脳の構造(表)
脳の構造(図)
大脳半球の縦断面
視床下部の構造
自律神経とホルモン
hirukawa.hateblo.jp
承前。(昨日の日記)
三日坊主という言葉があるが、日記というものを書くという試みの三日目。
いつも、研究の打合せなど、仕事上の通話は、できるだけ午前中に設定してもらえるよう、頼んでいる。今日は、朝の八時半から、臨死体験の事例の統計的分析について、今後の作業の予定。アラームで起こされた直後なので、気分が悪い。気分が悪いのはよいのだが、明日は火曜日で、四限は人類学の授業で、四限というのは、15時20分…?あれ?17時?といった具合で、細かい数字を考えるのが難しい。以前、午前中に認知機能テストを受けたことを思い出してしまった。
その後は、毎朝の体重測定。オムロンとiPhoneの組合せで、体脂肪率を記録している。睡眠時無呼吸症候群の治療もあって、二年前にはいったん減量をしたのだが、昨年、外出自粛と運動不足もあって、リバウンド。
去年の秋ごろから、また体重を減らし始めている。お菓子を食べないこと、人工甘味料の比較研究、そして、今年度に入ってからは、出勤。
いつも沢山の本といっしょに移動するので、出勤するだけでも、かなりの運動になる。およそ22〜23%ぐらいが、成人男性の体脂肪率の平常値の上限らしい。なんとか正常値の上限あたりまで戻ってきた。
昨日の夜は、ブドウ糖など食べてしまったので、深夜に糖分を摂ると、それが寝ている間に脂肪に変わってしまうらしい。
カーテンを開けると、今朝も天気が良い。ヤマブドウのような植物が生えていたので、葉脈写真解析アプリで読み取ってみると、ヤマゴボウの一種らしい。
朝食は、豆腐と豆乳。箸と箸置きは、タイ製だったか、インドネシア製だったか。食べものに向かい合っても、食べ物を食べることよりも、先に、食器を見てしまったり、世界各地へと意識が移動してしまう、ということに気づけるようになった。
毎朝、最初の一時間に、急ぎのメールに返事をして、これからの計画を書き出すという作業を行ってきたのだが、上記のような文章を書いていると、それだけで一時間以上かかってしまう。いや、この時間の中に食事の時間が算入されていない。
日記実験を始めたのが一昨日で、今日で三日目だが、文章量が多すぎて、見聞きしたことや考えたことを細かく書いていくと、そもそもの仕事の時間が減ってしまう。
大幅に記述を減らしつつ、しかし考察の部分は、別に、研究資料として活用したほうがいい。
さしあたり今日は、明日の人類学の講義ノートを作らなければならない。作るのは楽しいのだが。
朝八時ごろに起きると、だいたい11時ごろに眠気が来る。それ以前に出勤してしまえば、脳は刺激の波に乗っていくが、自宅でじっとしていると、眠気の泥沼に引き込まれていく。このときには、薬物療法が奏効する。中枢神経刺激薬、stimulant、は、いわゆるカテコール酔いを起こす薬である。
モダフィニルを、通常の一錠、100mgを、半分に割って服用する。50mg。モダフィニルは、比較的穏やかな良い薬である。メチルフェニデートは、もっと切れ味が良いが、強すぎる。かつてはリタリンという商品名で、5mg単位で割ることができる錠剤だったのだが、いまはコンサータという徐放剤で、一錠が18mgと決まっており、それ以上に割ることができない。しかも、高価である。ADHDという便宜的な処方だが、発達障害は、社会構築主義的な「病」でもあり、背後には製薬会社の販売促進があることも、主治医は知っている。知っていて、過眠症の患者にADHDという診断名を出している。職人芸である。
こうして日記を書いていると、注意の向き方が変だ、と自覚させられることもある。トレイにお寿司が乗っているのに、お寿司を食べながら、その味を感じずに、トレイに書かれた桜の花に見入っている。これを一種の発達障害だということもできるが、自閉症スペクトラムなどということを言い出せば、すべての人がある程度は自閉症だということになってしまう。こういうことの背景にも、製薬会社の販売戦略がある。製薬会社が悪いわけではない。高価なコストをかけて作った薬は売らなければならないし、それを飲んで救われる人が確実にいるからだ。
私の書いている文章も、どこか文脈がおかしい。自閉症児は、人と、差し障りのない話をするのが苦手だという。その治療薬の候補として上がっているのが、オキシトシンである。オキシトシンは、日本では医薬品ではないので、アメリカなどから個人輸入できる。学生さんたち数名に声をかけて、オキシトシンとプラセボを点鼻薬の瓶に入れて、比較試験を行ったことがある。個々人が個人輸入、個人消費するかぎりは、合法である。本人にはわからないようにして、純水を入れた瓶を用意し、区別できないようにして、ランダムに使ってもらう。私じしんは、二つの瓶のどちらを吸っても、サッパリ効き目が感じられなかった。効いたという学生さんに聞くと、話し相手が自分に敵意を持っているのではないか、という感覚が減ったのだという。
オキシトシンは、信頼の物質とも言われる。なるほど、私は、とくだん他人には敵意を感じないので、だから効かなかったのだろう。
12時のメッセージが来た。講義ノートの原案執筆も、ひと息。モダフィニル50mgはしばらく効いたが、やがて眠気がやってきて、すこし意識を失った。薬を飲んで眠気を覚まそうとしたが、止めた。刺激薬を飲んで交感神経が上がりすぎて、そしてフルニトラゼパムで抑えるという、これはかなり悪い組合せなのだが、賢明な読者から、ベンゾジアゼピンの使用について警鐘があったので、今日はこれを飲んでいない。日本にいるとわかりにくいが、欧米の基準では、ベンゾジアゼピンは、アルコールやバルビツールと同様の危険ドラッグだと認識されている。
こんにゃく麺シチュー。何度もコショウを振りかけながら食べつづける。食べ物の味よりも、香辛料のほうに敏感である。熱いものは苦手だが、ホットでスパイシーなものに対しては耐性と依存性ができている。それゆえコショウの刺激は幸福を遠ざけると言ったのはラッセルだった。
