今週で最終回です。全体の授業を振り返ると同時に、人類進化、進化主義と文化相対主義、そして意識状態相対主義へと話をまとめていきます。
人類学は文理を分離しない学問です。自然科学に基礎づけられた自然人類学と、人文・社会科学に基礎づけられた文化人類学・社会人類学という分野を包括する学問です。
自然人類学は人類の進化を研究してきました。生命の誕生、単細胞生物、そこから植物と動物が分化、動物の進化の頂点に人間がいると、そして人間でも、原始人、未開人から、文明人が進化したと、こういう考えかたを「進化主義」といいます。
しかし、歴史的には第二次大戦後、アジアやアフリカの植民地が独立していったという時代から、いま、文明が行きすぎて自然破壊が進んだり、物が豊かすぎても心が満たされない、そういう時代に対する反省として、「文化相対主義」という考えが優勢になってきました。
西洋文明がアメリカ合衆国でひとつの完成されたスタイルとなり、これが進んだ科学・技術とともに、グローバル・スタンダードになってきました。しかし、そうした豊かな生活が、背後ではいわゆる発展途上国における戦争や環境破壊とセットになっているという側面もありますし、では途上国などと呼ばれるところが貧困で苦しいばかりかというと、そうでもない。
たとえばアマゾンの先住民族などですね、熱帯で雨が多くて、植物もどんどん育つようなところでは、食べ物を食べるだけなら困らない、あまり働かなくてもいい、のんびりした社会があります。
ところが、どうしてもテレビが観たいとかスマホがほしいとか、そして情報が入ると欧米で流行しているような服が着たいとか、そういう欲望が出てきますとお金が必要になり、現金収入を得ようとする。そうすると忙しく働く必要が出てきて、あるいは都会に移住していき、都市の人口が増え、衛生状態や治安の悪化などが問題になっています。
そこで、豊かさとは何だろうかと、はたして文明は本当に豊かなのだろうか、ほんとうに幸福なのだろうかと、そういう問いかけの中から、文化相対主義という言葉が生まれてきました。反対語は自文化中心主義、エスノセントリズムです。これは、西洋文明人の男性からの視線でもありますが、かつての中華思想のように、自分たちの民族がいちばんで、他は野蛮人だと、そういう考えは古今東西、どこにでもありました。
科学の進歩は、それ自体が知識の広がりであり、素晴らしいものです。そして科学を応用した技術も、これも電子や医療の分野で、非常な発達を遂げました。ほんとうに豊かな暮らしが実現しました。これはここ百年ぐらいの大きな進歩です。進歩しすぎて、遺伝子検査や生命操作のような倫理的な葛藤も起こっています。
さてしかし、文化相対主義というと、もっと深い意味もあります。たとえばタイでは仏教が社会の中にあって、出家して瞑想を学んだりすることがふつうです。宗教が社会の中にある、ときに宗教が政治とかかわるというのは、前近代的で、遅れた社会のあり方だともいえますが、またいっぽうで、ヨガとかマインドフルネスとか、宗教色を薄めた瞑想がストレス社会で流行しています。もともとはインドではじまったものです。インドの文化は物質的な方面よりも、精神的な方向へと深化してきた文明でした。
また、うつ病の大学生がネットでアマゾンの薬草、アヤワスカ茶を買って飲み、自殺念慮を治してしまったという事件のお話もしましたが、その大学生も何か具体的物質的な問題を抱えていたわけではありません。大学に行かずに引きこもっていたのだそうですが、大学に行かずに引きこもっていられるぐらい経済的には豊かで、肉体的には健康であったわけです。豊かさゆえの閉塞感というのでしょうか。
アヤワスカ茶というのは、アマゾンの先住民族が使っている薬草のお茶のことでした。DMTという、LSDに似たサイケデリックス、精神展開薬の作用で、シャーマンが精霊と出会うために使うものです。飲んだら精霊が見えるとか、文明社会の論理からすれば、そんなものが見えてくる薬物というのは、幻覚剤である、麻薬である、逮捕する、懲役刑であると、決めているわけですが、麻薬とは何か、どのように体に悪いのかについては、きちんとした科学的根拠があるわけではありません。
DMTは人間の脳の中でも作られています。夜の間に作られていて、夢という幻覚を見せているのだ、という説もあります。夢という幻覚を見せる麻薬が脳の中にあるわけですが、それを麻薬の所持として取り締まれるのかという、そういうことが京都地裁で争われています(→「京都アヤワスカ茶会裁判」)。このDMTという物質は、瞑想をするときにも脳内で分泌されるということもわかってきています。
また、精神疾患の症状として幻聴が聞こえてくる、といった症状も出てくることがあります。病気で苦しむ人が治療できるようになったのも科学の進歩のおかげですが、そのいっぽうで、幻覚を治療すべき症状とみなすこと自体が近現代社会の論理でもあります。授業では詳しく扱えませんでしたが、もし沖縄で神様が見える、お告げが聞こえてくるという人がいれば、その人は特殊な才能を持った人だと思われ、社会的に尊敬を集めたりもします。もちろん沖縄も日本ですから、かなり高度な医療も受けられるのですが、沖縄の宗教的風土を知っている医者ですと、この人は治療したほうがいいな、とか、これはいっしゅの才能だ、と見きわめるのだそうです。
詳しくは記事へのリンクを辿っていただきたいのですが(→「意識の諸状態」)、目覚めている世界のほうが正常で、眠っていて、夢を見ている世界のほうが幻覚であるといえる形而上学的保障はありません。古代中国の思想家、荘子も、目覚めている世界と眠っている世界のどちらが夢だろうか、などと問うていますし、古代のインドでは、リンク先の記事に書きましたが、眠っているときの世界が夢なら、目覚めているときの世界も夢だ、瞑想によってたどりつける境地こそが真の目覚め、覚醒だ、といった考えが主流でした。
科学の進歩によって宗教の迷信的な側面が訂正されていったのは、これもまた進歩でしょう。進化主義的な視点です。しかし、寿命が90年あったとして、目覚めている時間は60年、その部分の生活だけが現実だと認識される。残りの30年は夢という幻覚の中で生きている。良い睡眠をとると健康になるという考えはあっても、夢そのものに価値があるとは考えられないものです。夢よりも、もっと示唆に富んだビジョンを見せてくれる薬草は幻覚剤、麻薬として犯罪とされていますから、合法的に生きているかぎり、そんなものは摂取しないで一生を終えます。タイでは男子たるもの若いうちに一度は出家ぐらいしておけ、という文化がありましたが、逆にそういう文化がなければ、一生、瞑想などしなくても生きていけるわけです。そうすると、グローバル・スタンダードになった西洋近代文明というのも、こうした多様な意識状態を認めない、狭い価値観だともいえます。
アマゾンの先住民文化、タイの仏教文化、それらの多様性を評価するのが文化相対主義であるなら、夢という幻覚、あるいは幻覚剤と呼ばれるサイケデリックスによって得られるビジョン、あるいは出家して瞑想して得られる境地、こう言った意識の状態の多様性を評価するのを意識状態相対主義といいます。意識状態相対主義という言葉は、文化相対主義ほど一般的な概念ではありませんが。
なお、期末レポート課題は、授業で扱った2、3のテーマについて論述してもらうつもりですが、詳細は別便にて正式に通知します。