冬休み明けで、授業再開です。今回と、そして来週、22日で、授業は完結します。
VR、バーチャルリアリティーの話の続きでした。寒い日が続くと、人間は元気がなくなり、ウイルスは元気になります。緊急事態宣言の再発令と、先行きの不透明な状況が続きますが、外出自粛生活の中で、おうちで○○、といえば、なんと言っても、おうちでVRです。
私事ながら、冬休みには、新製品、VRのHMD装置である、Oculus Quest 2を買ってしまいました。これは、今が買いです。(→「個人用VR器機」)今までの機種と、性能的にはあまり変わらないのですが、専用のPCも不要で、有線のケーブルでつなぐ必要もなくなったので、ずいぶんと使い勝手がよくなりました。
VRについては、百聞は一見にしかずです、器機の話について、これ以上詳しくは議論しませんが、まずはじっさいに体験することをお勧めします。秋葉原のお店などでも体験コーナーがありますが、いまの感染症の状況下では、ちょっと難しいですね。
歴史を遡れば、OculusやVIVEのような個人用のVR器機が出揃った2016年ごろが、VR元年と呼ばれたりしました。もちろん、VR技術自体はもっと以前からあったのですが、ここは(→「『VR元年』略史」)をご一読ください。
唯物論と唯心論
さて、哲学の話に戻ります。
「月は見ていないときには存在しないのか」という、禅問答のような議論があります。
たとえば、いまは夜で、部屋の中にいるとします。窓があります。カーテンを開けて、窓の外を見ると、月が見えます。いまはちょうど新月なのですが、いまは思考実験です。夜空には雲がなく、満月が輝いていると、そういう光景を想像してください。
窓の外を見ると、夜空に、丸い月が煌々と輝いています。そして、カーテンを閉めて、部屋の中に目を戻すと、部屋の中が見えます。カーテンを閉めると、月は見えません。
もう一度、カーテンを開けて、窓の外を見ると、夜空には、満月が見えます。空には雲がなく、月の光を遮るものはありません。
さて、と、哲学者は考えます。カーテンを開けて、月を見ているとき、月はたしかに夜空に存在しています。では、カーテンを閉めて、月を見ていないときにも、月は、カーテンの向こうに、存在するのでしょうか。存在するに決まっていると、ふつうは考えます。というか、わざわざ、そんなことは考えないのがふつうです。
ところが哲学者というのは理屈っぽいものですから、カーテンを閉めているときに、月が存在するということを、どうやって確かめるのか、と問いかけてきます。カーテンを開ければ、月が見えます。見えているということは、存在しているということです。しかし、見えていないときにも、存在するといえる根拠はありません。といって、存在していないともいえません。
唯物論(狭義の「実在論」)の立場は、シンプルです。見ていても、見ていなくても、月はいつでも存在します。見ているときには、月は見えるし、見ていないときには、月は見えない。当たり前ですね。
ところが、その反対に、唯心論という立場もあります。月は、見ているときには、存在し、見ていないときには、存在しない、と考えます。夜空に浮かんでいる月は、見ている人の意識が作りだしている、と考えます。月は、地球の衛星です、巨大な岩の塊です、そんなものが、カーテンを開けた瞬間に形成され、カーテンを閉めた瞬間に消滅し、またカーテンを開けた瞬間に形成される。これは、とてもおかしな話です、屁理屈です。しかし、論理的には可能ですし、反証する方法もありません。
唯物論や唯心論については(→「インド・ヨーロッパにおける心物問題の略史」)のほうで。詳しく議論しました。
意識が世界を創り出している。これは、この授業でも何度も触れたものですが、最初にわかりやすい例として挙げたのが、寝ているときにみる夢です。夢の中では、いろいろな風景を見ます。夢の中で、月を見ることもあります。しかし、その風景は、意識が作り出しているものです。だから風景の中にある月も、意識が作り出しているものです。
そして、夢を見ているときは、夢の中にいるときは、その夢を現実だと思っています。すぐ後で触れますが、夢の中で誰かに追いかけられたり、襲われたりするのは、本当に怖いものです。夢の中にいるときには、それが現実だと信じて疑わないからです。もし、夢の中にいるときに、これは現実ではない、夢なのだと気づくこともあります。これは、明晰夢という、特殊な夢です。(→「明晰夢」)
しかし、悪夢を見ていて、はっと目覚めることがあります。はっと目覚めると、ついさっきまで見ていた夢の世界は、瞬時にして消え、目の前には、いつもの部屋と、自分が寝ている布団や枕が見えるでしょう。これこそが現実の物理世界であり、いままで見ていた悪夢は、幻覚にすぎなかった、というわけです。
しかし、目が醒めたあとで見える、布団や枕のある見慣れた光景、これが夢ではないといえるでしょうか。寝る前にも同じ布団が見えていたし、起きた後にも同じ布団が見えていたのだから、夢ではなく客観的実在だろうと言えそうなものですが、布団や枕という夢の世界で、さらに一段階夢を見ている可能性もあります。
偽りの目覚め(false awakening)という体験もあります。夢から目覚めて、起きて、歯を磨いていたら、実はそれもまた夢で、次の瞬間にはまた目覚め、起きて、歯を磨く、というのも、また夢かもしれません。
そもそも、寝ているときの夢のほうが現実で、現実だと思っている世界のほうが夢かもしれない、という、逆を考えることもできます(→「『荘子』(胡蝶之夢)」)
