彼らは、気が沈むとか不眠であるとか結婚生活がうまくいかないとか、仕事がおもしろくないとか、種々そのような悩みを訴える。彼らにある特殊の症候が彼らの問題であり、しかもこの特殊な悩みを取り除くことが出来るならば、彼らはよくなると信じている。しかしながら、これらの患者は、通常彼らの問題が抑うつとか不眼とか結婚生活とか仕事とかの問題ではないということが通常わからない。これらの種々な訴えは、我々の文化が、根源は、もっと深いところにあり、自分たちはある特殊な症候に悩んでいると意識的に信じている種々の人々に共通しているあるものを表現させるところの意識的な形にすぎない。この共通した悩みというものは、自分自身からの疎外であり、自分の仲間からの疎外であり、自然からの疎外である。生が人の手から砂のようにこぼれてしまう、また本当に生きることなしに人は死んでしまう、人はありあまるものの最中で生活するけれども、しかも本当の喜びがないというような意識である。(Pp. 155-156.)
分析的な過程ではどんなことが起きるであろうか。人はこの時初めて自分が虚栄であることも、おびやかされていることも、また憎しみにみたされていることも気がつく。意識的には彼自身は謙遜で、勇敢で、愛情にみちていると信じていたのに。新しい洞察は彼を傷つけるかも知れない。だがそれは彼に一つの戸を開くのである。彼が自分の抑圧を他の人々に投射することをやめることができるようになる。彼は前進する。彼は彼自身の中に赤ん坊を、子供を、青年を、罪人を、狂人を、聖者を、芸術家を、男性を、そして女性を体験する。彼はより深く人類に触れてくる。宇宙的人間に接触してくる。彼の抑圧は少なくなり、より自由になり、投射や観念化の必要も少なくなる。それからいかに初めて彼が色彩を見るか、鞠が転がるのを見るか、またいかに彼の耳が、それまでは彼がそれに注意して聞こうとしてきた音楽に全幅的に開かれたかを彼は経験するであろう。彼は他の人々と一つになったことを感じ、彼は自分の分離した個人的な自我(エゴ)が固執すべき、培うべき、蓄うべき何物かであるとしてきたその迷妄に初めて目が開くであろう。彼は彼自身であることや彼自身になることよりも、むしろ彼自身をもつことに人生への答を求めることのむなしさを経験するであろう。これらのすべてはなんらの知的内容のない、まったく思いがけずに突如として生ずる経験である。その経験の後にはその人は前よりも、より自由に、より強く、より安らかに感ずるようになるのである。(Pp. 243-244.)
エーリッヒ・フロムによる1957年の講演「精神分析学と禅仏教」の日本語訳。『禅と精神分析』東京創元社[*1]140-247頁。