ラッセルの幸福論と結婚論は、無難なことが書いてあって、面白くない。「書きたい本」よりも「売れる本」を書く経済的必要性があって書かれたのだともいう。この葛藤は、プロの物書きが誰しも抱えている。さて話を戻すと、依存症者には、安心して依存できる居場所が必要だというのなら、香辛料依存症者はどこへ行けばいいのだろうか。インドだろうか。
上げて下げるサイクルというと、何のことやらわからないが、朝、コーヒーを飲み、夜、(酒を)飲みに行く、晩酌をする、というのが、この依存サイクルの典型例である。これは社会に対する前向きな適応であり、この方向の向精神薬は、社会の回転に適応しにくい人を、適応しやすくすると同時に、適応している人を、過適応させてしまう。
向精神薬と薬物依存の話題が多いが、脳と心、物質と精神の関係を、やや危険な自己実験も伴いながら探求していくのに、じつに的確なテーマだからでもあり、こうした薬物は、適切に乗りこなしていくことで、生活は、より早く、より深くなる。これは、自動車、あるいは飛行機、あるいは潜水艦、あるいはロケットのようなものであり、相応の知識と経験が必要となる。潜水艦やロケットにかんしては、ふつうの意味での生活には不要かもしれないが、内宇宙飛行士の話は、拙著『精神の星座』に書いたとおりなので、繰り返さない。
講義ノートは講義口調なので、じつは日記の本文よりも文章が荒い。あえてそのように書いている。しかし、モニタを凝視しながら、しゃべるように打ち続けるのは、けっこう疲れる。目まいがする。
徹底的に低脂肪にこだわり抜いた疑似ラッシー
ラッシーを一服、と同時に、フルニトラゼパムを0.2mg。これは、1/5錠である。水に溶かして、微調整できるようにした。これは、イギリスにいたときに断薬したときに学んだ。忙しいときには刺激薬や砂糖で上げて、上がりすぎたらフルニトラゼパムの錠剤を放り込むといった乱暴なことを繰り返してきた。フルニトラゼパムを2mg服用するのが当たり前の日々も続いた。このように書くと異常なことのようだが、コーヒーを飲み、酒を飲むほうが乱暴な方法で、その後に開発された医薬品のほうが、ずっとスマートである。(このように書いてまた、コーヒーや酒の、その味や香りを楽しむという側面を無視して、神経系への安全性と効率だけを考えていることに気づく。)
ロンドンでは不眠を訴えただけで精神分析を受けることになってしまい、良い経験になったが、とくだん効果はなかった。しかし、イギリスではベンゾジアゼピンの断薬プログラムがしっかり作られていたので、それには助けられた。ベンゾジアゼピンは、バルビツールやアルコールよりも、ずっと洗練された、革命的な発見であったが、といって漫然と服用しつづけるものでもない。必要なときに使って、不要なときには止める。止めるときにも、ゆっくり減らさないと、反動で墜落する。飛行機の高度をゆっくり下げていって、滑走路に軟着陸させるときの感覚に似ている。管制塔とパイロットとの阿吽の呼吸による共同作業でもある。
逆にまた自分が使っていない薬草や薬物のことにも気づく。上のようなことを書いた割には、酒とタバコと大麻は、ほぼ日本国外で真摯な宗教行為として合法的にしか使用したことがなく、私にとっては、アヤワスカと同じぐらい、日常から遠くにある、聖なるものである。逆に、世俗の世界で嗜好品として使ってはいけないものだという宗教的観念も持っている。コーヒーも十年ぐらい飲んでいないような気がする。タバコというものは、南米のシャーマンが使うもの、大麻というのは、ヒンドゥー寺院でいただくもの、酒というのはモンゴルや沖縄の宗教儀礼で用いられるものだというイメージを持ちつづけてきた。だから、日本でタバコを吸っている人を見ると、アヤワスカの茶会を妨害する邪悪な精霊を追い払ってくれている人のように見えてしまう。
私が見ている世界は、かなり普通ではないのかもしれない。また、そういう離人感を感じる。その理由は、私に「自明性の喪失」のような精神障害があるというよりは、単純に、海外での体験が多いということがあるだろう。今まで、アフリカから東欧にかけてのエリア以外を、浅く広く移動しながら暮らしてきたので、そのことで視野が広がったし、均質性の高い日本の社会とのズレがおこりやすいのだろう。もっとも、均質性の高い日本の社会に違和感があったからこそ、外へ出ていったということでもあるし、また日本に戻ってきて、日本だけで暮らしていたのではわからなかった、日本文化の美しさについてもよく体感できるようになった。
食生活日記として書きはじめたところが、断薬日記になってきた。こちらのほうが、他人に見られているという感覚があったほうがやりやすい。
食生活の改善の前に、健康診断にも行かなければ。昨年度はキャンセルだったので、二年ぶりになる。
四時からは、また学生さんとの打合せ。なんと今朝の打合せのときには、最初は布団の中にいたが、音声だけだった。次は画像つきなので、上半身だけ、まともな服装に変身する。
7時。昼食と同じ。それにはとくだん問題はない。禅寺では、一つには功の多少を測りその来所を計るという。原材料動植物から口に入るまでの長い経路を観想すれば、生態系の一部として今ここで食物が喉を通り、また吐息と排泄物が生態系へと還っていくことの神秘的奇跡の流れの中にいると解る。
大学生のときに睡眠発作で倒れたときに運ばれ、お世話になった京都大学病院ポーチに常備薬を入れている
食事よりも、薬のほうがはるかに問題があるということに気づいた。食べのものの詳細な写真を撮っている場合ではないかもしれない。いつの間にか、フルニトラゼパムを0.5mg飲んでいた。もっとも、何も考えずに常用していたときの四分の一に減っている。日記を書くのは、無意識の薬物依存からの更生に役立つ。
毎食後三回、などと指定されている薬を、その意図どおり、六時間おきに飲んだりはしてこなかった。というのも、食事の時間がはっきりしなかったからである。
