【講義ノート】「身体と意識」2021/01/22

身体と意識の、今年度の最終講義です。先週は、バーチャルリアリティーのことを、ずいぶんと駆け足で、早口で喋ってしまいました(→「1月15日の講義ノート」)。身体論や意識科学の授業のはずが、急にVR技術の話になったり、素粒子物理学の話になったり、なぜかインド哲学の話になったり、話が飛び飛びで、よくわからなくなってしまったかもしれません。これは学問の最先端で試行錯誤が進んでいるということでありまして、そこはご了承ください。

半年の授業を振り返る

半年かけて、臨死体験向精神薬などの、怪しげな話や、昔のややこしい哲学の話をしてきたのですが、それが、現代の問題、とりわけ情報技術の進歩が人間のありかたを変えていくという、そういう問題にもつながっているのだというお話をしたかったわけです。

毎週、決まった時間に仮想教室を開いていますが、一方的な講義というよりは、質疑応答の時間にしてきました。今回は、今までの、身体と意識という授業の、全体にかんする質疑応答にします。今までの授業内容については「身体と意識 西暦2020年度」から辿ることができます。

期末レポートについて

教室での期末試験は行いません。その代わりに、Oh-o!Meijiシステムを通して期末レポートを提出してもらいます。レポートの課題は「『身体と意識』2020年度 期末レポート課題」にもアップしておきました。

レポート形式については細かい問題がいろいろありますが、蛭川担当科目のFAQのページの「期末レポートについて」にも目を通しておいてください。



CE2021/01/20 JST 作成
CE2021/01/26 JST 最終更新
蛭川立

文明社会の神話的思考

神話的思考はいわゆる未開人に特有のものではなく、科学=技術の発展した現代の都市社会でも、いや、そのような社会であればこそ、なおのこと ―レヴィ=ストロースの言葉を借りれば ― 思考している当事者にも意識されずに、はたらいている。

〈自然〉への回帰

未開の神話的思考が、自然からの文化の発生という物語に力点を置いているのに対し、文明の神話的思考は、むしろ失われた自然への回帰に力点が置かれる。しかし、自然/文化という二元論の構造自体は不変である。神話が繰り返し語ってきたのは、始原の時代に、火の使用などに象徴される「文化」を手にすることで、「自然」よりも優位に立つことができた人間が、同時に、たとえば永遠の寿命を失うなどの代償を支払うことになってしまった、という物語である。そこには、神話的な「自然」状態へ回帰することへの憧れが含意されており、人は、儀礼的な行為によって、その「自然」状態へ一時的に回帰することを試みる。

日本の現代技術史

たとえば、日本の場合、戦後の復興、高度経済成長期には「文化住宅」に住み「文化鍋」を使うという生活が憧れであった。しかし、1980年代に入って、グルタミン酸ナトリウムを主成分とする「味の素」を代表とする「化学調味料」がイメージの転換のため、「うまみ調味料」と名前を変えたあたりから、状況は逆転していった。

現在では、合成着色料を添加していない、天然酵母のパンや有機野菜などの自然食品を食べ、自然分娩を行うことが健康で良い暮らしだという観念が支配的になりつつある。高度経済成長期に「第二の火」として、躍進する科学=技術の象徴のように語られた原子力は、相次ぐ発電所の事故などを経て、やがて、現実の物理的・生理的危険性とは別次元で、行きすぎた「文化」、つまり人間によってはもはや制御不能になった科学=技術の象徴として嫌悪されるようになる。それと同時に、太陽光発電のような「自然」エネルギーへの回帰が叫ばれるようになる。

神話と疑似科学

現代の神話的思考は、科学の思考と共通する、あるいは類似するタームを使うので、科学の思考と見分けるのが難しい。しかしそれを科学の思考と混同するのも誤りだし、「疑似科学」というレッテルを貼ってア・プリオリに排斥するのも早計である。(「神話」という言葉は、「誤っているのに根拠もなく信じられているもの」を指し示す言葉として使われつづけているが、これはギリシア語の語源、μθοσ(ミュートス)に由来する。)

例を挙げるなら、現代の「文明」社会の中で動いている神話論理の用語に「有機/化学」=「自然/文化」がある。有機野菜とか、化学調味料とかいう文脈で使われる用語である。科学の用語であるなら、有機 organic の対概念は無機 inorganic であり、両方あわせて上位概念である化学的 chemical な領域をかたちづくる。このような用語の借用による混乱が現代の神話的思考を見えにくくしているのだが、注意深く分析すれば、われわれの生活の中でも、日々、神話がせっせと思考している、その息づかいを目の当たりにすることができる。

