人類学者である青木保氏じしんがタイで出家した「参与観察」の記録『タイの僧院にて』。
還俗したときの経文がパーリ語で記されている。私がかつてチェンマイで出家・還俗したときには(→「タイでの一時出家」を参照のこと)、パーリ語とタイ語訳とを交互に唱えていったと記憶している。
アチャ マヤー アパチャペキトゥァ ヨ ビンダバート パブリトー
ソー ネーワ ダワーヤ ナ マダーヤ ナ
マムダナーヤ ナ ヴ ィブーサナーヤ
ヤーワデーワ イマサ カーッサーヤ ティティヤ
ヤーパナーヤ ヴィヒムスパラティヤ ブラマチャリヤーヌガハーヤ
これまでどのようなバアツが私に用いられたことがあるにせよ、今日、それはもう想い起すことはなく、ただ
それが遊びのためでなく、酔うためのものでなく、太るためのものでなく、美化するためのものでなく
ひとえにこの身体を生き続けさせ、養うためだけのもの、身体を傷つけず、知の向上を助けるためのものである、と
イティ プラーニャンチャ ウェーダナム パティハムカーミ ナーワンチャ ウェーダナムナ ウパデサーミ
ヤートラ チャ バビーサティ アナワチター
チャ パスヴィハーロ チャーティ
私は古い気持(空腹の)を捨て、決して(満腹したいという)新しい気持を起さないようにしよう
かくして私には肉体の起す災いから逃れ、安らかに生きることができる
「バアツ」とは僧侶が俗人から受け取る「布施」のことであり、タイの貨幣である「バーツ」ではない。僧侶が金銭に触れることは戒律によって禁じられている。
中国仏教に由来する食事五観(「『赴粥飯法』」を参照のこと)と比較すると、食欲そのものが肉体から起こる災いだと捉えられているところがより原理主義的である。また太ることが美しいことだというのはインド的身体観のゆえにだろうか。
「ブラフマ・チャリヤ」は直訳すれば「正しい行い」という語義だが、通常は性的禁欲を意味する。私がチェンマイの僧院にいたときには、どうして食前に性的禁欲を朗唱するのだろうかと不可解に思ったが、青木は「知の向上」と訳している。(これは「食事五観」の「成道」に対応する。)出家者は知の向上のために食べるのである。
シッカム パッチャカーミ
ギーヒィティ マム タレタ
私はここに修行を断念します
どうか俗人としての私をお受け取り下さい
近代タイ仏教において、出家とは俗世を永遠に放棄することではなく、還俗とは修行を永遠に放棄することでもない。半僧半俗でもなく非僧非俗でもなく、僧俗自在とでもいうべきか。
青木保『タイの僧院にて』(中公文庫)328-331.