アルコールのような、人生を壊す危険ドラッグには手を出さない、などと理念的なことを言っている割には、ベンゾジアゼピンを日常的なサプリメントのように常用していることに気づいた。ここでも常識との逆転が起こっていた。ふつうは、コーヒーや酒や、あるいは自然物由来のサプリメントは自然だから、まあ安全なものだと思われていて、医者から処方されるような人工的な薬は、どこか不自然で体に悪いと思われるのかもしれないが、私は、アルコールやカフェインのほうが原始的で野蛮なものであり、研究の蓄積の上に発明されてきたベンゾジアゼピンや新規中枢刺激薬のほうがより洗練されていて副作用も少なく安全だと考えていたところがあるし、じっさい、それは間違いではない。ただ、より洗練されているからといって、その作用機序を知っているからといって、慢心してはいけない。日常的な嗜好品のように無意識に飲み続けるのも良くない。
昨日は帰宅が遅く、疲れていたので、お風呂に入らないまま、寝てしまったことも思い出した。シャワーを浴びてスッキリする。
「10時です。今日できることは、明日やりましょう」というメッセージが来る。授業の準備は、自分の知識の整理にもなり、楽しいが、そろそろ脳を休めたい。
最後にコーヒーを飲んだ記憶は、七年ばかり前、ブリスベンで、友人と、うっかりラマダンの日に外出してしまって、なにか飲食店を探し、それからエチオピア系難民の街に迷い込み、本物のカフェに入ったときだった、と思い出した。本物のカフェーの本物の女給さんは、じつにエチオピアの巫女だった。茹でたコーヒー豆を、いったん祭壇に捧げてから、湯を入れて客に供していた。コーヒーもまた茶会であり、真摯な宗教行為だと知った。
精緻に合成された薬物は近代科学の粋だが、植物はソバージュである。レヴィ=ストロースが逆説的な意味で「野蛮」と呼んで尊敬したものである。つまり植物もまた物質にすぎないが、その土地のその文化の祈りの文脈の中でこそ、精霊の住処となる。
その後、コーヒーはチャと共に、覚醒の帝国による植民地支配のプランテーションと化し、精霊は抜き取られてしまった。そういえば、昨日は、来訪した学生さんと、神戸の上島忠雄商店のことを語り合った。
「11時です。光を落としてメラトニンを合成してください」というメッセージが来る。脳は、暗くなると眠くなるはずなので、電源を落とし、部屋を暗くして横になることにする。
光はまた明日、やってくる。ブラジルのサント・ダイミ教会では、力を与えよ光を与えよ、蔓は力で葉は光、と歌われるが、蔓とはアヤワスカのことであり、葉とは、コーヒーのことではなく、同じアカネ科のチャクルーナのことである。チャクルーナこそが、光をもたらす覚醒剤である。
昨日は、日記というものを書いてみた。日記というのは、食べものの写真をアップして、それにコメントをつけたりするものが多いが、これはまた、日々の栄養管理という意味も持つ。
昨日の日記を見返してみて、改善可能な、いくつかの問題を見出した。
アラームに反論するような形で、Siriに向かって大きな声で話しかけてみる。なにかというと、わかりません、と言うので、会話が成り立たない。何かの話題を出すと、Googleのように、Web検索結果を出してくるばかりで、会話が止まってしまう。
つまり、Siriは、ELIZAのような、クライエント中心の会話プログラムではないのだ。他に、面白そうなアプリを探してみようと思う。
またAIとの会話について書いてしまったが、じっさいの生活でも、人間どうしのコミュニケーションはたくさんある。外出自粛になって、リアルな対面コミュニケーションは、だいぶ減ってしまい、生活は不自然になった。
食べものと違って、しかし、人間どうしのコミュニケーションについては、気軽に写真に撮って報告できることばかりとは限らない。自分はよくても、相手が望まないかもしれない。相手の許諾をとれば確実だが、そんなことをしていると面倒になってしまう。それで、日記には人間の登場が減る。あるいは、匿名性を高めればよいのだろうか。
朝食。自省してみたが、たしかに食べている最中に、食べ物の味を感じているというよりも、別のことを考えている。食べものの写真を撮るときには、構図などを考えているが、取り終わって食べているときには、もう別のことを考えている。食べているときぐらい、食べものに向き合いたいものである。水と塩以外のほとんどが、動植物(その一部分)である。
食事の写真を撮り続けていると、コンビニやスーパーのお惣菜が多いということに気づく。そのことに対して不満を言っているわけではない。味よりも、パッケージばかり見ていたりする。食品添加物等、将来的な健康のことまでは、わからない。血圧が上がってきたのは、遺伝的な体質、年齢、あるいは、塩分のとりすぎかもそれない。
DMTについての英文論文の和訳作業を続けているときには、ひたすら牛乳とチョコレートばかりというときもあったが、なにしろ、孤独な闘いであった。学者や医者など、専門家の協力者が出てこない。何十人かの専門家の知り合いに問い合わせてみたが、まずは「忙しい」という返事が多い。日本語の「忙しい」の意味はとりづらい。
上記のような可能性が充分にあると考えた。とくに1と3の可能性については悩まされた。
1については、何度も自問した。3については、改善の余地がある。どう改善すればいいのだろうか。自分の欠点は、自分ではわかりにくい。日々、贅沢な遊びもせず、やるべきことに対しては努力し、それなりの才能と学識を活かしている。人には親切にしている、すくなくとも、私利のために人を搾取したりはしていない。いや、利害の取引ではない。そもそも、自分の仕事が創造的であるように心がけてきたつもりだ。二人の人間が協力したら、その和が二ではなく、三以上になるように。それが、創造的である。そう考えているのだが、なぜか、人望が足りない。ずっと一人で、片手に食物を、片手にマウスを握りながら、しばしば、孤独感を感じた。孤独というよりは、不条理である。なぜ、この作業の重要さと興味深さが理解されないのだろう。興味を示す人はいても、ともに作業をしようという人は、ほとんどいない。誰かといっしょに食事をするのは、感染症対策としては、避けたほうがいいし、それは問題ではない。そこの孤独を訴え、同情を買おうとは思わない。誰かといっしょに作業がしたい。ところが、ときに協力できる仲間が見つかっても、なぜか、関西の人ばかりで、東京近郊には、ほとんどいない。
