www.isc.meiji.ac.jp 承前。縄文時代の精神文化については別の記事で詳しく論じたが、弥生時代以降の文化については論じてこなかった。
水稲耕作に支えられた文化
弥生文化は稲作と関係が深い。
夏王朝以前の黄河文明・長江文明 [*1]
イネの起源については雲南地方だという説もあったが、大規模な水稲耕作は河姆渡文化から良渚文化へとつながる長江文明と結びついている。水稲耕作の伝播ルート[*2]
「照葉樹林文化」[*3]
日本列島への稲作の伝播ルートとして、南西諸島を北上したという可能性は低く、むしろ九世紀ごろに南九州から南西諸島へ稲作農耕民が移住していったという説のほうが有力になってきている。
縄文時代から弥生時代への移行期の年表(新しい説と従来の説の比較)[*4]
弥生時代の開始が従来考えられていたのよりも古く、紀元前800年ごろに遡るとされるようになった。春秋・戦国時代における社会の変動が、弥生人の祖先の日本への移住を促したという定説は見直される必要がある。むしろ、中国大陸における殷(商)から周(西周)への移行期に、中国の東部から韓半島の南部へ、そして北九州から畿内へという、弥生人の移住が起こったと考えられる。
青銅器と祭祀
青銅器文化の伝播[*5]
中国大陸起源の青銅器は、朝鮮半島から日本へと東に伝わり、また華南から東南アジアへと南下した。
ベトナムのドンソン文化(BCE4C~CE1Cごろ)の銅鼓は、その後、東南アジア島嶼部にも伝わり、ゴンやボナンなどの銅鼓を含むガムランへと発展した。
弥生時代中期の青銅祭器の分布(弥生の祭祀から見えてくる近畿政権)
弥生時代以降、北九州から畿内への移住が繰り返し続いたとされるが、銅剣・銅矛は北九州から発展し、銅鐸は畿内より東で発展した。銅剣は武器、銅鐸は楽器だが、いずれも祭祀のために使われたと考えられている。
また弥生文化は南九州でも縄文文化と混じり合いながら独自の発展を遂げ、この文化は本土の平安時代のころ、沖縄のグスク時代のころに南下して沖縄・琉球にも伝わった。日本本土と比べると、奄美・沖縄・先島では、古い弥生的な文化が比較的最近まで残されることとなった。(琉球では縄文時代の遺伝子が多く残されているいっぽうで、琉球諸語は弥生時代以降に日本語と分化したと考えられており、日琉祖語の特徴を残している。)
ウタ
古代の日本列島で特徴的な音楽は、むしろ楽器を使わない「ウタ(歌)」である。日本における最古の文字による記録『万葉集』には、上代以前の多くの和歌が文字として記録されているが、自然との関係においては四季の移り変わりを詠んだ詠物歌 ( えいぶつか )と、人間どうしの関係においては男女が恋人を想う相聞歌と、死者を想う挽歌が多い。
『古事記』『日本書紀』は、より政治的・軍事的な叙事詩という色彩が濃い。世界各地の古代国家における歴史書と同様、王権が神聖な起源を持つことが説明され、父系の場合は父から子へという王権の継承が正統なものであることが説明され、他の政治的勢力との交戦と勝利の正当性が説明される。記紀においても、神聖な王権の後継者である男性が、女性との間に男子をもうける、という記述が続くが、しかし、男性が女性と出会い、情を交わし、女性が出産するといった、性愛と生殖のプロセス自体が、和歌などを交えて叙情詩となっている部分が多い。
琉球の『中山世譜』・『中山世鑑』においては、父から息子への継承の物語の中には、男女の情愛についての記述は少ない。また『おもろさうし』の多くが超自然的・宗教的な内容を歌っているのに対し、同じように巫女による祭祀が行われていた古代日本文学には、宗教的な歌は少ない。琉球における相聞歌としては八重山のトゥバラーマがある。
現代においてもラブソングは歌において主要な位置を占めているが、古代日本におけるウタは、ウタガキ(歌垣)という、妻問いという文化と結びついていたところに特徴がある。妻問いと歌垣と同様の文化は、ヒマラヤのチベット系社会から雲南の少数民族の社会、そして古代の日本に共通している。これは、古代に存在した母系・母方居住婚の社会システムと関連していると考えられている。
アニミズム・シャーマニズム
古代日本における祭祀の対象は、山、森、樹木、岩、水などの自然物であり、自然崇拝・アニミズムが基本である。温暖湿潤な気候の中にも、地震、津波、火山、台風など自然災害の多い土地であり、人間の力ではどうしようもない自然の圧倒的な力に対する畏怖の念が基層にある。
自然物そのものが崇拝の対象なので、人間の形をした神像もほとんど作られない。縄文時代の土偶は、女神像かもしれないし、縄文時代以降の石棒は男根崇拝である。いずれも特定の人物に対する信仰ではなく、生殖力に対する信仰であろう。
中国大陸の漢民族の文化においては、父系出自集団にもとづく祖先崇拝が盛んであり、これはとくに近世以降の琉球で盛んに導入された。中国経由で輸入された仏教も、祖先崇拝という形で受容されてきた。物質世界は常に変化するが、精神世界は永久不変であるという、インド的な無常の概念も、日本では、老いや死という身体的な人生論へと変化し、それはまた春夏秋冬という季節の循環に例えられるようになった。
縄文時代、弥生時代が土器の様式によって定義されているのに対し、古墳時代は古墳という建造物によって特徴づけられている。古墳は主として地域ごとの政治史を解明するための物証として研究されているが、その機能は政治的であると同時に、宗教的でもある。そもそも「マツリゴト(祭)とは政治と宗教の分離していない状態をあらわしている。古墳は上層階級のための宮城でもなく、戦争のための城でもなく、死者のための墓である。生きている人間のためではなく、死者を埋葬するために膨大な労力をかけて作られたことには、相応の意味があったに違いない。 (以下の記事に続く) hirukawa-notes.hatenablog.jp
- CE2026/04/04 JST 作成
- CE2026/07/09 JST 最終更新
蛭川立







