精神に作用する物質の呼称は、他の薬剤に比べて混乱している。
第一に、薬物が神経細胞という物質にはたらきかけると同時に、服用した当事者は個々、主観的な精神的体験を引き起こすからである。
また、嗜好品として用いられたり、法的に規制されたりする場合、文化的な価値づけが強くなされるからである。
さらに、これは他の薬剤でも同じだが、国際的な基準として英語で記述されたものを、日本語に翻訳する場合、複数の訳語が派生してしまう。また、和訳の場合、意味を漢字に置きかえる場合と、読みをそのままカタカナに置きかえる場合の両方がありうる。さらに、元がギリシア語やラテン語である場合、そのまま発音した場合と、英語訛りで発音した場合の両方の音訳がありうる。
精神疾患の治療に用いられる薬物は「選択的セロトニン再取り込み阻害薬」のように、化学的な特性によって呼ばれる場合と、「抗うつ薬」のように、精神疾患という、改善されるべき主観的な経験によって呼ばれる場合の両方がありうる。
前者に統一するほうが「科学的」だとはいえるが、それは現状では難しい。精神疾患などの主観的な体験や、向精神薬がそれをどう変化させるのかというメカニズムが不明であることが多いからである。うつ病はシナプスにおけるセロトニンの不足によって起こる、という仮説も、まだ確認された定説にはなっていない。
「薬物」と「物質」
精神に作用する物質にかんしては、もっとも一般的なものとして「psychoactive substances」や「psychotropic drugs」が用いられ、それぞれ「精神活性物質」と「向精神薬」と訳される。ただし日本の法律では「向精神薬」は、麻薬及び向精神薬取締法で「向精神薬」として定義される物質群でもある。
日本語の「薬物」は、おそらく英語の「drug」に対応する言葉であり、覚醒剤(メタンフェタミン)や大麻などの規制物質・植物、あるいは薬物乱用(drug abuse)を引き起こす物質という否定的なニュアンスがある。ほんらい「薬物」は薬という意味であり、また有害な毒物と対比させるなら、薬物とは有益な物質を指すべき用語である。
近年では「drug(薬物)」や「narcotics(麻薬)」に代わる用語として、より一般的な「substance(物質)」という、もっともニュートラルな言葉が使用されるようになってきた。ここでいう「物質」とは文字どおりすべての物質を指し表すので、それが精神に作用するのか、乱用されるのか、法的に規制されるのか、といった性質とは無関係である。
「麻薬」とオピオイド鎮痛薬
向精神薬の呼称の中で、もっとも意味が混乱しているのが「麻薬」である。これは、第一に、「麻薬及び向精神薬取締法」という法律が定める薬物のことであるが、向精神薬の下位概念であるはずの麻薬が、向精神薬と併記されている。
日本の法律では、規制の対象となっている向精神薬が「麻薬及び向精神薬」「覚醒剤」「大麻」「あへん」という分類になっており、「あへん」は「麻薬」には含まれていない。これは、法律が制定された歴史的背景によるもので、その分類には薬理学的一貫性がない。
同時に、社会的に使用される俗語のレベルでは、法的に規制されている、ないしは社会的規範に反しているとみなされる向精神薬は、すべて「麻薬」と呼ばれることもある。
医学的にいう「麻薬」は、「麻薬性鎮痛薬」のことである。さらにややこしいのは、この「麻薬」という言葉の中に「麻」という言葉が入っていることである。これは、かつて中医学で大麻が鎮痛薬として使われていたことに由来するらしい。
こうした混乱を避けるためには、物質名を使って「オピオイド鎮痛薬」とするのが良いだろう。ただし、ここにも「オピオイド」という物質名と「鎮痛」という主観的体験の両方が含まれている。
刺激薬・興奮剤
中枢神経系を活性化させる薬物一般を英語では「stimulant」または「psychostimulant」という。これは「刺激薬」「興奮剤」、あるいは「精神刺激薬」と訳される。これには、アンフェタミン類(覚醒剤)、コカイン、カフェイン、ニコチン、メチルフェニデートなどが含まれる。