逆転する二元論

世界各地の諸文化でみられる二元論の中で、典型的な例として、インドネシア・バリ島の象徴的二元論がある。

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バリ島文化の象徴的二元論(→「象徴としての世界 −バリ島民の儀礼と世界観− (改訂版)」)

現代文明社会にも、似たような二元論が存在する。

自然 nature 文化 culture
天然 natural 合成 artificial
有機 organic 化学 chemical
生のもの cru 火を通したもの cuit
裸 "naturism" 着衣
黒(玄) black 白 white
左 left 右 right
woman 男 man
有徴 marked 無徴 unmarked

現代文明における二元論のより深い部分は、象徴的二元論の基本である「左/右」や「黒/白」などの概念とも結びついている。が、その価値が逆転していることが多い。

たとえば、かつては白米が豊かな生活のシンボルだったが、現在は白米よりも玄米のほうが健康に良いという言説が一定の支持を集めている。たしかに玄米のほうがビタミンは豊富であるから、どちらかといえば健康によいだろう。しかし、そこには「黒(玄)/白」という、野生的二元論のシンボリックな逆転を見て取ることができる。自然食品という観念体系においては、玄米食有機農法が同じカテゴリに分類される。

ローフード(raw food)とは、火を通さない生ものだけを食べるという思想実践である。これは神話論理の基本である「生のもの cru/火を通したもの cuit」の逆転である。裸体主義は英語ではnaturism(直訳すれば自然主義)ともいうが、動物が服を着ないように、人間も全裸で暮らそうという思想実践である。 ローフードと裸体主義が日本では強い思想になりえないのは、日本の社会が全裸で温泉に入り、刺身を食するような特異な文化だからかもしれない。

またこのような象徴論が、エコロジー(自然の復権)やフェミニズム(女性性の復権)という世界観とも結びつきが強く、また政治的には「左」と結びつく傾向がある。ただしこの「左」は、貧しい労働者・農民階級の立場ではなく、ある程度「文明」の恩恵を受けている、中産階級を中心とした思想である。

つまり、野生の神話と文明の神話は、有徴(marked)と無徴(unmarked)の構造は保たれたまま、要素だけが逆転しているとみることができる。そして、善悪の価値が反転しているようにみえても、両者に共通している根本的なテーマは「自然」という理想状態への郷愁 saudade である。この理想状態は、文字通りの意味での自然状態ではない。「自然」な出産や子育てを志向する観念は、あくまでも象徴的な観念であって、たとえばゼロ歳児死亡率が三割だったという、過去にあった歴史上の自然状態ではない。ここで仮定されている「自然」とは、一度「文化」的存在になってしまった人間が、決して回帰することのできないエデンの園なのである。



CE2010/0511 JST 作成
CE2021/01/18 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「人類学B」2021/01/18

人類学Bの講義は、これで最終回になります。

前回の講義では起源神話における<自然>から<文化>の分離という、すこし抽象的でわかりにくい話になってしまいました。

今回は最終回なので、半年の授業(→「人類学B 西暦2020年度」)を振り返りたいのですが、おおよそ、最初は自然人類学から始めて、徐々に文化人類学社会人類学へと話を進めてきました。

人間もまたヒトという動物であり、生態系の中で、植物や動物を食べて分解し、それをエネルギー源にして生活しています。有性生殖を行い、遺伝子を組み換えながら、遺伝子のコピーを残してきました。

しかし同時に、人間は文化を持った動物でもあります。有性生殖は婚姻という文化によって意味づけられます。人類の祖先は神様のような超自然的な存在によって創造され、あるいは、肉体の死後も霊魂は存続するという宗教的な観念も持っています。

人間は、文化を持ち、技術によって自然状態を改変し、生物としてより快適な生活を行い、より多くの子孫を残せるように、進化してきました。しかし逆に、文化が生物学的な生存や繁殖を妨げてしまうこともあります。

とりわけこの数百年、数十年の間に、科学に裏付けられた技術が発展し、それは人間の生活を飛躍的に豊かにしましたが、その反面、生態系のバランスが崩れ、逆に人間の生活が脅かされるという事態も生じつつあります。

多くの「未開」社会や伝統社会が、<自然>から<文化>が発生したことのほうを重視する神話的世界観を持つのに対し、技術が発展した近現代社会では、逆に、行きすぎた<文化>から<自然>への回帰という観念が重視されるようになってきました(→「文明社会の神話的思考」)。

