初期仏教における戒と律
仏教における戒律は、戒(sIla:行為の規則)と律(vinaya:教団の規則)からなる。
初期仏教の経典の中で、もっとも重要視される『ダンマパダ』の第18章は、死を目前にした人が閻魔王に向き合い、自らの行いを振り返るという内容であり、その中に五戒の原型となる短文がある。
生き物を殺し、虚言(いつわり)を語り、世間において与えられていないものを取り、他人の妻を犯し、穀酒・果実酒に耽溺(ふけりおぼれ)する人は、この世において自分の根本(ねもと)を掘りくずす人である。
『ダンマパダ』(18:246-247)[*1]
この五戒はすべての仏教徒が守るべき戒であり、在家戒はこの五戒からなる。
イズラームにおいては、クルアーンが憲法であり、ハディースが法律であり、さらに宗派ごとの法学者たちの解釈が加わるという体系があるが、上座仏教の演繹的な解釈は、これと構造が同じである。
たとえば、禁じられる性行為が、既婚女性と男性が交わることだけなのか(さらには、男性側のみなのか?)については、解釈が揺れている。出家は全ての性行為を禁ずるというのが一般的である。これを在家にまで適用すれば、仏教徒は子孫を残せないだろう。こうした極端な解釈をゆるすのも、インド系の哲学の特異なところである。
仏教における十戒
出家してビク(僧)になるためには227の出家戒を守らなければならない (この正確な数には異説がいくつかある)。いずれにしても日本仏教ではあまり守られていないが、たとえば原理主義的な色彩の強いタイ仏教ではこれらの遵守が建前になっている。
タイの場合、見習い僧、サーマネーラ(タイ語ではサーマネーン)になるためには十戒を守ればよいが、正式な僧が着る黄衣をまとうことはできず、白衣を着る。
在家者も特別な時期には八戒を守ることを要求されるが、八戒以上 では五戒の不邪淫が不淫、つまりいっさいの性行為の禁止となる。八戒と十戒は僧俗の中間的な立場をあらわしており、その内容も多少入れ替わることもある。
タイでは女がビクニ(尼)になることは許されていないが、メーチーという、尼僧のような人々が存在する。彼女たちもまた八戒ないしは十戒を守り、剃髪はするが白衣を着る。
「酒」と「薬」の間
当時は存在しなかったタバコや覚醒剤(ヤーバー)などについても、アルコールに準ずるものとして禁止するという解釈が一般的である。大麻についても酒と同様と解釈するか、しかし、もともとインドでは瞑想の補助として用いられていたものであり、薬だから禁止の対象外だという解釈もありうる。
なお、日本仏教では酒のことを「般若湯」と呼ぶこともある。また、午後の食事についても「薬食」、つまり薬であると解釈して許容するという慣例がある。さらに「薬食」は、僧侶の性行為を意味することもある。日本の仏教は世襲であることが多いが、これは僧侶の性行為を前提としている。
筆者蛭川じしんの短期出家体験については「タイでの一時出家」に書いた。
とくに、戒律はルサンチマンの投影ではないかという、社会思想の観点からの批判的分析については「宗教とルサンチマン」を参照のこと。
記述の自己評価 ★★★☆☆
(つねに加筆修正中であり未完成の記事です。しかし、記事の後に追記したり、一部を切り取って別の記事にしたり、その結果内容が重複したり、遺伝情報のように動的に変動しつづけるのがハイパーテキストの特徴であり特長だとも考えています。)
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*1:中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波書店, 44. パーリ語原文では、以下のようになる。 (246) Yo pāṇamatipāteti, musāvādañca bhāsati. loke adinnamādiyati, paradārañca gacchati. (247) Surāmerayapānañca, yo naro anuyuñjati. idhevameso lokasmiṃ, mūlaṃ khaṇ ati attano. ( Dhammapada Verses 246, 247 and 248: Panca Upasaka Vatthu 。「surā」は穀物から作られる酒、「meraya」は果実から作られる酒と、区別されている。」