しかし、この便利で豊かな生活は、誰が支えてくれているかというと、たくさんの人に支えられている。食べものにしても、おおもとは、犠牲になってくれた動植物たち、農家の人たち、食品会社の人たち。コンビニの定員さんなどは、海外から来ている人も増えた。
愚痴が長くなった。さしあたりは、上記2の可能性を中心に考えることにした。そもそも、作業自体は、生化学から心理学まで、とても面白い内容ばかりで、知的な視野も広がるし、臨床的な可能性も広がる。困った人たちを助けることにもなる(困っていない人も、もっと楽しくなる?)というのは、大きな励みになった。
ショ糖やブドウ糖は、疲れた脳に急速な刺激を与えるが、そればかりでは、栄養のバランスが悪い。余計な体脂肪は、緊急事態で戦うために備蓄されている。
来年度から大学院生の受入を再開したいと考えているのだが、そのための書類の返送も忘れていた。急いで返信しなければならない。
眠気と倦怠感を除去するために、モダフィニルを飲む。一錠は100mgなのだが、慎重に半分に割って、50mgにする。
残り半分のドーパミンの放出については、薬物療法とは違うアプローチを試みる。今日は日曜日なので、『月月火水木金金』を聞きながら出勤する。もとより戦争や軍隊といったものは好きではないし。近代日本が行ってきた戦争が国土を守るためではなく、もっぱら侵略戦争であったと教科書には書いてあった。公平を期すなら、近代のイギリスが行ってきた戦争が、もっぱら侵略戦争であったことも併記しておきたい。これは、ロンドンに住んでいたときに学んだ。
意識のはたらきは、すぐに、今ここを離れてしまう。無論、記憶力と想像力は、我らに天賦の脳力だ。歴史学者などは、過去をリアルにするプロフェッショナルである。
電車に乗る。日曜日に出勤するなど、不要不急の迷惑行為なのではないか?という超自我の忠告もあったが、意外に電車は満員で、しかも幸せそうな人たちが多い。平日の昼間のほうが、電車は空いている。
コンビニで買った食品を食しながら、ハーグ条約や日本とブラジルの交易の歴史など(専門外の分野なのだが)を調べているうちに、うっかり制限時刻の23時になってしまい、慌てて大学を出る。食事をした時間もよくわからなくなっていたが、だいたい18時から19時ごろだった。そこで、いわゆる昼食を食べていなかったことに気づいた。
食べる時間も、食べものの味を忘れてしまっている。テアニンとGABAが入っているチョコレートも一個だけ食べた。テアニンの程よい鎮静作用については、国立精神・神経医療研究センター病院で治験が進んでいると聞いたのは二年前だぅた。
ちょうどベイトソンの『Steps to an Ecology of Mind(精神の生態学)』が届いたところで、だからコンビニに立ち寄った。レジで本を受け取らないと、月曜日までに送り返されてしまうというメールが来ていたのを、忘れかけていた。
「自己のサイバネティクス、アルコール依存症の理論」には、アルコール依存症の個人などいない、アルコール依存症の家族がいるだけだ、という、人口に膾炙した言葉があるが、その家族システム論は、精神分析の影響と、アメリカのプロテスタンティズムの影響があり、もはや現代の日本には通用しないところが多いと思う。
しかし、あらゆる「酔い」、原文ではintoxicationであるが、アルコールだけが悪者なのではない。ブドウ糖にも依存性があり、しかも依存症という個人はいないので、個人ではどうしようもない。日本社会は、社会全体がアルコール依存に傾いているので、それも含めたシステム論であり、これはアメリカ白人社会とはスケールが違う。
松本俊彦の最新の著作、誰がために医者はいる、によれば、依存症は治療できないし、する必要がないとあった。依存症になるのは、彼の意志が弱いからではない。そもそも意思が強ければ依存症にはならない。ただ患者に必要なのは、安心して依存できる場所なのだという。では、安心して依存できる場所は、どこだろうと考えてみるが、それは、予測不能な状況の中で、刻々と運動しつづける状況なのだろうなと思う。クロニンジャーのTCIでは、NS(新奇性追求)の値が高かったが、それも、じつはドーパミン依存症かもしれない。
アルコールや薬物(とくにコカイン)依存症を治療するのに、アヤワスカ茶が著効だということは、知人がペルーの病院で働いているので、知っていたが、定量的研究は、裁判に関わる中で、ブラジル在住の医療人類学者から教わった(→「京都アヤワスカ茶会裁判:弁護側から検察側に提出された論文」)。この論文もまた英語で、和訳には苦労した。
検察側に提出した和訳論文の監訳者として、蛭川立の名前しかなかったが、ほんとうは、刑事裁判であることもあって、ここでは名前を書けないのだが、ひとりの教養ある女性が八割がたの和訳原案を作ってくれたし、専門用語も含めて、日本語の文章として正確であり、ほぼ手直しする必要はなかった。彼女は、アヤワスカ茶がなぜ依存症を改善するのかについて、かなり正確な知識を持っていたからである。また、もうひとりの、アヤワスカ茶についての知識はあまりないが、細かい作業が得意というか、緻密な作業の得意な女性が、図表の切り貼り作業をほとんど行ってくれた。孤独だ、不条理だと文句を言ってしまったのは、じつは自己中心的な認知の歪みであって、けっこう、他人には甘えている。
なるほど監訳者というのは、最終的に責任を負うことであり、しかも、先日の公判では、すべての提出論文が「不同意」となり、あっさり却下された。投稿論文がリジェクトされたことよりも、意味不明で、本当に情けなかった。
けれども、たとえば翻訳作業を共に作業できる仲間はいるし、そこにも安心して依存できる場所はあるのだと思う。素直に感謝したい。
・Gerald, Thomas, Philippe Lucas, N. Rielle Capler, Kenneth W. Tupper, and Gina Martin. (2013). Ayahuasca-assisted therapy for addiction: Results from a preliminary observational study in Canada. Current Drug Abuse Reviews, 6(1), 30-42.