もちろん、いまさら、高度な技術に支えられた文明社会をすべて放棄して自然に還るわけにはいきません。しかし、一見、原始的なようにみえる「未開」社会の文化を研究することは、文明の行き過ぎを自省するための参考にもなるでしょう。

人類学は、自然科学と人文・社会科学の橋渡しとして、こうした問題を、浅くではあっても広く概観する視点を提供してくれる学問だということができるでしょう。

期末レポートについて

教室での期末試験は行いません。その代わりに、Oh-o!Meijiシステムを通して期末レポートを提出してもらいます。授業の内容について、簡単に論述してもらう形式にします。

問題は「『人類学B』 2020年度 秋学期 期末レポート課題」にもアップしました。



CE2021/01/17 JST 作成
CE2021/01/26 JST 最終更新
蛭川立

【講義ノート】「身体と意識」2021/01/15

冬休み明けで、授業再開です。今回と、そして来週、22日で、授業は完結します。

VR、バーチャルリアリティーの話の続きでした。寒い日が続くと、人間は元気がなくなり、ウイルスは元気になります。緊急事態宣言の再発令と、先行きの不透明な状況が続きますが、外出自粛生活の中で、おうちで○○、といえば、なんと言っても、おうちでVRです。

私事ながら、冬休みには、新製品、VRHMD装置である、Oculus Quest 2を買ってしまいました。これは、今が買いです。(→「個人用VR器機」)今までの機種と、性能的にはあまり変わらないのですが、専用のPCも不要で、有線のケーブルでつなぐ必要もなくなったので、ずいぶんと使い勝手がよくなりました。

VRについては、百聞は一見にしかずです、器機の話について、これ以上詳しくは議論しませんが、まずはじっさいに体験することをお勧めします。秋葉原のお店などでも体験コーナーがありますが、いまの感染症の状況下では、ちょっと難しいですね。

歴史を遡れば、OculusやVIVEのような個人用のVR器機が出揃った2016年ごろが、VR元年と呼ばれたりしました。もちろん、VR技術自体はもっと以前からあったのですが、ここは(→「『VR元年』略史」)をご一読ください。

唯物論と唯心論

さて、哲学の話に戻ります。

「月は見ていないときには存在しないのか」という、禅問答のような議論があります。

たとえば、いまは夜で、部屋の中にいるとします。窓があります。カーテンを開けて、窓の外を見ると、月が見えます。いまはちょうど新月なのですが、いまは思考実験です。夜空には雲がなく、満月が輝いていると、そういう光景を想像してください。

窓の外を見ると、夜空に、丸い月が煌々と輝いています。そして、カーテンを閉めて、部屋の中に目を戻すと、部屋の中が見えます。カーテンを閉めると、月は見えません。

もう一度、カーテンを開けて、窓の外を見ると、夜空には、満月が見えます。空には雲がなく、月の光を遮るものはありません。

さて、と、哲学者は考えます。カーテンを開けて、月を見ているとき、月はたしかに夜空に存在しています。では、カーテンを閉めて、月を見ていないときにも、月は、カーテンの向こうに、存在するのでしょうか。存在するに決まっていると、ふつうは考えます。というか、わざわざ、そんなことは考えないのがふつうです。

ところが哲学者というのは理屈っぽいものですから、カーテンを閉めているときに、月が存在するということを、どうやって確かめるのか、と問いかけてきます。カーテンを開ければ、月が見えます。見えているということは、存在しているということです。しかし、見えていないときにも、存在するといえる根拠はありません。といって、存在していないともいえません。

唯物論(狭義の「実在論」)の立場は、シンプルです。見ていても、見ていなくても、月はいつでも存在します。見ているときには、月は見えるし、見ていないときには、月は見えない。当たり前ですね。

ところが、その反対に、唯心論という立場もあります。月は、見ているときには、存在し、見ていないときには、存在しない、と考えます。夜空に浮かんでいる月は、見ている人の意識が作りだしている、と考えます。月は、地球の衛星です、巨大な岩の塊です、そんなものが、カーテンを開けた瞬間に形成され、カーテンを閉めた瞬間に消滅し、またカーテンを開けた瞬間に形成される。これは、とてもおかしな話です、屁理屈です。しかし、論理的には可能ですし、反証する方法もありません。

