占星術と天文学
科学は、反復される現象の中に法則性を見いだし、その法則を利用して未来を予測することができる。天文学は、そのもっともわかりやすい例のひとつである。太陽は朝になると東の空から昇り、夜が来る前に西の空に沈む。このことが毎日繰り返されることは、おそらく文字による記録が行われるはるか以前から認識されていたに違いない。そして、その繰り返しの法則によって、今日、西の空に沈んだ太陽が、明日にはまた東の空から昇ってくるであろうことを、容易に予測できる。これは、他の天文現象についても同様で、新月が半月かけて満月になり、また半月かけて新月としていったん姿を見せなくなっても、また翌日から満月に向けて満ちていくことを予測することができる。その後、天文学は着実に進歩を遂げ、太陽や月だけでなく、さまざまな天体の運動をきわめて正確に計算し予測できるようになっている。
占星術も、基本的にはこのような科学的思考に起源を持つ。天文学 astronomia と占星術 astrologia はもともと同じ因果性の原理にもとづいた方法論であり、厳密には区別されていなかった。一方、地上では、気温や降水量の変化もまた一年周期で繰り返される。潮の満ち引きは、月が満ち欠けするのと同じ、一ヶ月周期で繰り返される。天文学がもっぱら天体の運動の法則性を探究してきたのに対し、占星術は天上界を支配する法則と、地上界を支配する法則との対応関係を明らかにすることに、より熱心であったという違いはあるかもしれない。太陽と地球の位置関係に対応して、一年周期で気温が上下し、四季が巡ることを研究する分野を、現代では占星術とは言わないが、占星術は基本的にこのような法則性の探究の体系として発展してきたといっていい。占星術は中東世界や中華世界など、世界の各地で発展を遂げるが、それが関心を寄せたのは、季節の変化と同時に、むしろもっと人間的な現象、たとえば国家の運命や人間の心身の状態と天体の運行との相関関係であった。
それゆえ占星術は数千年の蓄積を持った統計学だといわれることがあるが、じっさいに統計学的方法論が育種学などの発展を背景に正確に整備されてきたのは、たかだがここ百年ばかりのことにすぎない。そして、占星術が発展させてきた法則とされる経験則の多くが反証され、現代に至っている。たとえば「生まれ星座」とパーソナリティとの関係という、現在もっともポピュラーに信じられている相関は、たとえばアイゼンクらによる統計的研究によってほほ否定されている。ただし、このことは占星術が非科学的な体系であったことを意味しない。むしろ逆で、明確な手続きによる反証可能性が保障されていることは、ある体系が科学と呼ばれるための、重要な必要条件のひとつだからである。
いわゆる十二星座占いは、二十世紀に入ってから一般的になったもので、それだけを占星術とみなすわけにはいかないが、それ以外の方法論でも、占星術は天文学ほど大きな成功をおさめていない。それは失敗した科学、すなわち呪術にすぎないのだろうか。この問いに対する答えは、呪術というものの定義に依存する。
因果性と共時性
呪術は因果性の原理に基づいており、その論理構造自体は科学と同型である。つまり、占星術を因果性の原理においてとらえるかぎり、それは科学である天文学と、論理的な構造において変わることはない。しかし、フレイザーに代表される古典的な人類学が、因果的な思考のうち、その誤ったものを呪術、正しいものを科学と予め定義してしまったために、それを因果的な体系ととらえるかぎり、定義上、呪術である占星術はつねに間違っているということにならざるをえなくなってしまったのである。
しかし、因果性の原理にもとづいて統計的に均してしまうと埋没しまうのにもかかわらず、それでもある重要な瞬間に意味ありげな付合が起こる(ように思われる)ことがある。占星術師たちは、これを「占星術的瞬間 the momentof astrology」とも呼ぶ。それは、個別的な出来事であるがゆえに、あくまでも個人的な経験の文脈でしか語ることができない。
因果性の原理にもとづいて占星術のメカニズムを無理やり「科学的に」考えようとすると、たとえば惑星の重力が地球上の人間に影響を及ほしている、といった発想になりがちなのだが、月以外の天体の場合、物理学的にみてそのような可能性は低い。重力の到達距離は無限大とはいえ、土星のような遠距離にある小天体が、地球に住む人間の脳に影響を与えている可能性はきわめて低い。やはり占いが当たったように感じるのも、たんなる偶然か、さらにいうならば、一種の関係妄想なのだろうか。人は容易にコールド・リーディングやバーナム効果の罠に嵌ってしまう。それは社会心理学が明らかにしてきたとおりである。
ethicとemic
たとえそうであったとしても、それは意味のある偶然であり、因果性ではなく、むしろ共時性(シンクロニシティ)という視点からみれば、ある世界観 (コスモロジー)の枠組みが用意されるとき、その内部におけるイーミック emic な意味体系の中で、天体の配置と人間の配置との間に、非因果的な「照応 correspondence 」が起こる瞬間がある、と解釈できる。つまり、これはユング心理学的な問題であると同時に、記号論的、構造人類学的なコスモロジーの問題としても捉えなおされなければならない。
西洋の星座と中国の星座[*1]