であればこそ、すくなくとも医療目的で、アヤワスカ茶が早く合法化されることを望みたいし、そうすると、やはり「京都アヤワスカ茶会裁判」という公的な場で、精神に異常をきたすドラッグだとか、それが暴力団の資金源になっているといった、誤解は解かれなければならない。
また、寝食を忘れてしまい、文章が日記ではなくなってしまった。そして、睡眠。
食べものの話題を中心に、日記というものを書いてみる、という作業を、今日も続けることにする。
何も薬は飲まずに起き上がり、9時から10時まで、ブライトライトの光療法。
とりあえずは、低脂肪牛乳にゼロカロリーコーラをすこし混ぜたものを一服。オーストラリアに住んでいたときに、このような配合の飲み物を飲むようになり、以来、習慣になっている。文字に書くことは、無意識の習慣の意識化である。
カロリーゼロ、という表示につられて、カフェインもゼロなのだろうと思っていたが、本当なのだろうかと、あらためて成分表を見ると、カフェインが入っていると書かれている。これは、無意識に行ってこなかった作業を、意識的に行うことである。カフェインは、個人的には体質に合わない。胃に悪い。動悸がする。食に対して意識的になると、こうやって成分表などを見て、あらためて成分を確認できたりする。
それから、国立精神・神経医療研究センター方式の睡眠日誌をつける。ここ数日、忙しい忙しいと、記録をつけ忘れていた。
ブライトライトの光を浴びながら、しめ鯖を食べる。
これが朝食。
朝食と言えば、ご飯かパンか、というのが、ふつうの選択だろうか。以前、ハワイ島に滞在していたときに、民宿のような宿だったが、朝、白人のおばあさんが出てきて、パンはどんな種類がいいか、卵は目玉焼きか、スクランブルか、ゆで卵か、ゆで卵なら、半熟か、ハードボイルドか、云々と、延々と選択肢を並べ続けたのを思い出す。選択肢を示して、個人の自由意志によって、自由に選択してもらう、これが白人の文化だ。「お薦めをお願いします」という文化ではない。しかし、ジュースはリンゴかミカンか、など、そもそもの選択肢が限られているのだから、まあ、そんな細かい違いは、どうでもいいだろう、お互い、時間の無駄でしょう?と、反論してしまうこともある。
ここで、また何年も過去のことを書いてしまったが、このことは、たんに私的な経験にとどまらない、西欧文化における自由と選択という概念について考えさせてくれるテーマだとも思う。
ともあれ、朝食にしめ鯖を食べてもいいのである。これもまた個人の選択である。
スマホ看護師さんが「10時です。人工光治療は終わりです。食後の薬を飲んでください」と言う。これは、服薬をわすれないためには、便利なアプリだが「指伝話ぽっぽ」という。
アラーム機能のアプリは多いが、ユーザーが入力した言葉を、一日に何回か再生することができるアプリは少ない。この「指伝話ぽっぽ」しか知らない。ただ、声が二種類の女声しか選べないのが難点ではある。(他に良いアプリがあれば教えていただきたい。)
オロバタジン、ラモトリギン、その他、ビタミン剤など、サプリを数種、服用。
ラモトリギンは、抗てんかん薬であり、また双極性障害の発症を防止する作用もあるという。飲んでもとくに何の効き目も感じないが、医師の説明によると、病気の発症を抑えるのだという。大学生のときに、てんかんのようなけいれん発作を起こしたことがあるが、脳波検査の結果、てんかんではないと診断された。
躁うつ病だとか、双極性障害だとか診断されたこともあるが、わけもなく気分が落ち込むことなどないし、ただ、ひたすら眠くなることがあるので、特発性過眠症という診断名をもらっている。ときどきテンションが上がって、やはり自分は天才なのではないだろうかと思うこともあるが、そんなものは、せいぜい発揚気質なだけで、およそ躁病といえるほどの異常はない、と笑われたこともあった。え?本当に天才でしょう?と笑われたこともあった。
自分の書いた文章を、自虐的に「観念奔逸」だと書いたこともある。査読をした精神病理学の先生から、そういう、ビンスワンガー的ジャーゴンを、素人が安易に使うべきではない、と、厳しく指摘された。先生によれば、病的な妄想には、実在しない人格や組織があらわれたり、明らかな論理的破綻があるもので、それは臨床現場で長く経験を積んだものだけが、直感的に判断できるようになるのだという。
オロバタジンは、抗アレルギー薬だが、この種の薬は、もう三年ほど飲み続けている。毎年、三月、四月に悩まされてきたスギ花粉症が、ピタリとおさまった。
神経系の疾患やそれを治療する薬物の話になると、無駄に饒舌になってしまう。日記というのは、その日にあったことを書くもので、昨日以前にあったことや、一般的な知識のうち、すでに書いたことについては、その記事にリンクを貼ればいい(→「過眠症」)
朝起きた後、11時ぐらいに、眠気がやってくる。これ以前の時間に出勤すると、そうはならないのだが、家で椅子に座ってPCを打ち続けていると、作業が単調なせいか、だんだん脳の回転が遅くなってくる。
モダフィニルを1錠、100mg服用する。特発性過眠症という診断名に対して処方されている。これを服用すると、一時間後ぐらいには、眠気がましになるが、長続きしない。
ほとんど誰も読まないだろうと思いつつも、読者の反応も気にしてしまう。私じしんは、いつも、数百人ぐらいは読むであろう原稿を書くのを生業にしているので、やはり、数百人ぐらいの読者を想定してしまう。そして、校正のことも考えてしまい、文章を書く速度が落ちてしまう。
講義ノートも書かなければならない。いや、勉強しながら書くのは楽しい。陰謀論についても加筆修正したい(→「妄想と陰謀論」)。しばしば陰謀論にとらわれると、国家的な悪の組織や、国際的な陰謀によって狙われているとか、監視されているとかいった、被害妄想が出てくる。被害妄想は、誇大妄想と表裏一体である。なぜなら、かりに巨大な悪の組織や陰謀があったとしても、凡俗な個人の行動を監視するほどの暇はないのである。妄想の背後には、自分が国際組織に狙われるほど重要な人物だというスケールの錯誤があり、これに気づくだけでも、妄想は軽減する。いっしゅの認知療法である。