唯物論や唯心論については(→「インド・ヨーロッパにおける心物問題の略史」)のほうで。詳しく議論しました。

意識が世界を創り出している。これは、この授業でも何度も触れたものですが、最初にわかりやすい例として挙げたのが、寝ているときにみる夢です。夢の中では、いろいろな風景を見ます。夢の中で、月を見ることもあります。しかし、その風景は、意識が作り出しているものです。だから風景の中にある月も、意識が作り出しているものです。

そして、夢を見ているときは、夢の中にいるときは、その夢を現実だと思っています。すぐ後で触れますが、夢の中で誰かに追いかけられたり、襲われたりするのは、本当に怖いものです。夢の中にいるときには、それが現実だと信じて疑わないからです。もし、夢の中にいるときに、これは現実ではない、夢なのだと気づくこともあります。これは、明晰夢という、特殊な夢です。(→「明晰夢」)

しかし、悪夢を見ていて、はっと目覚めることがあります。はっと目覚めると、ついさっきまで見ていた夢の世界は、瞬時にして消え、目の前には、いつもの部屋と、自分が寝ている布団や枕が見えるでしょう。これこそが現実の物理世界であり、いままで見ていた悪夢は、幻覚にすぎなかった、というわけです。

しかし、目が醒めたあとで見える、布団や枕のある見慣れた光景、これが夢ではないといえるでしょうか。寝る前にも同じ布団が見えていたし、起きた後にも同じ布団が見えていたのだから、夢ではなく客観的実在だろうと言えそうなものですが、布団や枕という夢の世界で、さらに一段階夢を見ている可能性もあります。

偽りの目覚め(false awakening)という体験もあります。夢から目覚めて、起きて、歯を磨いていたら、実はそれもまた夢で、次の瞬間にはまた目覚め、起きて、歯を磨く、というのも、また夢かもしれません。

そもそも、寝ているときの夢のほうが現実で、現実だと思っている世界のほうが夢かもしれない、という、逆を考えることもできます(→「『荘子』(胡蝶之夢)」)

このあたりまで話を聞いて、だから何なんだと、嫌になる人も多いでしょう。そんな議論をして、何の意味があるのでしょう。

もっとも近年の哲学では、第三の立場、そんな形而上的な議論には意味がない、月は存在しようが、しまいが、関係ないという、実証主義実用主義が有力です。

「仮想現実」の存在論

VRは、もっぱらゲームとして使われています。アメリカ人の男の子向けに作られたゲームが多いのですが、襲ってくる敵を、銃で撃ち殺すという、暴力的なコンテンツが多いのが実情です。せっかくのVR技術を、暴力を楽しむためにばかり使うのは、とても残念なことです。

たとえば、次々と襲いかかってくるゾンビの群れを、片っ端から撃ち殺すというゲームがあります。たかがゲームのようで、その世界に没入すると、本当に怖いものです。(→「他界体験と仮想現実」『人文死生学宣言ー私の死の謎ー』)しかし、本当に恐いのは、ふっと後ろをふり返ったときに、すぐ後にゾンビがいたときです。それはもう、思わず悲鳴を上げて身をよじってしまうほどです。

VRのゴーグル、ヘッドマウントディスプレイ、略してHMDは、眼鏡のような形をしていますが、いままでの3Dメガネとは、まったく違います。その違いというのは、頭を上下左右に動かしたときに、それに追従して画像が処理され、あたかも360度の空間にいるように錯覚してしまうことです。ゾンビは前からも襲ってきますが、後からも襲ってきますから、しょっちゅう後を振り向いて、後からやってくるゾンビも撃ち殺さなければなりません。

しかし、後からゾンビに襲われないようにするための裏ワザがあります。簡単です。それは、後を振り返らないことです。

後を振り返ると、すぐそこにゾンビがいることに気づいて、それはとても恐いのですが、タネを明かせば、頭が後を振り返るという動作をHMDに内蔵されている加速度センサが感知して、後ろ側の世界を計算し、後にいるゾンビの姿を計算し、ディスプレイに表示させるのです。つまり、後を振り返らなければ、そこにはゾンビは存在しません。後を振り返るから、ゾンビが存在する[ように見える]のです。

ここで、「月は見ていないときには存在しないのか」という哲学的な問いが、「ゾンビは見ていないときには存在しないのか」という問いに、置き換わります。置きかえてみると、いままでの哲学が何を論じてきたのか、ということも理解しやすくなりますね。