「精神」の代わりに、より物質的客観的な意味合いを込めて、中枢[神経]刺激薬という語も用いられる。
ADHDの治療に使われるアトモキセチンはメチルフェニデートと違い、ドーパミン再取り込み阻害作用を持たないので、非中枢刺激薬と呼ばれる。アトモキセチンを精神刺激薬に含めるかどうかについては議論があるが、もし含めるとすれば精神刺激薬であってかつ中枢[神経]刺激薬ではないことになり、精神刺激薬と中枢[神経]刺激薬は異なるカテゴリーになる。
サイケデリックス・精神展開薬
精神展開薬は「psychedelics」の和訳である[*1]。「psychedelic」という英語は、ギリシア語のpsychē(ψυχή:心、精神)とdēloun(δηλοῦν:顕現、可視化)からの合成語である。
「psychedelics」は片仮名で「サイケデリックス」と表記されることが多いが、日本語に訳す場合は「精神展開薬」[*2]あるいは「精神拡張薬」[*3]である。山中康裕の著書では『たましいの顕現』[*4]という言葉が使われているが、「psyche」を「たましい」という和語に置き換えれば、このような訳語にもなるだろう。
「サイケデリック」という言葉自体は中立的だが、このカタカナ語は、1960年代〜1970年代のカウンターカルチャーと結びついた、文化依存的なニュアンスを持つ。この文脈では「サイケ」は「心」や「精神」という意味ではなく、極彩色の幻覚、といった意味で使われる。
また「entheogen」という語も用いられる。これは、顕神薬、または音訳でエンテオゲン、エンセオジェンと訳される。「神」という宗教的概念が含まれるので、文化的な意味はあるが、しかし、医学的には中立ではない。
かつてLSDなどの精神展開薬が統合失調症の陽性症状に似た体験を引き起こすことから、精神異常発現薬(psychotomimetic drug)と呼ばれ、統合失調症の症状の解明に役立つと考えられたことがあったが、むしろメタンフェタミンが引き起こす覚醒剤精神病などの精神刺激薬精神病のほうが統合失調症の陽性症状と似ており、いずれもドーパミンの過剰から起こることが明らかになり、精神展開薬を精神異常発現薬と呼ぶことはなくなった。
精神展開薬と同じ物質群を示すものとして、幻覚剤(hallucinogen)という用語もある。ただし、精神医学で「幻覚」というと、統合失調症などの症状としてあらわれてくる幻聴、とくに悪口などの幻声というニュアンスがあるが、上記で議論したとおり、精神刺激薬精神病(とくに覚醒剤精神病)に伴う幻覚のほうが、統合失調症の幻覚と共通していることが明らかになったため、幻覚剤という用語は紛らわしくなってしまった[*5]。
精神展開薬にも幻覚作用はあるが、どちらかといえば視覚が優位(幻視)であり、不快なものから崇高なものまで、多様である。LSDやDMTなどの典型的な精神展開薬はインドール核を持っており、こうした幻視はセロトニンの過剰と関係していると考えらえる。
しばしば「hallucinogen」の日本語訳として「幻覚剤」を当てることもあるが、訳語の対応としては誤りである[*6]。
狭義のサイケデリックスを「major pcychedelics」と呼び、作用の似た物質を「minor psychedelics」あるいは「semipsychedelics」と呼んで区別することもある。広義のサイケデリックスに分類されるが、狭義のサイケデリックスには含めない物質群としては、以下のものがある。
デリリアント・せん妄誘発薬
狭義のサイケデリックスの場合は閉眼時に幻覚が見えたとしても、意識は清明であるのに対し、トロパンアルカロイドなどの抗コリン薬は意識水準が下がりせん妄状態を引き起こし、それが何日も続く場合がある。このため、デリリアント(deliriants:せん妄誘発薬)と呼ばれることもある。詳細は「デリリアント(せん妄誘発薬)」を参照のこと。
エンタクトゲン・共感薬