睡眠障害改善プログラムで入院していた病院で、片脚を上げたまま、奇妙な格好をして固まっている、統合失調症かと思われる人と出会った。訊けば、自分が勢いよく足を下ろして、地面を強く踏むと、大地震が起こってしまうので、だから、ゆっくり、そっと足を降ろす必要があるのだという。2011年にも、大きな地震が起こったのは、自分が階段を勢いよく降りたからだったのかもしれないとも言っていた。日本人を抹殺するための秘密結社が、海中に爆弾を埋め込んだのだと、そんな陰謀論もあると、これはロンドンで聞いた。これらの話が、絶対に間違いだとはいえないが、ドーパミン受容体拮抗薬を服用すると、妄想的観念の重みがだいぶ楽になるらしい。
精神病的な幻覚・妄想は、ドーパミンの過剰と関係がある。これは、日記に書くことではない。この部分は、切り取って、妄想についての記事に加筆しよう。
朝食から昼食までの間、どれぐらいの仕事をしただろうかと振り返ると、書類をすこし書いただけである。メールの返信もできていない。もしメールの送り手が、この記事を読んでいたら、こんな半分ぐらい無意味な記事を書いている暇があれば、早く返信をしてほしい、と思っていたら、どうしよう。もう、日記など書くのはやめようか、とも思うが、ほとんどの人、たとえば職場の同僚などが、こんなものは読んでいないだろうとも思う。みな、忙しいのだ。あるいは、土日は、仕事を止めて、家族とゆっくり過ごすと決めているかもしれない。
そういえば、研究室の本も整理しなければならない。研究室であふれかえっている本たちを、自宅に郵送するために、自宅にある、空のミカン箱を解体し、出勤のときに、持っていくことにする。
それはともあれ、昼食である。朝食は起床後に食べることにしているが、昼食の時間は、なぜ12時と決まっていることが多いのだろうか。たとえば会社で集団で働いている場合、昼休みの時間を決めなければ都合が悪い。学校でも同じだ。
カップ麺など食べていると健康に悪いのではないか、という、超自我からの声が聞こえてきそうなので、サバの水煮も加えてみる。最近は主治医の助言もあって、肉の脂よりも魚の脂、とくにサバやサンマにDHAやEPAというω-3脂肪酸が入っていて、これは肥満の原因にはならず、むしろ脳の栄養になるのだという。DHAはサプリも飲んでいる。
驚きといえば、たかがカップ麺、されどカップ麺である。全体が薄いビニールで包まれいて、中を開けると、さらに麺と調味料が別々の袋に入っている。これは日本文化の強迫的な性質が大きく進歩した結果であり、他の民族には、なかなか真似のできないものである。もっとも、今時は、スーパーのレジ袋でも省略するのが資源の無駄遣いを避けることになるという時世である。それに対する逆行かもしれない。ただ、さらに時局的なことをいえば、この、食品を個別に包装するという文化が、唾液などに含まれているウイルスの感染の確率を大きく下げるという良い面もあるのだろうと思う。
四川料理は好物なのだが、同時に2003年に四川省の屋台で食べた料理で食中毒になったことを思い出す。いや、あのときは、呼吸器系の症状と、発熱も伴っていたから、あるいは、SARS、つまり旧型コロナウイルス感染症に罹患した可能性もある。それは未だに謎のままだが、SARSで自然治癒して獲得された抗体が、新型コロナウイルス感染症のワクチン開発につながるというNatureの記事を読み、東大の児玉先生の抗体検査グループにコンタクトをとったものだったが、もし本当なら、きわめて貴重なことであり、慎重に検討させてほしい、という回答を受けとったきりである。
このSARSのことを書きはじめると、また長くなってしまう。変異株だとか、第二波だとかいうが、いま流行しているSARS-CoV-2は、2003年に流行したSARS-CoVの変異株、同種異株なのである。それは、雲南のコウモリに由来する。雲南のコウモリに、原因を解明し、問題を解決する鍵がある。この問題を解決しなければ、また二十年後ぐらいに、同じ病気の流行が繰り返されてしまう、と、ずっと訴え続けているが、そもそも、誰に訴えればいいのかも、よくわからない。さしあたり、こういうことも、日記に書くことではなかろう。(→「2003年、SARS流行下、中国での調査記録」)
日本でのCOVID-19の流行状況については、2020年7月の時点では、流行は終息しつつある、7月に入って新規感染者数が増えているようにみえるのは、検査数の増加による影響が大きいと、楽観的な状況分析をしていた。5月のピーク時の死亡者数は、日本では30名/日程度で、現在の50名/日は、それを超えており、おそらく結核より一桁多く、自殺者数と同程度である。ここ10年間単調減少しつづけた自殺者数は、2020年には、やや増加に転じた。自殺者数は、交絡変数は不明ながら、失業率と高い相関を示す。
指伝話は、時間だけでなく、発話の曜日も設定できる。デフォルトだと毎日になってしまうので、金曜日だけに設定する。大学での会議も、議題によって、建物の中で行ったり、zoomで行ったり、言ったり来たりで、試行錯誤である。感染症の流行は自然現象のようで、人間の活動とつねに負のフィードバック関係にあるので、意思決定が難しい、というか、不可能である。
三時のおやつという言葉もある。マスカット味で実際にはアスパルテームが使われているゼリーをひとつ。