現代物理学は唯心論なのか

いや、月と、VRの中にいるゾンビは、違う、という意見もあるでしょう。とても健全な意見です。月は地球の衛星ですが、ゾンビはゲームの中だけの存在ですから。

月は実在する。誰も見ていなくても実在する。そんなのは当たり前だと、ずっと唯物論で問題なく続いてきた近代科学ですが、20世紀になり、顕微鏡でも見えないような小さな世界、ミクロの世界では、電子や光子など、素粒子レベルの世界では、物質の振る舞いは、唯物論に依拠した古典力学では説明できないということがわかってきました。

事実とはすこし違うのですが、ごくごく簡単に言えば、素粒子は、見ているときには存在するが、見ていないときには存在しないことがわかってきたのです。より正確にいえば、存在しているのと、存在していないのの、中間的な状態にあって、観測すると、素粒子として姿をあらわすのです。

20世紀に登場した新しい物理学、とくに量子力学の世界観は、月は見ていないときには存在しない、という、唯心論的な発想に親和的なところがあります。これは、物理学の基礎知識がないと、なかなか難しいので、また来週、もうすこし説明しますが、別の場所に解説(→「現代物理学と心身問題」)を書いておきました。

シミュレーションとしての世界

ところで、VRゾンビゲームで、迫り来るゾンビから完全に逃げるための、もっと抜本的な解決策があります。それは、後を振り返らないことではなく、VRHMDを外してしまうことです。VR世界では、どんなに恐いことがあっても、とにかく外せばすべての仮想世界から解脱できます。

寝ているときにみている夢と同じです。悪夢から逃げたければ、目を覚ませばよいのです。しかし、これも偽りの目覚めで、目覚めている世界も、また夢かもしれません。

同じように、VRHMDを外した世界もまた、ある種のゲームの世界である、コンピュータシミュレーションである、という、映画『MATRIX』のような仮説もあります。(→「シミュレーション仮説」)本当かどうかは別にして、この仮説は論理的には可能です。夢から醒めたと思ったら、またその世界も夢だった、といえるのと、同じような論理です。

古代のインド哲学では、その、主流派の学派は、ですが、目の前に見えている世界は、夢のような幻であり、そこから覚めなければならない、と説いてきました。たとえばゾンビに襲われて怖がっているのも、そのゾンビがゲームのプログラムによって作られたグラフィックにすぎないこと、振り返らなければ出現しないこと、HMDを外せばゲーム自体から脱出できること、そう置きかえてみると、昔のインドの神秘的な哲学が、近未来情報技術の文脈で、理解できるようになります。

だんだん話が大風呂敷になってしまいましたが、唯心論的物理学と、シミュレーション仮説については、また次回に、半期の授業のまとめとして、論じていきます。

(来週、最終回に続く)



CE2021/01/14 JST 作成
CE2021/01/21 JST 最終更新
蛭川立

引用文献の書式について

2020年までの記事では、日本心理学会方式を目安にしていましたが、2021年からは、著者名をすべてフルネームで列挙する書式に変えました。筆頭著者だけは、姓を先にするかどうか、検討中です。

欧文論文

新書式

旧書式

【講義ノート】「人類学B」2020/12/21

https://www.meiji.ac.jp/koho/6t5h7p00000vgfy1-att/6t5h7p00001m6udj.pdf
上記リンクの学年暦にありますとおり、この人類学Bの授業も、今回を含めてあと二回となりました。

今回から、最終回にかけては、神話という世界観について議論していきます。神話というと、ギリシア神話や、北欧神話のような世界を思い浮かべる人もいるかもしれません。いろいろな登場人物が出てきて、戦ったり、恋をしたり、そうやって物語が展開していきます。あんがい、ゲームの世界を通じて親しんできた人も多いようです。

人類学では「神話」とは、たんなる昔話ではなく、世界や人間の起源を説明する物語のことをいいます。ヤマトタケルのような英雄伝説なども神話の一種ですが、狭い意味での神話というと、創世神話のことです。

結論を先取りすると、神話は「自然」と「文化」の二元論の成立を説明する物語です。神話の構造主義的な解釈です。

人間も動物です。食べものを食べて、生殖をしたり、しなかったり、そして、病気になったり、年老いたりして、死んで、自然に還ります。

しかし、人間は、そのことに意味づけしないと納得しない、そこが、人間がほかの動物とは違うところです。人間は精神文化を持ちますが、その基本にあるのが、神話的な世界観です。

なぜ頑張って畑で働いたり、物を作ったりして働かなければ生きていけないのだろう、そして、どんなに居心地の良い場所に住み、美味しいものをたくさん食べ、親族や友人たちと楽しく過ごせても、最後はどうしても死ななければなりません。

