです。幻覚というと精神疾患や幻覚が見える麻薬のようなネガティブなイメージがあるのですが、この授業では、その偏見が多少なりとも解ければと、それだけでだいぶ目的は果たしました。何度も扱ってきましたが、眠っているときに見ている夢の世界は、誰もが経験する、リアルな幻覚です。悪夢は嫌なものですが、それじたいは狂気でも病気でもありません。

そして最後に、夢だとか幻覚だとかいうテーマを、これからの情報社会の文脈で捉え直して締めくくりたいと思います。

いま皆さんはスマホやパソコンの液晶画面を見ているでしょう。液晶画面の中の世界は、ピクセルが作り出す幻影です。平らな画面であれば、画面の外側に物理世界が見えますから、これは液晶画面だと認識できますが、これがVRHMD、ゴーグルをかぶりますと、360度、どちらを向いても液晶画面です。その中にいると、画面の中にいるということを忘れかけてしまいます。これからの時代にはもっと技術が進歩して、身体感覚も含めて完全に没入してしまう装置ができるでしょう。

そうすると逆に、いま目の前に見えている世界も、じつは仮想現実なのではないか?と問うこともできます。これも突拍子もない話ですが、いま目の前に見えている現実は、夢かもしれないし、じっさいにそうかもしれない、という、授業の最初のほうで扱った問題とつながります。これからの時代は、そういう形而上的な問いかけ、つまり問うても意味がない問いが、現実に意味を持ってくると思います。テレビばかり見ていると、ゲームばかりしていると、現実の世界に適応できなくなってしまう、という問題は、もう何十年も言われてきましたが、コンテンツ次第では、現実よりも豊かな暮らしができるかもしれませんし、複数のバーチャルな現実を行き来できるようになれば、そういう豊かな未来が開けているのではないかと、そんなふうに問題提起をして、この授業を閉じたいと思います。あとは、掲示板のほうで議論しましょう。

「人類学B」講義ノート 2022/01/18 CE

最終回です。公式のシラバスとは進行がすこし変わってしまいましたが、全体をまとめたいと思います。最初は、生物の進化、人類の進化というお話をしました。自然人類学の基本は、人類進化の研究です。それから、親族と婚姻、これは社会人類学の基本テーマです。そして、象徴人類学、芸術人類学、経済人類学という方向で話を進めてきました。

人間とはどういう動物か、というときに、形態学的には、脳が大きい、ということが挙げられます。そして、他の動物とは違い、言語を使用する。この言語は、ある抽象的な思考とも一般化できます。人間は社会を作ります。他の動物も群れを作りますし、膜翅目、つまりアリやハチは社会全体が一つの生物のような有機的な集団を作ります。しかし、人間の社会の特徴は、その複雑さというよりは、象徴的に構成されているというところにあります。

いろいろな民族の文化を見てきましたが、現代の都市社会、たとえばいまの東京あたりの文化に話を戻していきましょう。不思議な文化は、身近なところにあります。

たとえば、男女が同じ家に住むことには、婚姻という象徴的な文化が対応します。事実婚などという言葉もありますが、居住や性関係と、婚姻は同じものではありません。瞑婚という、死者と結婚する制度を持つ社会もあります。

貨幣も象徴です。数字も象徴です。同じぐらいの大きさの長方形の紙に「10000」と書いてある紙は「1000」と書いてある紙の十倍の価値を持ちます。「10」というのはアラビア数字といいますが、インドで発明されてアラブ世界を通じてヨーロッパにもたらされたものです。それから「十」は漢数字、これは中国で発明されました。

社会を構成するための象徴的装置としては、時間の数え方、暦法、暦がありますが、1日、1ヶ月、1年は、地球の自転、月の公転、地球の公転と関係がありますが、1秒、1分、1時間、1週間は、天体の運動などの物理現象とは関係がありません。

それから、12年で一回転する、十二支があります。これは、古代漢民族の「陰陽五行の世界観」から発展してきたものです。12年に、12種類の動物を当てはめています。なぜそれらの動物なのか、生物の分類学的な意味はありません。中には龍のように、実在しない動物も存在します。さらには、それで占いをしたりもします。未年生まれはヒツジだから草食系でおとなしい人だとか、今年の午年は運気上昇、とか、いま、思いつきで適当に言っていますが、こういう占いも、当たるとか当たらないではなくて、ひとつの象徴的世界観であり、宗教の一種です。

男女が同じ場所に住む、天体が運動するという物理的現実とは違うところに、文化的な象徴を作る、これが、他の動物とは違う、人間の大きな特徴です。この象徴的な文化は、人間の社会を効率化させる、人間の生活を豊かにするものであると同時に、人間の生活を制限したり、生物として生きていくことの障害になったりもする、そういう側面もあります。