砂糖のとりすぎも良くないが、人工甘味料も体に悪いのでは?という、意識の高い読者の声も聞こえてくる。正確なエビデンスは知らないが、アスパルテームに発ガン性があると聞いたことがある。しかし、ガンには遺伝的な要素が大きいので、遺伝の部分も知る必要がある。そういえば、血族にガンの人が少ないが、ジーンライフでゲノムを調べたかぎりは(→「個人向け遺伝子解析」)アスパルテームに対する発ガン性が高い変異だという結果が出ていた。しかし、発病率は1.2倍ぐらいであったと思う。こういう曖昧な数字を書いてもいいや、と割り切れないと、日記は書けない。
Siriに八つ当たりをする。
何を聞いても、「すみません」ばかりであるが、何かというと「すみません」というのも、こなれた日本語である。何かを聞かれたら、相手の発話の単語を拾い出して、ほぼ同じ文章を返す。これがELIZA以来の人工無能のアルゴリズムだが、Siriはこれを学ばなかったようだ。
「今日は雨ですね」
「そうですね。今日は雨ですね」
「散歩に行けません。残念です」
「そうですね。散歩に行けませんね。残念ですね」
といったプログラムは、簡単に書ける。私じしんも、1987年には、ELIZAを模した人工無能を作ったものだった。
こういう会話で、雨、晴れ、暑い、気温、などのキーワードを拾い出して、天気予報を呼び出すようなアルゴリズムも簡単にできるはずだ。
「今日は雨ですね」
「そうですね。今日は雨ですね。でも、明日は晴れそうですよ」
といった会話は、簡単にできるはずだ。
ELIZAは、じっさいにはロジャース派のパロディだという。クライエントの言うことを、そのまま返しながら、肯定するだけで、けっこうな癒しになるのである。
無茶を言いすぎただろうか。「そういうアシスタントに私はなりたい」らしい。カリフォルニア生まれらしいが、多言語対応であり、宮澤賢治も読んでいるらしい。
iPhoneの画面を見ると、未読メールが400を超えている。いつも三桁の数字が出ているのだが、これに見慣れてしまうのは良くない。未返信メールが多数あるということが、日常になってはいけない。しかし、今日は、土曜日で、ひと息ついているのだし、仕事そのものよりは、生活時間の割り振りかたを考えている。
健康のことを考えると、医学のことを考えたくなり、医学のことを考えると、精神医学のことを考えたくなってしまう。睡眠障害で困っているのだが、これは神経疾患なのかもしれないが、分類上は、精神科が扱っている。
ほかに関心があるのは、やはり天文学である。メールの着信が多いのは、天文学会のメーリングリストが多いからだ。そういえば、天文学会の会費を払い忘れていて、払ったのだが、こんどは追徴金の請求が来た。これは、まだ払っていない。
iPhoneの背景は、おとめ座超銀河団の近辺の銀河の分布にしている。Local Group、つまり我々がいまいる場所は、けっこうローカルな場所である。スマホの背景画面を見ると、ときどき、パスカル的な畏怖の念を感じる。
また、ライフログという考えかたもあるという。
たった一度の人生を記録しなさい 自分を整理・再発見するライフログ入門
- 作者:五藤隆介
- 発売日: 2011/09/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
たった一度の人生なのか、と思う。数十年の時間をすべて録画しても、解像度を下げて圧縮すれば、どれほどのファイル容量になるだろうかと考えるが、計算するまでもなく、意外に低容量だろうと思う。23andMe社から受けとった、100万塩基対のSNPも、ほんの少量のテキストファイルとして保存してある。
ネット上を検索すると、毎日日記をつける方法だとか、ブログの記事のネタ探しの方法といったものがある。毎日起こったことを文章にすれば、かなり長大になるが、といって内容が豊とも限らないし、テキストがメインなら、ファイル容量はかなり小さい。記事のネタを探してまで書かなければならないのか、とも怪訝に思うが、こと私じしんについては、ものを書くのが仕事なので、むしろ、書き切れないほどのネタがある。そう考えると、わざわざ日記などを書くのは、やはり無駄なことなのか、とも思えてくる。
思考を文字に置きかえていくと、文章は長くなるが、思考ではなく、いま起こっていること、それも、栄養学的自省のために、食べものに特化した記録を書くという試みだった。ほかは、別の記事として書きたい。
ウイキョウをひと口。インド的口直し。
それから、日々のサプリメント。
これは、日によって、飲み忘れたり、適当に変動する。
午後七時から午後八時にかけて、夕食。
右上が鯖寿司
鯖寿司のトレイ
日本では、寿司は精神性の高い食べものだと考えられている。そこには、生の海生動物、というテーマがある。ここでは、レヴィ=ストロースの神話論理の始まりである『生のものと火にかけたもの』と、要素が逆転している。私には未だにその意味がわからない。
スーパーで売っているお惣菜であっても、決してコストが安いだけではない。なぜなら、トレイには伝統的な日本画の手法で、この春の弥生を、また日本文化全体を象徴するサクラの花が描かれている。これをデザインしたアーティストにも、過剰な人件費を支払っているはずだ。美は過剰である。トレイに絵が描いてなくても、寿司の味自体が減るわけではない。けれども、その美に対するコストは節約していない。(ただし、299円という価格設定は、日本の伝統美ではない。もう一歩下がって、298円とすべきだろう。)
ここまで行き届いた、繊細な美意識が、トレイにもあったとは、いったんイギリスに行って帰国するまで、気づかなかった。気づかないほど身近に、繊細な美に囲まれて生きてきたのだ、と思う。日本人は宗教心に薄いと言われるが、その精神性は、むしろ芸術の方面で繊細さを洗練させてきた。超越論的ではない、花鳥風月に宇宙の摂理を見出す、精神性である。
食後の薬は、朝食後と同様、ラモトリギンとオロバタジンを一錠ずつ。
