蛭川研究室

蛭川立の研究と明治大学での講義・ゼミの関連情報

「不思議現象の心理学」2021/06/04 講義ノート

さて、今週はさらにくだけた口語調でお話しします。お話ししながら、後から書き換えたりしていますが、ふだん、教室でしゃべっているときはこんな感じです。掲示板の問答のほうも口語調ですが。Zoomで授業をやろうかなとも思うのですが、少人数のゼミは対話が成り立つのですが、大人数だと私が一方的にしゃべって終わりになってしまうのですね。ところが掲示板方式だと、リアルタイムで意見が出てくる、発言の数は増減がありますが。

ヒーリングや呪術的な病気治療の話を続けています。祈祷や手かざしで病気が治るという話があります。本当に治れば不思議現象です。本当に治るかどうか、これは、きちんと確かめる必要がありますが、どういう方法で、どんな病気が、どのていど良くなるのか、きちんと統制した研究はあまりありません。しかし、きちんと研究しないで否定することはできません。もちろん、きちんとした研究がないのに信じるわけにもいきません。

病気を治すことを、手当て、と言ったりもします。手から病気を治すための何かが出ているのか、まずは熱というか、赤外線は出ています。接触しなければ熱は伝わりにくいものですが、手で皮膚を触れば暖かみを感じます。これは癒やしですし、触られて気持ちが良いということもあります。これは、たとえば体を触られることでオキシトシンというホルモンが出て幸福感を感じるのだという研究もあります。幸福感は主観的なものですが、リラックスすると免疫力が高まるということもあります。

しかし、たんなる体温以上に、たとえば手から、未知の霊的なエネルギーが出ているかというと、そういう可能性も否定はできませんし、そんなことが見つかれば、これは医学の進歩ですよね。大きな進歩です。だから、可能性は低くても、しっかり研究する必要があるわけです。それに、医学的に使えるんだという証明ができれば、病院で普通にできるようになりますから、特定の宗教団体の独占物でもなくなります。そういう社会的な意味もあります。

しかし、その前に、プラセボ効果とか、象徴的効果とか、そういうことも考える必要があると、先にその可能性を排除しておく必要があるとお話をしてきました。「プラセボ効果と象徴的効果」という長い記事を書きましたが、先週の授業での議論を受けて、抗うつ薬うつ病の薬の話など、さらに書き足しました。

この記事の中から、さらに「集合的無意識と共時性」という記事にリンクを張っていますが、これも書き足しているうちにえらく長い記事になってしまいました。

最後の結論部分の「臨床の知」という部分、ここが言いたいことなのですけど、不思議な水を飲んだら病気が治ったとか、お祈りしてもらったら病気が治ったとか、客観的な証拠もないのに信じられてしまうのはなぜか。信じている人の科学リテラシーが足りないから、というだけではありません。

プラセボ効果と象徴的効果の最初の部分にも書きましたが、たまたま自分の病気が治ったと、一例だけでは医学的なエビデンスにはならないのですけど、当事者本人にとっては、かけがえのない物語なんですね。とくに心理療法ではそうです。プラセボ効果も、本当に身体的な病気が治るのかはともかく、主観的な苦痛は軽減されることが多いし、まあ、それでいいわけです。

そういう、意味のある偶然、偶然でも意味があればいいわけです。それと、客観的な科学とは問題が違うわけです。しかし、個人的な物語を抜きにしても、なお、テレパシーの実験では客観的に統計的に有意な結果が出ている、というお話もしました。主観的な思い込みは排除しなければなりませんが、それでもなお、客観的にも超能力や超常現象のような未知の科学的現象がありそうだと、そちらのほうがこの授業のテーマなのですが、今月から来月にかけて、また本題に戻っていく予定です。