サイケデリックス・精神展開薬
精神展開薬は「psychedelics」の和訳である[*1]。「psychedelic」という英語は、1956年にハンフリー・オズモンドが、ギリシア語のpsychē(ψυχή:心、精神)とdēlos( δήλος:顕現、可視化)を組み合わせた造語である。
「psychedelics」は片仮名で「サイケデリックス」と表記されることが多いが、日本語に訳す場合は「精神展開薬」[*2]あるいは「精神拡張薬」[*3]である。山中康裕の著書では『たましいの顕現』[*4]という言葉が使われているが、「psyche」を「たましい」という和語に置き換えれば、このような訳語にもなるだろう。
近年の日本における慶應大学医学部と大塚製薬の共同研究では「精神展開剤」という訳語が用いられるようになっている。
「サイケデリック」という言葉自体は中立的だが、このカタカナ語は、1960年代〜1970年代のカウンターカルチャーと結びついた、文化依存的なニュアンスを持つ。この文脈では「サイケ」は「心」や「精神」という意味ではなく、極彩色の幻覚、といった意味で使われる。
また「entheogen」という語も用いられる。これは、顕神薬、または音訳でエンテオゲン、エンセオジェンと訳される。「神」という宗教的概念が含まれるので、文化的な意味はあるが、しかし、医学的には中立ではない。
かつてLSDなどの精神展開薬が統合失調症の陽性症状に似た体験を引き起こすことから、精神異常発現薬(psychotomimetic drug)と呼ばれ、統合失調症の症状の解明に役立つと考えられたことがあったが、むしろメタンフェタミンが引き起こす覚醒剤精神病などの精神刺激薬精神病のほうが統合失調症の陽性症状と似ており、いずれもドーパミンの過剰から起こることが明らかになり、精神展開薬を精神異常発現薬と呼ぶことはなくなった。
精神展開薬と同じ物質群を示すものとして、幻覚剤(hallucinogen)という用語もある。ただし、精神医学で「幻覚」というと、統合失調症などの症状としてあらわれてくる幻聴、とくに悪口などの幻声というニュアンスがあるが、上記で議論したとおり、精神刺激薬精神病(とくに覚醒剤精神病)に伴う幻覚のほうが、統合失調症の幻覚と共通していることが明らかになったため、幻覚剤という用語は紛らわしくなってしまった[*5]。
精神展開薬にも幻覚作用はあるが、どちらかといえば視覚が優位(幻視)であり、不快なものから崇高なものまで、多様である。LSDやDMTなどの典型的な精神展開薬はインドール核を持っており、こうした幻視はセロトニンの過剰と関係していると考えらえる。
しばしば「hallucinogen」の日本語訳として「幻覚剤」を当てることもあるが、訳語の対応としては誤りである[*6]。
狭義のサイケデリックスを「major pcychedelics」と呼び、作用の似た物質を「minor psychedelics」あるいは「semipsychedelics」と呼んで区別することもある。広義のサイケデリックスに分類されるが、狭義のサイケデリックスには含めない物質群としては、以下のものがある。
デリリアント・せん妄誘発薬
狭義のサイケデリックスの場合は閉眼時に幻覚が見えたとしても、意識は清明であるのに対し、トロパンアルカロイドなどの抗コリン薬は意識水準が下がりせん妄状態を引き起こし、それが何日も続く場合がある。このため、デリリアント(deliriants:せん妄誘発薬)と呼ばれることもある。詳細は「デリリアント(せん妄誘発薬)」を参照のこと。
エンタクトゲン・共感薬
広義の精神展開薬の一部には、インドールアミンよりもカテコールアミンに構造が似ており、MDMAのように、共感作用を持つ物質がある。これについては、enpathogen、entactogenという用語が使われることがある。Enpathogenとは、苦しみ(パトス:pathos)を共有するという意味を持つが、pathogenという言葉には、病原菌という意味もあるので、避けたほうがよいという考えもある。日本語での定訳はなく、エンパトゲン、エンタクトゲンと片仮名で使われることもあるが、強いて訳せば「共感薬」となるだろう。(中国語には「同感剤」という訳語もあるらしい[*7]。)。詳細は「エンタクトゲン(共感薬)」を参照のこと。
MDMAのような物質は、間接的にオキシトシンの分泌を促すことによって共感作用を引き起こすという機序が考えられている。それゆえ、オキシトシンも共感薬に分類することもできる。GABAの受容体に作用するエチルアルコール、バルビツール酸、ベンゾジアゼピン、あるいはカヴァラクトンも、似たような作用を引き起こす。
大麻とカンナビノイド
大麻に含まれるTHCなどのカンナビノイドも広義のサイケデリックスに含まれるが、サイケデリックな作用は弱いので「マイナー・サイケデリックス」として「メジャー・サイケデリックス」には含めないのが一般的である。カンナビノイドは、大麻などの植物に含まれる植物性カンナビノイド、動物の体内で作られる内因性カンナビノイド、人工的に合成される合成カンナビノイドに分類されるが、重複する物質もある。
内因性カンナビノイドとして動物の体内で発見されたアナンダミドは、その後、菌類である黒トリュフの子実体からも発見された。大麻から抽出されるTHCは植物性カンナビノイドであり、大麻取締法の規制対象になっている。しかし、人工的に合成されたTHCは、その由来からして合成カンナビノイドとも呼ぶことができ、同じ物質であるのに麻薬及び向精神薬取締法の規制対象になっている。
CE2019/02/24 JST 作成
CE2025/06/24 JST 最終更新
蛭川立
*1:なお中国語でも「迷幻薬」という訳語が使われることが多いようである。しかし「翻譯的困難 - 藥物的分類術語」『蘑菇魂啟靈研究社 Psychedelics 心靈.顯現』においては、サイケデリックスとは幻覚とは正反対である、という正論が述べられている。
*2:この訳語の由来は正確には不明だが、京大医学部でLSDが研究されていたころにできた和訳のようである。(たとえば藤岡喜愛『イメージと人間』。)また、稲本志保(1994)「精神展開薬の宗教的使用と信教の自由」『学習院大学大学院法学研究科法学論集』にも「精神展開薬」の訳語が用いられている。
*3:この訳語の提唱者は、おそらく加藤清である。
武井秀夫・中牧弘允(編)(2002).『サイケデリックスと文化―臨床とフィールドから―』春秋社.
*4:
*5:なお中国語でも「迷幻薬」という訳語が使われることが多いようである。しかし「翻譯的困難 - 藥物的分類術語」『蘑菇魂啟靈研究社 Psychedelics 心靈.顯現』においては、サイケデリックスとは幻覚とは正反対である、という正論が述べられている。
*6:2021年に京都地裁で行われたDMT茶裁判では、弁護側証人の蛭川立と弁護人の喜久山弁護士は「psychedelics」の和訳として、ギリシア語の語源にまで遡って「精神展開薬」を使った。検察官は「幻覚剤」と訳すべきだと反論した。安永裁判長は「ま、psychedelicはサイケデリックということで」と仲裁した。
*7:「翻譯的困難 - 藥物的分類術語」『蘑菇魂啟靈研究社 Psychedelics 心靈.顯現』(2021/05/29 JST 最終閲覧)