12時間以上の時間をかけて、日記というものを書こうとしたら、読みにくくなるほど、長くなってしまった。ふだん、大学での人類学の講義は、こんな内容を、この三倍ぐらいの量を、百分かけて話している。それで、何百人も受講生が集まってくる。楽勝科目だと思われているという側面もあるのだろうが。
指伝話は、今夜できることは、明朝やりましょう。メラトニンを合成するために、液晶画面を消しましょう。やむを得ない場合は、ブルーライトをカットするグラスを使いましょう、と提案してくる。これから、液晶画面を落とそうと思う。
先週、初回は全体の展望で終わってしまったが、「脳の中の幽霊」という話はどうなったのだろう。今週は、その話をしたい。
心という、物質ではないものを、物質と同じように、自然科学的な方法で研究する、心理学という学問がいかに成立してきたか。心理学という学問の歴史は、あまり古くない。せいぜい、百年か、二百年である。もともと、ヨーロッパでは、人間の心や魂の問題は、キリスト教などの宗教が扱う問題だったからである。それを、ヨーロッパの近現代史に位置づける(→「『心霊研究』と『超心理学』の科学史」)という議論は、ちょっと抽象的すぎるかもしれない。これは、今週、いま読んでもらってもいいし、質問してもらってもいいが、来週、もっと詳しく扱うことにする。(いっぽう、東アジアではどうかというと、心の問題は、仏教という宗教の中で議論され、独自の発展を遂げた、このことは、また別の機会に論じたい。)
心理学の歴史云々よりも、まずは、もっと具体的なこと、いわゆる超能力、昔のユリ・ゲラーのスプーン曲げ騒動、日本だと清田少年など、今はもう彼も中年だが、これは私が小学生のときに流行ったものだったが、等々「『超能力』と心物問題」を見てもらったほうがよさそうである。
教室授業なら、私がユリ・ゲラー直伝のスプーン曲げを一発、ナマで披露するのが定番だったのだが、昨年に続き、今年も取りやめ。リアルタイム動画配信ならできる?それでは臨場感がない。
なぜかというと、それは見て面白いかもしれないが、以下で議論するように、それが本物かトリックかは、学問的には、本質的ではないからである。
それから、実際に、スプーン曲げをするときには、スプーンは、皆さんのほうから持ってきてもらうか、私が用意したスプーンでも、教室の皆さんに、タネも仕掛けもない、ということを手で触って確認してもらってから、私がそのスプーンを曲げるという手続きを踏むことが必要である。
スプーン曲げやフォーク曲げぐらいなら、YouTubeを検索すれば、いくらでも動画は出てくる。しかし、録画されたものなど、いくらでもトリックができてしまうし、また別のサイトを見れば、ご親切にも、マジックによる、トリックのやり方まで説明してあるページもある。
しかし、この授業では、スプーン曲げは本当に念力で曲げているのか、トリックなのかを暴くことを目的とはしない。そんなことは、上に書いたように、ネット上でさんざん議論されている。ネット上の記事に書いてあることを読めばわかることは、ネット上の記事を読めば良い。大学の授業を受ける必要はない。しかし、大学の授業は、それよりも、もう一歩、学問的に踏み込む。それは「『超能力』と心物問題」の後半に書いたようなことである。
記事の中で何度もしつこく書いているが、心の中で念じただけで、スプーンが曲がれば、超能力だ!不思議現象だ!ということになる。しかし、観客が目をそらした一瞬の間に、思いっきり指に力を入れて、グイッとスプーンを曲げるということも、よくある手品、トリックである。そう聞くと、なーんだ、スプーン曲げなんてトリックだったんだな、で終わってしまう。
けれども、心で念じただけで、指が曲がるのは、不思議ではないのだろうか?いや、とくに念じなくても、指は思い通りに曲がる。あまりにも当たり前すぎて、そんなことさえ意識しないのがふつうだろう。しかし、たとえば、楽器の演奏を練習するとき、ギターでも笛でもピアノでも、そういうときは、意識して指を動かす必要がある。このときに、思った通りに指が曲がるのは、思った通りにスプーンが曲がるのと同じように、不思議なことではないだろうか?
いや、それは、脳の中でニューロンが発火して、その興奮が運動神経を伝わって、指の筋肉が収縮するのだから、どこにも不思議はない、と考えてしまうかもしれないが、では、思ったり念じたりしている心や意識や意志は、どこにあるのだろうか?脳の中にあるのだろうか?もし、脳とは別に、心というものがあるのなら、体が死んで、脳が死んだ後も、心とか魂というものが残るのだろうか?それが幽霊というものだろうか?では、脳の中に、幽霊が住んでいるのだろうか?これが「脳の中の幽霊」というお題の意味である。
大学の授業で、スプーン曲げのことなど扱って、それが学問なのか?と思うかもしれないが、その問いを、論理的に追い詰めていくと、脳と心、物質と精神という、古来からの哲学が論じてきた、そして現代の科学が直面している、普遍的な問題へとたどり着く。スプーン曲げや超能力というのは、話の入り口を面白くするための、議論の入り口にすぎない。先週の掲示板では、この授業を履修した理由として、「不思議現象」という講義名が面白かったから、という理由があったが、まあ、それは、入り口である。
話がどんどん抽象的になって、意味がよくわからないだろうか?
はい、そのために、この授業では、この講義ノートだけでなく、リアルタイムディスカッション掲示板も並行して使うことにした次第。わからないことは、何なりと質問してほしい。
今朝は二年ぷりに体脂肪率が22%を下回った。
睡眠時無呼吸の治療を続ける中で、成人男性の場合だが、正常値と軽度の肥満のカットオフ値を22パーセントと決めた。これは国立精神・神経医療研究センター神経研究所疾病研究第三部で行われていた、脳の栄養学的研究でも採用されていたと記憶しているが、はっきりしない。