芸術や宗教などの精神文化は、生物として生きていくためには、たぶん不必要ですし、むしろ、コストがかかります。けれども、音楽は心を豊かにしてくれるものですし、宗教は生きることに意味を与えてくれます。日本では宗教があまり一般化していない社会ですが、もうすこし身近な宗教的行為は、先ほどの占いです。

たとえば、星占いというのもありますね。たぶん、特に女子が好きそうですが、絶対に信じてはいないけど、なんだか気になる、という人が多いかなと思います。今月の乙女座は、努力すれば夢が叶うチャンスです、諦めずに頑張りましょう、などと書いてあったりすると、努力して頑張るときに、背中を押してくれます。けれども、今月の山羊座は、慎重に、チャンスは来月以降にやってくるでしょう、という言葉を信じて、チャンスを逃してしまうかもしれません。占いを信じることの弊害はあります。宗教の弊害については、無宗教文化がマジョリティである日本人のほうが、良く知っているでしょう。

占星術は惑星の運動に基づいて計算されます。その計算自体は数学的です。しかし、惑星の引力のような不思議な力が人間の行動に影響を及ぼしているかというと、これは科学的な根拠がありません。科学的な根拠がないのに科学のふりをすれば、それはニセ科学疑似科学です。

けれども、人類学では、疑似科学ではあっても、その文化の中では意味があって、生活に役立っているのであれば、悪いものではない、近代科学のような普遍性はないけれども、それぞれの民族の社会では役に立っている、そういうものを、民族科学と呼んだりします。いろいろな文化には、いろいろな民族科学があって、自然科学、近代科学からすれば間違っているものだとしても、むしろその意味を考えましょうと、そういうことで、異文化の理解、自文化の理解になります。さらには、象徴的な世界観を作り、そこに意味を見いださなければ生きていけない、それが人間という動物なのだと、そういう人間理解にもつながります。

それから前半では人類の進化が辿ったルートの話もしました。世界中にはたくさんの文化があります。多様性と共通性がありますが、もともと人類は熱帯アフリカ起源です。それが、南極以外のすべての陸地に広がりました。遺伝的にも変異がありましたし、住む環境に適した文化を発展させてきました。

その生活環境の中には、人間以外の動物や植物との関係もあります。それらの生物たちもまた、おそらく40億年ぐらい前に、地球上のどこかで共通の祖先が誕生し、そこから別れて進化してきたのだと考えられています。四十数億年の歴史の中で、あちこちで生物が何度も発生したわけではないらしいのです。

もっとも、地球以外の惑星、火星や金星にも生物がいるかもしれません。太陽系以外の恒星を回る惑星にも生物がいるかもしれません。というか、いないほうが不自然です。人間のような思考する生物が進化しているかもしれませんし、想像もできないような生物が進化しているかもしれません。そういう生物たちが、もうUFOに乗って地球にやってきているという話もありますし、もうすこし現実的に、電波でやりとりをするのであれば、技術的には可能です。他の星に、抽象的な思考をする生物が進化していたとして、何を考えているのだろう、もし出会ったら、どういうコミュニケーションが可能だろうか、と考えてみるのも面白いことです。未知の民族と出会ったときに、どうやってコミュニケーションをとるか、ということは、自分じしんの思考のプロセスを内省する作業でもあるからで、これは、地球外生命と出会ったときに、どうコミュニケーションをとるか、と同じ話です。

宇宙人類学という言葉もありますが、人類学には、宇宙に広がっていく可能性もあります。

以上が、講義ノートはこれぐらいにしておきます。ディスカッションの掲示板では、今までの授業の全部についてのコメントや質問を受け付けます。最終回ですし、授業とは関係ないことでも、そこは何でもありということで、自由闊達にやりましょう。

講義ノートの内容はこれぐらいにして、さて期末のレポートは、昨年のものとほぼ同じもので、三つの問いかけから二つを選んで、皆さん自身の考えを書いてもらう、という形式ですが、別途お知らせします。教室での試験ではなく、オンラインでのレポート提出という形式になりますが、提出締め切りだけではなく、提出開始日も決めなければなりません。だいたい来週です。いつも教室授業では持ち込みナシで1時間で書いてもらってきた内容ですから、書くのにはそれほど時間はかからないでしょう。

毎年のレポートは、なかなか考えさせられる答案が多く、私じしんも勉強になっています。おそらく今年もそうだと思います。ふだんの授業とは違い、量が多いので、一人ひとりにコメントを返せないのが残念なのですが、それはまた、来年度以降の、後輩たちの授業のために役立てていきます。