創世神話は、その理由を説明する物語です。子どもは、あまり働かなくても、周囲の大人たちに養ってもらえますし、歳をとって寿命がくるなどとは考えないものです。その比喩で、典型的な創世神話は、誕生したばかりの人間は、半分は神様のようなものであり、働かなくても食べていくことができるし、不老不死だったのが、なにかの失敗をきっかけにして、寿命が有限になってしまい、働かなければ食べていけなくなった、と説明します。祖先の時代に、そういうことがあったからだ、というお話にして、納得するわけです。

どんな民族にも似たような神話があり、もちろん日本にも神話はあります。古事記日本書紀の最初のほうは、歴史というよりは、神話です。しかし、日本の神話は、それほど強い失敗の物語はありません。

強い失敗、いわゆる原罪の神話は、聖書に記録されています。もとをたどると、古代のヘブライ人の神話です。

神の似姿として造られた人間は、最初はエデンの園という世界に住んでいて、働く必要もなく、服を着る必要もなく、永遠に生き続けることができたのですが、神様との約束を破ってしまったために、服を着て働き、寿命がくれば死ななければならない存在になってしまいました。これは、世界各地にある創世神話と、同じ構造を持っています。

ただし、そういう創世神話から発展したキリスト教という宗教ですと、原罪、先祖が神様との約束を破ってしまったことを悔い改めれば、また永遠の生命を取り戻して楽園で生きることができる、という救済の物語があります。たんなる神話だと、過去の失敗を説明するだけですが、宗教は、救済の方法を示します。もちろん、これらの物語は、文字どおりにとれば史実ではないのですが、宗教が哲学へと発展する中で、人間の精神的な救済という物語へと、理解されていくわけです。

また、前置きが長くなりましたが、それが、今までお話してきた、西太平洋諸島の文化では、どうなのか、具体例を見てみましょう。

今日のメインテーマですが、まずは、「神話の構造(オーストロネシアと古代日本)」を一読してください。ここに、日本を含む西太平洋諸島の神話について書きました。どの社会にも神話はあり、日本やヘスペロネシアなど、地域的に近い場所には、似たような神話があります。ストーリー的には荒唐無稽なものが多いのですが、いろいろな地域の神話を比較してみると、原始的自然状態の人間が、ある失敗によって、文化的制約を受けることになる、という同じテーマが繰り返されていることがわかります。

ちなみに、地域は飛びますが、南米、アマゾン川流域の先住民族の神話のことを「起源神話における時間対称性の破れ」に書きました。いきなりアマゾン?というと遠い世界のようですが、もともとは東アジアから移住した人たちですから、雰囲気も似ていますし、文化的にも、太平洋諸島の人たちと似ています。きっと、縄文時代の日本人も、こんな感じだったのかな、と思います。ふつうに日本人的感性を持っていれば、ちょっとシャイで、ふつうに親しめる人たちです。

リンク先のコンテンツだけでも、かなり濃厚で、難解です。今日の授業は、これぐらいにしましょう。今日の授業は、と申しますか、質問の受付範囲ですね。

ちなみに今後、というか、最後のほうは、この、昔の神話の話から、現代の都市文明に生きる人たちの話へ戻ってきます。人類学は、異文化、未開社会の研究であると同時に、自文化、文明社会を映し出す鏡でもあります。そして、私や、皆さんの多くもそうでしょうが、東アジアの文明に生きる人間には、また独自の立ち位置があります。

すこしおまけですが、日本の基層文化は西太平洋諸島とつながりが深いというところに注目して話を進めてきました。しかし同時に、東アジアにおける歴史的文明、中華世界のことも視野に入れる必要があります。中華世界とは、漢民族という単一の民族ではなく、漢字という文字を共有することで、黄河や長江流域で混交しつづけ、朝鮮半島や日本列島などの周辺地域をも含んで発展してきた、ひとつの世界システムのことです。象徴的分類にもとづく世界観を、二元論を超えてさらに発達させた社会もあります。

漢民族を中心とする中華世界の世界観の概論は「陰陽五行の世界観」にまとめました。ご参考までに。

現代の文明社会においても象徴的な二元論は人間の世界観・コスモロジーの背景にあり、人々は神話的思考をつづけています。そのことは、最後の授業でとりあげます。



CE 2020/12/20 JST 作成
CE 2020/12/21 JST 最終更新
蛭川立