このあたりまで話を聞いて、だから何なんだと、嫌になる人も多いでしょう。そんな議論をして、何の意味があるのでしょう。
もっとも近年の哲学では、第三の立場、そんな形而上的な議論には意味がない、月は存在しようが、しまいが、関係ないという、実証主義、実用主義が有力です。
「仮想現実」の存在論
VRは、もっぱらゲームとして使われています。アメリカ人の男の子向けに作られたゲームが多いのですが、襲ってくる敵を、銃で撃ち殺すという、暴力的なコンテンツが多いのが実情です。せっかくのVR技術を、暴力を楽しむためにばかり使うのは、とても残念なことです。
たとえば、次々と襲いかかってくるゾンビの群れを、片っ端から撃ち殺すというゲームがあります。たかがゲームのようで、その世界に没入すると、本当に怖いものです。(→「他界体験と仮想現実」『人文死生学宣言ー私の死の謎ー』)しかし、本当に恐いのは、ふっと後ろをふり返ったときに、すぐ後にゾンビがいたときです。それはもう、思わず悲鳴を上げて身をよじってしまうほどです。
VRのゴーグル、ヘッドマウントディスプレイ、略してHMDは、眼鏡のような形をしていますが、いままでの3Dメガネとは、まったく違います。その違いというのは、頭を上下左右に動かしたときに、それに追従して画像が処理され、あたかも360度の空間にいるように錯覚してしまうことです。ゾンビは前からも襲ってきますが、後からも襲ってきますから、しょっちゅう後を振り向いて、後からやってくるゾンビも撃ち殺さなければなりません。
しかし、後からゾンビに襲われないようにするための裏ワザがあります。簡単です。それは、後を振り返らないことです。
後を振り返ると、すぐそこにゾンビがいることに気づいて、それはとても恐いのですが、タネを明かせば、頭が後を振り返るという動作をHMDに内蔵されている加速度センサが感知して、後ろ側の世界を計算し、後にいるゾンビの姿を計算し、ディスプレイに表示させるのです。つまり、後を振り返らなければ、そこにはゾンビは存在しません。後を振り返るから、ゾンビが存在する[ように見える]のです。
ここで、「月は見ていないときには存在しないのか」という哲学的な問いが、「ゾンビは見ていないときには存在しないのか」という問いに、置き換わります。置きかえてみると、いままでの哲学が何を論じてきたのか、ということも理解しやすくなりますね。
現代物理学は唯心論なのか
いや、月と、VRの中にいるゾンビは、違う、という意見もあるでしょう。とても健全な意見です。月は地球の衛星ですが、ゾンビはゲームの中だけの存在ですから。
月は実在する。誰も見ていなくても実在する。そんなのは当たり前だと、ずっと唯物論で問題なく続いてきた近代科学ですが、20世紀になり、顕微鏡でも見えないような小さな世界、ミクロの世界では、電子や光子など、素粒子レベルの世界では、物質の振る舞いは、唯物論に依拠した古典力学では説明できないということがわかってきました。
事実とはすこし違うのですが、ごくごく簡単に言えば、素粒子は、見ているときには存在するが、見ていないときには存在しないことがわかってきたのです。より正確にいえば、存在しているのと、存在していないのの、中間的な状態にあって、観測すると、素粒子として姿をあらわすのです。
20世紀に登場した新しい物理学、とくに量子力学の世界観は、月は見ていないときには存在しない、という、唯心論的な発想に親和的なところがあります。これは、物理学の基礎知識がないと、なかなか難しいので、また来週、もうすこし説明しますが、別の場所に解説(→「現代物理学と心身問題」)を書いておきました。
シミュレーションとしての世界
ところで、VRゾンビゲームで、迫り来るゾンビから完全に逃げるための、もっと抜本的な解決策があります。それは、後を振り返らないことではなく、VRのHMDを外してしまうことです。VR世界では、どんなに恐いことがあっても、とにかく外せばすべての仮想世界から解脱できます。
寝ているときにみている夢と同じです。悪夢から逃げたければ、目を覚ませばよいのです。しかし、これも偽りの目覚めで、目覚めている世界も、また夢かもしれません。
同じように、VRのHMDを外した世界もまた、ある種のゲームの世界である、コンピュータシミュレーションである、という、映画『MATRIX』のような仮説もあります。(→「シミュレーション仮説」)本当かどうかは別にして、この仮説は論理的には可能です。夢から醒めたと思ったら、またその世界も夢だった、といえるのと、同じような論理です。
古代のインド哲学では、その、主流派の学派は、ですが、目の前に見えている世界は、夢のような幻であり、そこから覚めなければならない、と説いてきました。たとえばゾンビに襲われて怖がっているのも、そのゾンビがゲームのプログラムによって作られたグラフィックにすぎないこと、振り返らなければ出現しないこと、HMDを外せばゲーム自体から脱出できること、そう置きかえてみると、昔のインドの神秘的な哲学が、近未来情報技術の文脈で、理解できるようになります。
だんだん話が大風呂敷になってしまいましたが、唯心論的物理学と、シミュレーション仮説については、また次回に、半期の授業のまとめとして、論じていきます。
(来週、最終回に続く)
CE2021/01/14 JST 作成
CE2021/01/21 JST 最終更新
蛭川立