たとえば、天球を分節する星座は文化によって異なる。それは、たとえば、ヨーロッパにおける星座と、漢民族における星座が異なることをみれば明らかである。漢族社会では北斗七星を「柄杓」と見なしてきたが、ヨーロッパでは同じ北斗七星と周囲の星も含めて「大熊」と見なすらしい。
戦争の象徴は火星か金星か
金星はヨーロッパにおいては平和と結びつくシンボルであり、戦いと結びつくのは火星である。しかし、古代のマヤ文化においては、金星が戦いの象徴であった。天文学と暦法に執拗ともいえるほどの情熱を傾けたのが、インドに先駆けてゼロ記号と位取り表記を発明した古代マヤ文化だった。ユカタン半島北部の都市メリダから、内陸に向かって平らなサバンナの中のまっすぐな一本道をひたすら走り続けたところに、古代マヤの代表的な遺跡のひとつであるチチェン・イッツアがある。西暦五世紀から十二世紀にわたる期間、繁栄と衰退とを繰り返した都市の遺跡である。
チチェン・イッツァには、日本語では「天文台」と呼ばれるドーム状の建造物がある。もちろん中に望遠鏡が入っていたわけではない。建物は半壊しているが、おそらく中央の観測室から東西南北の四方向に水平な穴が開けられていて、そこから春分や秋分の太陽を観察していたらしい。それだけなら、古代の人々は季節の運行を正確に知ることによって農業などの実用的な目的に役立てていた、という、一見わかりやすい解釈で説明できる。
しかし一方で「天文台」では、金星などの惑星の運行も正確に観測されていたらしい。また、古代マヤでは365(=20×(20-2)+5)日周期で循環するハアブ暦(世俗暦)以外に、260(=20×13)日で一巡するツォルキン暦(神聖暦)という、純粋に数学的な暦も併用されていた。そして、この世俗的な時間のサイクルと神聖な時間のサイクルは、(365×13×4)日=18980日=(260×73)日=52年という不思議な等式によって結び付けられていた。彼らはつねに数学的な構造によって世俗的な時間と神話的な時間をつなげていたかったのだ。断片的に残されている文献には、世界はこのサイクルのさらに100倍、つまり1898000(=365×20×20×13)日=5200年(約5125年という別の計算もある)で破壊と再創造を繰り返しており、現代は「四番目の太陽」の世界であり、その始まりの時代に、三番目の太陽の末裔である双子の兄弟が地下の王と怪物たちを滅ぼし、天に昇って新しい太陽と月になったという神話が書き記されている。
構造主義と神話論理
星と星座は、構造主義的な記号が満たすべき分節恣意性と対応恣意性の二つの要件を満たしている。
そもそもサイン(シーニュ)とは「宮」であり「記号」という意味でもある。コンステレーションとは「星座」であり「布置」という意味でもある。レヴィニストロースによる神話の構造分析から表現を借りるなら、星座(コンステレーション)の中で人間が動いているのではなく、人間の中で布置(コンステレーション)が一当人にも意識されずに一動いている、と考えることはできないだろうか。
現代の人類学は、もはや呪術的思考を、前科学的な、誤った因果論とは考えない。たとえどのような立場に立とうとも、占星術をはじめとする呪術的思考(あるいは「野生の思考」は、文化がいくら「進歩」しても、19世紀の社会進化論者が予想したような形では衰退していない。近代化に伴って生じたのは、占星術の衰退ではなく、その扱う対象が、天下国家のような、外的な社会現象から、個人の生の意味といった、より内的な心理現象への移行である。
かつて、俗なる人間と関連する聖なる象徴は、人間の外部、なかんずく天界に投影される傾向が強かった。漢民族の陰陽五行説がその代表例であるとおり、たまたま太陽系の地球から見える天体は、コスモロジーの象徴としての条件をよく満たしている。太陽と月は、男と女などの象徴的二論と親和性が高いが、その見かけ上の大きさがほぼ完全に同じなのは、天文学では説明不能な、意味ありげな偶然の一致である。肉眼で容易に観測できる惑星の数である5が指の本数に等しいのもまた同様である。
しかし、社会の近代化に伴って、神話的因果論の内面化が進む。意識的な自我が確立するに従って、その影の部分として無意識という領域が、あらためて「発見」されることになる。通常の因果性では説明不能な現象の原因を、天上の星界から、無意識という、内部にある外部世界に求めようとする傾向が強まる。社会の「心理学化」である。
ただし、ここまでの議論は、すでに歴史社会学等で論じ尽くされていることであり、いわゆる現代思想のオーソドックスな見解でもあるが、しかし、それでは依然として、共時的な、意味のある無然を説明することが難しい。社会が心理学化した一方で、哲学から分した心理学の主流は物理学をモデルとした科学としてその体系を確立させようとしたあまりに、そのしわ寄せとして超心理学のような自己矛盾をはみ出させてしまうことになってしまった。その矛盾は、今なお解決していない。
そこで我々は、ふたたび内宇宙と外字面、ミクロコスモスとマクロコスモスの「照応」という、神秘主義的な概念に立ち戻らざるをえなくなる。言い換えれば、心/物、内部/外部という表面的な分節の背後に、イデア界のような、世界を成り立たせているより根源的な領域について再考せざるをえなくなるのである。そのような状況の中で、占星術は、呪術的・神話的な思考を共時性という概念で捉え直そうとするとき、非常に有益な示唆をもたらしてくれる。なぜなら、それはまさに「シーニュ(宮)」と「コンステレーション(星座)」の体系だからである。