広義の精神展開薬の一部には、インドールアミンよりもカテコールアミンに構造が似ており、MDMAのように、共感作用を持つ物質がある。これについては、enpathogen、entactogenという用語が使われることがある。Enpathogenとは、苦しみ(パトス:pathos)を共有するという意味を持つが、pathogenという言葉には、病原菌という意味もあるので、避けたほうがよいという考えもある。日本語での定訳はなく、エンパトゲン、エンタクトゲンと片仮名で使われることもあるが、強いて訳せば「共感薬」となるだろう。(中国語には「同感剤」という訳語もあるらしい[*7]。)。詳細は「エンタクトゲン(共感薬)」を参照のこと。
MDMAのような物質は、間接的にオキシトシンの分泌を促すことによって共感作用を引き起こすという機序が考えられている。それゆえ、オキシトシンも共感薬に分類することもできる。GABAの受容体に作用するエチルアルコール、バルビツール酸、ベンゾジアゼピン、あるいはカヴァラクトンも、似たような作用を引き起こす。
大麻とカンナビノイド
大麻に含まれるTHCなどのカンナビノイドも広義のサイケデリックスに含まれるが、サイケデリックな作用は弱いので「マイナー・サイケデリックス」として「メジャー・サイケデリックス」には含めないのが一般的である。カンナビノイドは、大麻などの植物に含まれる植物性カンナビノイド、動物の体内で作られる内因性カンナビノイド、人工的に合成される合成カンナビノイドに分類されるが、重複する物質もある。
内因性カンナビノイドとして動物の体内で発見されたアナンダミドは、その後、菌類である黒トリュフの子実体からも発見された。大麻から抽出されるTHCは植物性カンナビノイドであり、大麻取締法の規制対象になっている。しかし、人工的に合成されたTHCは、その由来からして合成カンナビノイドとも呼ぶことができ、同じ物質であるのに麻薬及び向精神薬取締法の規制対象になっている。
「薬」と「剤」
なお「薬」と「剤」の両方が使われる場合があるが、どちらも同じような意味である。「薬」は、どちらかといえば物質そのもの、「剤」は「錠剤」や「散剤」のように、薬剤の形態を指すことが多いので、物質の総称としては「薬」を使うという原則にするのがよいだろう[*8]。
CE2019/02/24 JST 作成
CE2024/03/06 JST 最終更新
蛭川立
*1:なお中国語でも「迷幻薬」という訳語が使われることが多いようである。しかし「翻譯的困難 - 藥物的分類術語」『蘑菇魂啟靈研究社 Psychedelics 心靈.顯現』においては、サイケデリックスとは幻覚とは正反対である、という正論が述べられている。
*2:この訳語の由来は正確には不明だが、京大医学部でLSDが研究されていたころにできた和訳のようである。(たとえば藤岡喜愛『イメージと人間』。)また、稲本志保(1994)「精神展開薬の宗教的使用と信教の自由」『学習院大学大学院法学研究科法学論集』にも「精神展開薬」の訳語が用いられている。
*3:この訳語の提唱者は、おそらく加藤清である。
武井秀夫・中牧弘允(編)(2002).『サイケデリックスと文化―臨床とフィールドから―』春秋社.
*4:
*5:なお中国語でも「迷幻薬」という訳語が使われることが多いようである。しかし「翻譯的困難 - 藥物的分類術語」『蘑菇魂啟靈研究社 Psychedelics 心靈.顯現』においては、サイケデリックスとは幻覚とは正反対である、という正論が述べられている。
*6:2021年に京都地裁で行われたDMT茶裁判では、弁護側証人の蛭川立と弁護人の喜久山弁護士は「psychedelics」の和訳として、ギリシア語の語源にまで遡って「精神展開薬」を使った。検察官は「幻覚剤」と訳すべきだと反論した。安永裁判長は「ま、psychedelicはサイケデリックということで」と仲裁した。
*7:「翻譯的困難 - 藥物的分類術語」『蘑菇魂啟靈研究社 Psychedelics 心靈.顯現』(2021/05/29 JST 最終閲覧)
*8:小山善子 (2009).「今後検討すべき用語ー精神病、精神障害(がい)、病と症・薬と剤の使い分け、などー」『第105回日本精神神経学会総会抄録集』, 599-603.